第2話 帰る場所は、自分で決めます
目覚めると、朝日がカーテンの縁を白く染めていた。
耳鳴りがない。
隣の長椅子では、レオンハルトが私の手首へ指を置いたまま眠っている。昨夜より血色がよく、眉間の深い皺も消えていた。
私が身じろぎすると、彼はすぐに目を開けた。
「朝か」
自分の手を見て、彼は慎重に指を離した。
「八年ぶりに、夜を越えて眠った」
それだけ言うのに、声が掠れた。
ほどなく主治医が訪れた。オリヴィエと名乗った初老の医師は、レオンハルトの脈と瞳孔を診てから、私にも簡単な魔力測定を行った。
「閣下は八年前、国境戦で感覚反転の呪いを受けました。音も匂いも触覚も、脳へ届く前に激痛へ変わる。生きるため、御自身の魔力で感覚を塞いでおられます」
医師は測定石に残る細い光を示した。
「リゼット様の魔力は揺れが少ない。手首の脈に乗った波だけが、閣下の封印を傷つけず通ったのでしょう。理由の断定はできませんが、昨夜の睡眠は事実です」
レオンハルトは医師が去るまで黙っていた。
説明を聞く間も、彼は時折こちらを見た。昨夜眠れたことより、私がこの話をどう受け取るかを気にしているようだった。
私は朝食のパンへ手を伸ばしたが、指先の震えでうまくちぎれなかった。家を出た翌朝、知らない城で雇用の話をされている。頭は冷静なつもりでも、体は追いついていない。
レオンハルトは何も言わず、パン籠を私の手の近くへ寄せた。切り分けることも、世話を焼くこともしない。その距離がありがたかった。
扉が閉まると、彼は私の前へ一枚の紙を置いた。
「残ってほしい。安眠の補助として正式に雇う。衣食住と、相場を大きく上回る報酬を用意する」
胸が跳ねた。行き先は修道院しかないと思っていた私にとって、破格の申し出だった。
けれど、すぐには返事ができなかった。
その沈黙を拒絶と受け取ったのか、彼の手が机の端をつかむ。木目に白い霜が浮きかけ、すぐ消えた。
「強制はしない」
私は紙を引き寄せた。羽根ペンを握る指が、少し震えている。
「条件があります」
「言ってくれ」
最初の一語が出た後、次が続かなかった。父の前で願いを口にすれば、わがままと切り捨てられた。アーヴィンへ休みたいと言えば、妻になる覚悟がないと笑われた。
羽根ペンを握り直す。
レオンハルトは急かさず、向かいの椅子へ座った。机を挟んだまま、私が話し始めるのを待つ。
「私室の鍵は、私が持ちます。触れる必要がある時は、先に声をかけてください。仕事と報酬は書面にして、私が出たい時には契約を終えられるようにしてください」
一息に言い切ると、喉が乾いた。
「それから、常に誰かを付けるのはやめてください。必要な時に女性使用人を呼べれば十分です」
レオンハルトは紙へ目を落とした。値切るための沈黙ではなかった。四つの条件を自分で書き写し、署名欄を作る。
「七日間の試用にしよう。合わなければ報酬を支払い、安全な住まいまで送る」
「公爵様に不利ではありませんか」
「君が安心できなければ、眠りの話以前の問題だ」
私はようやく息を吐いた。
法務官のユリウスが呼ばれ、条文を整えた。私は一項ずつ読み、最後に自分の名を書いた。父の代理でも、婚約者の許しでもない。私の署名だった。
「七日間、お願いいたします」
レオンハルトも署名し、北境公爵家の封蝋を押した。
ユリウスは契約書を同じ内容で二通作り、一通を私へ渡した。
「御自身で保管してください。公爵家の文書庫にある写しと同じ効力を持ちます」
私は折らず、革の書類挟みへ収めた。自分の手元に契約が残る。それだけのことが、ひどく心強かった。
解除条項だけは、声に出して二度読んだ。七日の途中でも私から終えられること。終了を告げた日から報酬を減らされないこと。移送先は公爵家ではなく、私が選ぶこと。
「ここへ、理由は要らないと加えられますか」
私が指したのは、契約終了の通知欄だった。
ユリウスは一瞬だけレオンハルトを見た。レオンハルトは迷わず頷く。
「本人の通知のみで成立、としましょう」
書き足された一行へ、三人で訂正印を押した。残ると決める前に、出ていく道が紙の上へできた。
昼には客室が整えられた。鍵は銀の輪に一つだけ付けられ、私へ渡された。女性使用人たちは用が済むと、噂話も詮索もせず退室した。
危険だと聞かされてきた男の城で、私は初めて扉を自分で閉めた。
客室は東翼の端にあり、窓の下には雪をかぶった中庭が見えた。廊下を通る使用人は足音を抑え、必要な連絡は小さな札で知らせる。もともとレオンハルトのために整えられた城の暮らしが、私の感覚にも合っていた。
昼食の後、私は鍵をかけたまま一刻ほど眠った。目覚めても誰も部屋へ入っておらず、置いていた櫛も書類挟みも同じ場所にある。
夕方までに、必要な女性使用人の呼び鈴の位置、食事の時間、城内で立ち入りを避ける場所を教えてもらった。細かな決まりを自分で尋ねられることも、ここでは許されていた。
案内役の侍女は、食堂へ行きたくなければ部屋へ運べること、廊下で人と会いたくない時は札を下げれば別の道を使ってもらえることを説明した。
「閣下の発作に合わせて作られた仕組みですが、御客様も使えます」
誰か一人の苦痛を面倒と切り捨てず、城の側を変えてきた跡がある。
窓辺には、使われていない小さな刺繍枠が置かれていた。私は侍女に頼み、代わりに図書室から本を二冊借りてもらった。自分の部屋で何をして過ごすかまで、初めて自分で決めた。
夕暮れ、廊下へ出ると、レオンハルトが少し離れた窓辺に立っていた。待っていたのだろう。それでも私の部屋へ近づかなかった。
「リゼット」
「はい」
彼は手を伸ばしかけ、拳へ変えた。
「今夜も、近くにいてくれるか」
私は腰の鍵に触れた。
「契約の範囲で。私も、昨夜はよく眠れましたから」
灰色の目が、ほんの少し和らいだ。




