第1話 婚約破棄された夜、静かな男に拾われる
「君との婚約は、この場をもって破棄する」
アーヴィン・ラーデンの声が、錆びた刃になって耳の奥を引っかいた。
クラウゼル伯爵家の冬館で催された北方貴族の冬夜会。楽団が演奏を止めた広間へ、驚きと好奇心が一斉に膨らむ。誰かの愉悦は針の雨に、別の誰かの打算は甘く腐った匂いになって、私の皮膚と喉へ押し寄せた。
私は卓の縁をつかんだ。倒れれば、また怠慢だと言われる。
「人前に立つたび具合を悪くする妻では、ラーデン家を任せられない。互いのためだ、リゼット」
互いのため、と言いながら、彼の口元には安堵があった。面倒な婚約者を捨てられる安堵だ。
「アーヴィン殿の判断はもっともだ」
父が進み出た。声に混じる乾いた砂の感触は、幼い頃から変わらない。
「今夜は冬館を出て、町の宿へ行け。明朝、親族の修道院へ移す。そこで療養しろ」
足元に革袋が落ちた。銀貨が三枚、鈍い音を立てる。外套も荷物も、馬車の手配を確認する言葉もなかった。
広間の端で、継母が扇を閉じた。こちらを見ようともしない。楽団員は弓を下ろしたまま、再開の合図を待っている。誰も父の言葉を聞き違えてはいなかった。
アーヴィンは胸元の婚約章を外し、卓へ置いた。私が十六の時、両家の前で渡された銀の章だ。
「役所への届けは明朝出す。持参金の清算は父上同士で進めてもらう」
そこまで用意しておきながら、彼はこれを衝動だったと言うのだろうか。
私は革袋を拾った。
泣けなかった。けれど、背を向けた瞬間、肺の奥に初めて空気が入った。
(もう、この人たちの音を聞かなくていい)
その安堵だけを抱いて、私は広間を出た。
冬館の玄関で、夜番の使用人は目を合わせなかった。
「町への馬車は?」
「この雪では戻りません。宿までは旧街道を半刻ほどです」
背後で扉が閉まった。
庇の下で待つことも考えた。けれど、玄関の内側から閂が下りる音がした。窓の向こうでは楽団が演奏を再開し、何事もなかったように明るい光が揺れている。
私は銀貨を握り、町の方向を示す道標へ向かった。
雪はまだ細かった。町の灯も、木立の向こうに滲んで見えた。だから歩けると思った。
けれど北境の天候は、屋敷の都合など待ってくれない。
風向きが変わると、町の灯は白い壁に呑まれた。薄い夜会服の裾が雪を吸い、脚に絡みつく。指先は曲がらなくなり、息を吸うたび胸が痛んだ。
人の魔力が遠ざかったぶん、頭の中は澄んでいた。こんなにも楽に呼吸できるのに、体は一歩ごとに冷えていく。
道標を確かめようとしたところで膝が折れた。
雪の上へ手をつく。立たなければと思うのに、腕に力が入らない。
やがて、風とは違う音が近づいた。
初めは幻聴だと思った。吹雪の中で何度も立ち上がろうとし、もう腕にも脚にも感覚がなかったからだ。けれど、規則正しい蹄の振動が雪越しに伝わってくる。
馬の鼻息。雪を踏む蹄。短く交わされる男たちの声。
「前方に人影!」
ランタンの光が揺れ、黒い外套の男が馬を下りた。銀の髪、肩に留められた北境公爵家の狼章。彼が三歩の距離まで来たところで、私は寒ささえ忘れた。
何も、刺さらない。
人が近づけば必ず起こる魔力のざわめきが、彼からは届かなかった。凍った湖の底を覗き込んだように、深いところまで澄み切っている。
「意識はあるか」
低い声も痛くない。
男は片膝をつき、革手袋を外した。伸ばされた手が、私に触れる寸前で止まる。
「立てるなら、手を」
私は自分から、その手を取った。
冷たい。けれど、嫌ではなかった。むしろ彼のそばへ一歩近づいただけで、頭蓋の内側に残っていた夜会の残響が薄れていく。
「家を出されました。町の宿へ向かう途中で……」
男の目が冬館の方角へ向いた。空気が一瞬だけ鋭く冷えたが、問い詰める代わりに彼は背後を振り返った。
「グレン、先に城へ知らせろ。医師と女性使用人を待機させろ」
「はっ」
「君を北境城へ運ぶ。このままでは宿まで保たない」
拒む理由はなかった。私は頷き、彼の外套に包まれた。
男は私を馬の前へ乗せ、自分の外套の留め具を私の肩側で閉じた。厚い布の内側へ雪は入らない。後続の騎士が松明を近づけようとすると、彼は顔をしかめ、手だけで距離を示した。
音を聞けない主に合わせ、騎士たちは声ではなく光と手信号で動く。先頭の灯が二度揺れ、隊列がゆっくり方向を変えた。
「眠っていい」
耳元へ届く声に、雑音は混じらない。
「お名前を……」
「レオンハルトだ」
北境でその名を知らない者はいない。恐れるべきだと教えられてきた相手の腕の中で、私は初めて安心して目を閉じた。
馬上で背を支える腕からも、濁ったものは流れ込んでこない。雪と馬の揺れだけを感じながら、私は意識を手放した。
次に目を開けた時、暖炉の火が見えた。
乾いた寝衣に着替え、客室の寝台へ横たえられている。枕元にいた年配の女性が、目覚めた私へ水を差し出した。
「侍女たちが着替えをお手伝いしました。凍傷は軽いそうです」
礼を言いかけた時、廊下で金属の盆が落ちた。
その音と同時に、隣の応接間で椅子が倒れる。
黒い外套の男――レオンハルト・ノルディス北境公爵が、壁へ片手をついていた。顔から血の気が引き、もう片方の手で耳を塞いでいる。床に散った匙の音も、暖炉の匂いも、衣服が肌へ触れる感覚も、彼には刃になるらしい。
副官のグレンが、音を立てないよう膝をついた。触れることはできないらしく、苦しむ主のそばで拳を握るばかりだった。侍女は暖炉の扉を閉じ、香草湯の盆を廊下へ下げる。城の者たちは慣れている。それでも、できることがない顔をしていた。
「閣下、医師を」
「来させるな」
声を絞り出しただけで、こめかみに青い筋が浮いた。
私は寝台を下りた。足元がまだ頼りない。けれど彼に近づくほど、私の耳は楽になり、彼の周囲で荒れていた魔力もわずかにほどけていく。
「来るな」
彼は私を傷つけまいとしている。そのことだけは分かった。
私は手の届かない位置で止まり、掌を上にして差し出した。
「私からは、痛いものがしますか」
レオンハルトは答えず、荒い息を二度吐いた。それから震える指を伸ばし、私の手の上で止める。
私が頷くと、彼の指先が手首へ触れた。
トクン。
皮膚の下を打つ脈が、彼の指へ伝わる。
灰色の目が見開かれた。
「聞こえる」
「何が、ですか」
「君の……心臓が」
彼の肩から力が抜けた。浅かった呼吸が、私の脈を追うようにゆっくりになる。椅子へ座らせると、彼は手首から指を離せないまま目を閉じた。
ほどなく、規則正しい寝息が聞こえた。
グレンが信じられないものを見るように主を見つめた。
「閣下が……眠っておられる」
誰も動かなかった。椅子を運ぶ音で起こしてしまうのを恐れ、侍女は私の背へクッションを差し入れた。私は長椅子へ座り直し、手首の位置を変えないよう肘を支えてもらう。
自分の鼓動が、他人にとって何かを傷つけない音になるなど、考えたこともなかった。
彼の指は眠りが深くなるにつれて緩んだが、完全には離れなかった。私はその手を見下ろしながら、夜会で固まっていた肩が少しずつ下がるのを感じた。
北境を守る氷の魔王が、見知らぬ私の手に触れたまま眠っている。
私もまた、その傍らでは夜会の残響を一つも聞かなかった。
吹雪が窓を叩いていた。それでも私は、眠る彼の肩へ毛布を掛け、自分の手をそのまま預けた。
この人にも、私が痛くないのだ。




