第19話 冬夜会の扉を開く
春に婚姻式を終え、夏と秋が過ぎた。
婚姻式は城の礼拝堂で行い、北境の各砦と城下の代表だけを招いた。父の席は初めから用意しなかった。私は母の銀の髪留めを着け、自分で祭壇まで歩いた。
式の朝、侍女が「御実家からお迎えになる方は」と控えめに尋ねた。私はいないと答え、代わりに顧問室のミハイルと療養館の女性管理人へ、証人席へ座ってもらった。
血縁の空席を隠す花は置かなかった。そこには私がこの冬に出会い、自分で関係を結んだ人たちがいた。
公爵夫人となった翌朝、仕事部屋の札は『魔力感覚顧問 リゼット・ノルディス』へ掛け替えられた。変わったのは姓だけで、机も給与口座もそのままだった。
次の雪が降る頃、私は城下の登録工房で新しい補助耳飾りの試験に立ち会っていた。
試着した七歳の少年が、工房の小さな鐘を見つめる。
サイラスが最初に見せた記録の少年だった。始業鐘を恐れて学校へ行けなかったが、今日は母親と一緒に自分の足で工房へ来た。
耳飾りは私の物より小さく、音ではなく魔力波の急な立ち上がりだけを弱める。ミハイルが子どもの耳に合わせて留め金を三度作り直した。
「鳴らしてもいい?」
「あなたがいいと思った時に」
少年は自分で紐を引いた。
澄んだ音が一度鳴る。彼は耳を塞がず、驚いた顔で母親を見上げた。
「痛くない」
「もう一度鳴らしますか」
私が尋ねると、少年は少し考えて首を横に振った。
「今日は一回でいい」
「では、今日は終わりです」
サイラスは追加測定を提案せず、記録紙へ『本人希望により終了』と書いた。
母親が泣き、ミハイルは慌てて眼鏡を拭いた。
王都から来ていたサイラスは、測定表へ結果を書き込む。
「次の試験は一か月後を提案します。参加するかは、御家族と本人で御相談ください」
以前の整いすぎた声と同じなのに、言葉の置き方が変わっていた。
「リゼット様にも、継続して助言をお願いできますか」
「日程を見て返事をします」
「お待ちしています」
私は公爵夫人になっても、顧問の仕事を続けていた。補助耳飾りを着ければ工房も市場も歩ける。疲れれば休み、断る日は断る。
公務が重なる日は、顧問の予定を移す。逆に設備点検が必要な日は、晩餐会をグレンへ任せた。最初こそ驚かれたが、北境では誰がどの仕事をするかが明確な方が好まれた。
一度だけ、王都から来た儀礼官が「公爵夫人が工房へ出入りするのは体面に関わる」と進言した。レオンハルトが答える前に、私は翌月の設備事故件数と、顧問料から納めた税の額を見せた。
「どちらの体面が損なわれるのか、具体的に記録へ書いてください」
儀礼官は書けず、翌日から工房用の外套を置く場所だけが玄関に増えた。
レオンハルトは後で、その外套掛けを自分の物の隣へ移した。
城へ戻ると、玄関でレオンハルトが外套を受け取った。
「雪の匂いがする」
彼は私の髪へ顔を近づけ、目を細める。
「工房の油の匂いも少し」
「そちらは忘れてください」
「嫌ではない。君が働いてきた匂いだ」
感覚反転の呪いはほぼ消えていた。彼は風の音を聞き、茶の渋みを味わい、素手で私の頬へ触れられる。
回復は楽しいことばかりではない。雷鳴に眠れない夜も、人混みの匂いへ顔をしかめる日もある。そんな時は私が遮音幕を閉め、彼は私の補助耳飾りの調整を手伝う。どちらかだけが世話をされる形には、いつの間にかなっていなかった。
それでも私の帰宅時刻が近づけば、仕事を玄関近くの部屋へ持ってくる癖は治らなかった。
執務室へ入ると、机に北方会議の通知があった。
今年の冬夜会は、主催権を失ったクラウゼル家に代わり、北境公爵城で開かれる。私とレオンハルトが主催者になる。
紙へ触れた指が止まった。
冬夜会。大勢の視線。錆びた声。足元へ落ちた銀貨。
「断ってもいい」
レオンハルトは私の顔を見て、通知へ手を伸ばさなかった。
「北方会議には別の場を用意する。夜会である必要はない」
私はすぐに答えず、窓の外を見た。
指先に、あの時つかんだドレスの布が蘇る。大勢の感情が一斉に向いた時の針。誰も助けず、演奏だけが再開された広間。
机の下で手を握っていると、レオンハルトは答えを急かさず、自分の仕事へ戻った。断るなら断る、開くなら開く。私が言うまで待つつもりだった。
あの夜と同じ雪が降っている。
「開きます」
「証明する必要はない」
「誰かに証明したいのではありません」
私は通知の余白へ、必要な準備を書き始めた。
魔力を抑えた楽器を使う。広間の隣に結界を張った休憩室を置く。途中退席に許可は要らない。香油の使用量も案内状に記す。
食事は匂いの強い料理を一か所へ集めず、温度を保つ炉も出力を落とす。招待状には、介助者の同伴と補助具の持ち込みを認める一文を加えた。
夜会の作法を壊すと反対する者もいた。私は北境公爵夫人として命じるのではなく、主催者の条件として淡々と通した。
「以前の私が、こういう夜会なら少し楽だったと思うので」
レオンハルトは椅子を寄せ、招待客の人数を半分に減らした。
「多すぎる」
「あなたが減らしたいだけでは?」
「君と踊るところを百人に見せる必要はない」
「では八十人で」
「六十」
「七十で決まりです」
彼は不満そうに署名した。
夜会当日。
私は銀の髪留めを髪へ挿し、補助耳飾りを着けた。扉の向こうには楽団の調律と、人々の魔力が重なっている。
レオンハルトが腕を差し出した。
「行けるか」
私はその腕へ手を置いた。
「扉を開けてください」




