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婚約破棄された魔力過敏令嬢の心音だけが、氷の魔王公爵を眠らせる ~捨てられた夜に拾われ、安眠係として溺愛されています~  作者: 他力本願寺


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18/20

第18話 選ぶための婚約

城へ戻って一週間後、レオンハルトは私の仕事部屋を訪れた。


 手には指輪ではなく、薄い書類の束を持っている。


「先に、これを読んでほしい」


 婚姻契約の草案だった。


 通常の公爵家の契約なら、妻の財産は家へ組み込まれ、居住地も夫に従う。草案では、その定型部分がすべて引き直されていた。


 ユリウスの赤い注記が頁の端に並ぶ。『本人の職務契約と競合しないこと』『研究協力への同意を婚姻上の義務としないこと』『公爵夫人の公務は体調と本人の承諾を前提とすること』。


 レオンハルト一人が都合よく書いた紙ではない。法務官と何度も直した跡があった。


 私有財産は婚姻後も本人が管理する。魔力感覚顧問の職務は継続する。私室と居住の権利を保障する。契約解除を望む場合の手続きと生活資金も定める。


 最後の頁だけが白紙だった。


 私は草案へ青い札を挟み、翌日までかけて読んだ。


 婚姻後の姓は、ノルディスへ変えるか、クラウゼルを職務名として残すか、私が選べる。公爵夫人として署名する公文書と、顧問として署名する報告書を別にしてもよい。


 私は独立確認書を机へ並べた。ようやく自分の名だけで立てるようになったのに、結婚してすぐ別の家名へ隠れるのではないか。そんな怖さが、紙を読む間ずっと残っていた。


「姓を変えたくないなら、そのままでいい」


 レオンハルトは簡単に言った。


「北境公爵家の継承記録は困りませんか」


「婚姻記録があれば足りる。困ると言う者にはユリウスを送る」


 隣でユリウスが、送られる方の迷惑そうな顔をした。


 私は結局、婚姻後はノルディスを名乗ることにした。ただし独立前の職務記録と研究成果には、旧姓を併記する。草案へそう書き足した。


 捨てるためではない。これから共に作る家の名を、自分で受け取るためだった。


「私が離婚を望んだ場合の住まいまで用意するのですか」


「必要だ。出口のない契約へ、君が安心して入れるとは思わない」


「縁起が悪いと言われますよ」


「縁起より条文を信じる」


 いかにも彼らしい答えだった。


「そこは?」


「君が必要だと思う条項を書くために空けた」


 私はペンを取り、『双方の医療情報を、本人の許可なく契約維持の理由へ用いない』と書き加えた。


 さらに、公爵夫人の公務予定は月ごとに私の確認を受けること、体調だけでなく顧問職との重複を理由に断れることを加える。


 レオンハルトは私の字を追い、最後に自分の条項を一つ提案した。


『一方が退去を望んだ場合、他方は移動を妨げず、必要な荷物と記録を速やかに引き渡す』


「そこまでしますか」


「私は、城門で立っているだけで精一杯だった」


 鉄の手すりに残った白い痕を思い出す。


「次も止まれるように、先に書いておく」


 私は文末の『速やかに』へ線を引き、『本人が指定する期日までに』へ直した。急いで出るとも限らないからだ。


 レオンハルトは訂正を読み、初めて少し笑った。


「城門のことを、まだ覚えているのですね」


 レオンハルトが苦く笑う。


「忘れられないな」


「忘れなくていいと思います」


「ああ」


 彼は草案を閉じ、私の前に片膝をついた。


「守るための結婚とは言わない。君は自分を守れる」


 差し出された手が、わずかに震えている。


「これからの人生を、君と共に歩きたい。私の伴侶になってくれないか」


 私は手を重ねた。


「はい」


 返事をすると、彼はすぐに立ち上がらなかった。聞き違いを恐れるように、私の手を見たまま尋ねる。


「本当に?」


「同じことを二度言わせるのですか」


「何度でも聞きたい」


「では、もう一度だけ。あなたと結婚します」


 一言で足りた。


 レオンハルトは目を閉じ、私の指先へ額をつけた。冷気は漏れなかった。その代わり、握る手の熱が伝わる。


 ユリウスを呼び、二人で契約を完成させた。


 解除条項は互いに同じ条件とし、私の仕事部屋は婚姻後も私個人の使用区画とした。公務の代行者は私だけに固定せず、体調に応じて副官や侍従長へ割り振る。


「これで、公爵夫人になった途端に毎晩夜会へ出されることはありません」


 ユリウスが最後の頁を確認する。


「毎晩開くほど閣下に友人はおりませんが」


 レオンハルトが冷たい目を向け、私は笑いをこらえた。


 署名欄へ名を書きながら、私は言った。


「これで、正式にあなたの隣に立てます」


「立ってくれるのか」


「私が決めました」


 彼も署名し、二つの封蝋を並べた。


 婚約公告は王都と北方会議へ送られた。私の独立記録がすでに確定しているため、父の同意欄は存在しない。


 指輪は宝物庫から勝手に選ばれず、城下の工房で二人一緒に決めた。大きな宝石では仕事の邪魔になるため、私は細い銀環に青い石を一つだけ入れてもらう。レオンハルトも同じ意匠を選んだ。


「公爵の指輪にしては控えめです」


 職人が恐る恐る言うと、彼は私の手を見た。


「同じ物がいい」


 同じ便で、異能管理局から新しい研究協力案も届いた。居住の指定なし、参加はその都度同意、撤回自由。サイラスの署名がある。


 私は子どもたちの補助具試験だけ、最初の協力項目として選んだ。


 過去からは、もう何も届かなかった。


 公告の日の夕食には、城の者たちが小さな祝いの菓子を用意してくれた。グレンは無言で酒杯を上げ、ミハイルは炉の安全祝いも兼ねていると言い張った。


 レオンハルトは多くの声にまだ慣れず、途中で二度眉を寄せた。それでも席を立たず、最後まで私の隣で皆の祝いを聞いていた。


 夜、レオンハルトは私の手首へ二本の指を置いた。


「聞こえますか」


「聞こえる」


「必要ですか」


 彼は首を横に振った。


「好きだから聞きたい」


 私は彼の指を取り、そのまま掌を重ねた。


「婚姻式の日も、聞きますか」


「聞かせてくれるなら」


「きっと今日より速いですよ」


「それも覚えておく」

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