第18話 選ぶための婚約
城へ戻って一週間後、レオンハルトは私の仕事部屋を訪れた。
手には指輪ではなく、薄い書類の束を持っている。
「先に、これを読んでほしい」
婚姻契約の草案だった。
通常の公爵家の契約なら、妻の財産は家へ組み込まれ、居住地も夫に従う。草案では、その定型部分がすべて引き直されていた。
ユリウスの赤い注記が頁の端に並ぶ。『本人の職務契約と競合しないこと』『研究協力への同意を婚姻上の義務としないこと』『公爵夫人の公務は体調と本人の承諾を前提とすること』。
レオンハルト一人が都合よく書いた紙ではない。法務官と何度も直した跡があった。
私有財産は婚姻後も本人が管理する。魔力感覚顧問の職務は継続する。私室と居住の権利を保障する。契約解除を望む場合の手続きと生活資金も定める。
最後の頁だけが白紙だった。
私は草案へ青い札を挟み、翌日までかけて読んだ。
婚姻後の姓は、ノルディスへ変えるか、クラウゼルを職務名として残すか、私が選べる。公爵夫人として署名する公文書と、顧問として署名する報告書を別にしてもよい。
私は独立確認書を机へ並べた。ようやく自分の名だけで立てるようになったのに、結婚してすぐ別の家名へ隠れるのではないか。そんな怖さが、紙を読む間ずっと残っていた。
「姓を変えたくないなら、そのままでいい」
レオンハルトは簡単に言った。
「北境公爵家の継承記録は困りませんか」
「婚姻記録があれば足りる。困ると言う者にはユリウスを送る」
隣でユリウスが、送られる方の迷惑そうな顔をした。
私は結局、婚姻後はノルディスを名乗ることにした。ただし独立前の職務記録と研究成果には、旧姓を併記する。草案へそう書き足した。
捨てるためではない。これから共に作る家の名を、自分で受け取るためだった。
「私が離婚を望んだ場合の住まいまで用意するのですか」
「必要だ。出口のない契約へ、君が安心して入れるとは思わない」
「縁起が悪いと言われますよ」
「縁起より条文を信じる」
いかにも彼らしい答えだった。
「そこは?」
「君が必要だと思う条項を書くために空けた」
私はペンを取り、『双方の医療情報を、本人の許可なく契約維持の理由へ用いない』と書き加えた。
さらに、公爵夫人の公務予定は月ごとに私の確認を受けること、体調だけでなく顧問職との重複を理由に断れることを加える。
レオンハルトは私の字を追い、最後に自分の条項を一つ提案した。
『一方が退去を望んだ場合、他方は移動を妨げず、必要な荷物と記録を速やかに引き渡す』
「そこまでしますか」
「私は、城門で立っているだけで精一杯だった」
鉄の手すりに残った白い痕を思い出す。
「次も止まれるように、先に書いておく」
私は文末の『速やかに』へ線を引き、『本人が指定する期日までに』へ直した。急いで出るとも限らないからだ。
レオンハルトは訂正を読み、初めて少し笑った。
「城門のことを、まだ覚えているのですね」
レオンハルトが苦く笑う。
「忘れられないな」
「忘れなくていいと思います」
「ああ」
彼は草案を閉じ、私の前に片膝をついた。
「守るための結婚とは言わない。君は自分を守れる」
差し出された手が、わずかに震えている。
「これからの人生を、君と共に歩きたい。私の伴侶になってくれないか」
私は手を重ねた。
「はい」
返事をすると、彼はすぐに立ち上がらなかった。聞き違いを恐れるように、私の手を見たまま尋ねる。
「本当に?」
「同じことを二度言わせるのですか」
「何度でも聞きたい」
「では、もう一度だけ。あなたと結婚します」
一言で足りた。
レオンハルトは目を閉じ、私の指先へ額をつけた。冷気は漏れなかった。その代わり、握る手の熱が伝わる。
ユリウスを呼び、二人で契約を完成させた。
解除条項は互いに同じ条件とし、私の仕事部屋は婚姻後も私個人の使用区画とした。公務の代行者は私だけに固定せず、体調に応じて副官や侍従長へ割り振る。
「これで、公爵夫人になった途端に毎晩夜会へ出されることはありません」
ユリウスが最後の頁を確認する。
「毎晩開くほど閣下に友人はおりませんが」
レオンハルトが冷たい目を向け、私は笑いをこらえた。
署名欄へ名を書きながら、私は言った。
「これで、正式にあなたの隣に立てます」
「立ってくれるのか」
「私が決めました」
彼も署名し、二つの封蝋を並べた。
婚約公告は王都と北方会議へ送られた。私の独立記録がすでに確定しているため、父の同意欄は存在しない。
指輪は宝物庫から勝手に選ばれず、城下の工房で二人一緒に決めた。大きな宝石では仕事の邪魔になるため、私は細い銀環に青い石を一つだけ入れてもらう。レオンハルトも同じ意匠を選んだ。
「公爵の指輪にしては控えめです」
職人が恐る恐る言うと、彼は私の手を見た。
「同じ物がいい」
同じ便で、異能管理局から新しい研究協力案も届いた。居住の指定なし、参加はその都度同意、撤回自由。サイラスの署名がある。
私は子どもたちの補助具試験だけ、最初の協力項目として選んだ。
過去からは、もう何も届かなかった。
公告の日の夕食には、城の者たちが小さな祝いの菓子を用意してくれた。グレンは無言で酒杯を上げ、ミハイルは炉の安全祝いも兼ねていると言い張った。
レオンハルトは多くの声にまだ慣れず、途中で二度眉を寄せた。それでも席を立たず、最後まで私の隣で皆の祝いを聞いていた。
夜、レオンハルトは私の手首へ二本の指を置いた。
「聞こえますか」
「聞こえる」
「必要ですか」
彼は首を横に振った。
「好きだから聞きたい」
私は彼の指を取り、そのまま掌を重ねた。
「婚姻式の日も、聞きますか」
「聞かせてくれるなら」
「きっと今日より速いですよ」
「それも覚えておく」




