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婚約破棄された魔力過敏令嬢の心音だけが、氷の魔王公爵を眠らせる ~捨てられた夜に拾われ、安眠係として溺愛されています~  作者: 他力本願寺


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20/20

第20話 心音は、もう薬ではない

「北境公爵夫妻の御入場です」


 扉が開き、冬夜会の広間へ灯りが流れ込んだ。


 七十人分の視線が集まる。


 好奇心も驚きもある。魔力の波は消えていない。それでも補助耳飾りが鋭さを和らげ、隣のレオンハルトの存在が呼吸の基準をくれた。


 私は足を止めず、主催者の席まで歩いた。


 最前列には、第四砦のバルトと、補助耳飾りを試した少年の家族がいた。爵位を持たない招待客を正面へ置くことに異論は出たが、レオンハルトが「北境の夜会だ」と一言で退けた。


 少年は楽団から最も遠い席を自分で選び、青い札を膝へ置いている。始まる前に私と目が合うと、片手で小さく鐘を引く真似をした。


 途中、一人の若い令嬢が休憩室の場所を尋ねた。顔色が悪く、扇を握る手が震えている。


「あちらの青い扉です。付き添いは要りません。戻る時間も決めなくて大丈夫です」


 彼女はほっと息を吐き、母親らしい女性と共に広間を出た。周囲の何人かが驚いた顔をしたが、楽団は演奏を止めない。


 誰かが席を外しても、夜会は壊れなかった。


 かつて同じ北方の夜会で私を見ていた者たちもいる。囁きは聞こえたが、意味を拾う必要はなかった。


「本日はお越しいただき、ありがとうございます」


 用意していた長い挨拶は使わなかった。


「青い扉の先に休憩室があります。途中で席を立っても、戻らなくても、理由は要りません。今夜をそれぞれの速さで楽しんでください」


 数人が顔を見合わせた。次いで、バルトが大きな手で拍手を一つ打つ。それを合図に、広間へ拍手が広がった。


 挨拶を終えると、楽団が最初の曲を始めた。


 レオンハルトは弦の振動を確かめるように、わずかに首を傾ける。隣で同じ曲を聞いていることが、八年前までの彼にはなかったのだと思うと、私は旋律より彼の横顔を見てしまった。


 音量を抑えた弦楽器の旋律が広間を巡る。レオンハルトが、初めて聞くもののように楽団へ目を向けた。


「音楽はどうですか」


「思っていたより複雑だ」


「嫌いですか」


「君と話せないほど大きいのは困る」


 私は笑った。


 彼は一歩前へ出て、片手を差し出す。


「踊ってくれるか」


 私は掌を重ねた。


 広間の中央へ進む。


 最初の数歩は、視線が針のように背へ当たった。けれど彼の手は強く引かない。私の歩幅に合わせ、旋律の拍を指先で伝えてくれる。


 足を運ぶたび、ドレスの裾が雪のように広がった。


 彼は舞踏の拍を視覚で覚えていた。音楽を聞けなかった頃も公の式典へ出るため、指揮者の腕と周囲の足だけを見て踊ったという。今日は低音の弦を聞き、自分で次の一歩を取っている。


「速すぎませんか」


「聞こえる方が、合わせやすい」


「私の足を踏まないでくださいね」


「八年間、一度も踏んでいない」


 少し誇らしげな返事だった。


 アーヴィンに腕を取られ、人前で失敗しないことばかり考えた昔の舞踏とは違う。休みたければ曲の途中でも離れられる。そう知っているから、最後まで踊りたいと思えた。


「心臓が速いな」


 レオンハルトが囁く。


「七十人に見られていますから」


「四十人まで減らすべきだった」


「来年も七十人です」


「来年も開くのか」


「休憩室を使った方から、来年も来たいと言われました」


 彼は諦めたように息を吐き、私の腰を支える手を少しだけ近づけた。


「なら、毎年最初の曲は私がもらう」


「それは構いません」


 曲が終わる。


 最初に休憩室へ行った令嬢も、扉のそばへ戻っていた。最後の拍へ間に合い、母親と一緒に手を叩いている。


 拍手と人々の魔力が広がった。私は倒れず、彼の手を借りたまま一礼した。


 夜会は予定より早く閉じた。残った客を見送り、最後の扉が閉まると、二人で同時に息を吐いた。


 来客名簿の余白には、休憩室を使った者から礼の言葉がいくつも残っていた。楽団員からは、出力を抑えた楽器でも十分な音量が出たという報告もある。


 私は名簿を閉じ、ユリウスへ翌日の振り返りを頼んだ。夜会を成功の記念だけにせず、次へ直す仕事が残っている。


「疲れました」


「二度と開かなくてもいい」


「来年の話をしたばかりです」


 私たちは顔を見合わせ、笑った。


 寝室へ戻ると、広間の音が遠ざかった。


 自室の鏡の前で髪をほどく。母の銀の髪留めを箱へ戻し、補助耳飾りを柔らかな布で拭いた。どちらも、私が自分で身につけ、自分で外した物だ。


 レオンハルトは内扉の向こうで上着を脱ぎ、先ほどまでの公爵の顔をようやく解いた。


 私は髪留めと耳飾りを外し、自室と彼の部屋を繋ぐ内扉を開ける。


 レオンハルトは寝台へ腰を下ろし、私を腕の中へ迎えた。私が胸へ耳を当てると、力強い鼓動が聞こえる。


 彼も私の胸元へ頬を寄せた。


「楽団より、こちらの方が分かりやすい」


「音楽家が聞いたら怒りますよ」


「好きな音の話だ」


 私の心臓はまだ、踊った後の速さを残している。


「眠るためですか」


「君だからだ」


「私も、あなたの音が好きです」


 彼の胸へ耳を戻す。舞踏の最中より遅く、眠る前より少し速い。私が聞いていると知っているせいだろう。


 レオンハルトの指が、私の脈を探すように手首へ触れた。初めての夜と同じ場所なのに、今は確かめるためではなく、ただ懐かしむような触れ方だった。


 やがて、彼の呼吸がゆっくり整っていく。


 私も彼の鼓動を数えながら目を閉じた。


 内扉に鍵はかかっていない。


 それでも今夜も、私はこの人の隣で眠った。

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