第16話 城の外でも、私は眠れる
静穏療養館の部屋は、白い壁と木の机だけの簡素な造りだった。
三つの候補のうち、ここを選んだのは北境城から最も遠かったからではない。結界の維持費と家賃が明記され、管理人が医療組合とは別に入居者の相談役を置いていたからだ。
「公爵家から、特別扱いするよう依頼は来ておりません」
女性管理人は帳簿を開きながら言った。
「一人の入居者として契約します。食事は食堂でも部屋でも。外出時の連絡も任意です」
その説明を聞いて、ここなら試せると思った。
女性管理人と契約書を読み、家賃を私の口座から支払う。鍵を受け取って扉を閉めると、初めて本当に一人になった。
最初の夜、私はなかなか灯りを消せなかった。
夕食は食堂で取った。隣の席には療養中の老婦人が座り、毛糸の色を迷っている。誰も私が公爵城から来た理由を尋ねない。食器が触れ合う音は結界で丸くなり、人の魔力も薄い膜の向こうにあった。
部屋へ戻ると、管理人が小さな呼び鈴だけを確認して去った。扉が閉まり、廊下の足音が遠ざかる。
内扉はない。向こう側から聞こえる低い声も、頁をめくる音もない。
寝台へ入り、何度も姿勢を変えた。眠れないのだと思った。
次に目を開けた時、窓いっぱいに朝日が差していた。
一度も目覚めず、夢も見なかった。
しばらく天井を見つめた後、私は両手で顔を覆った。
安心した。彼がいなくても大丈夫だった。
同じくらい、悲しかった。
涙はしばらく止まらなかったが、泣き終えれば普通に起きられた。顔を洗い、一人分の朝食を食べ、仕事机へ向かう。
鏡の中の目は腫れていた。冷たい布を当て、髪を結び、自分で予定表を開く。午前は報告書、午後は城下の小さな染色工房で結界槽の点検。休む選択もできたが、仕事へ行きたかった。
補助耳飾りと館の結界があれば、廊下の人々の魔力も遠い。家賃も食費も自分の給与で足りる。ミハイルからは、新しい炉の点検依頼が届いた。
生活は、何一つ困らなかった。
二日目の夜には風が強くなった。窓枠が鳴るたび、城の内扉を思い出す。
私は枕元の呼び鈴へ手を伸ばしかけ、引っ込めた。一人で耐えることが目的ではない。必要なら呼んでいい。けれど今ほしいのは介助ではなく、窓枠へ詰める布だった。
管理人に布を借り、自分で隙間へ押し込む。音が小さくなると、廊下の向かいから昨夜の老婦人が顔を出した。
「私の部屋も同じなの。余った布があれば頂ける?」
二人で窓を直し、食堂の残り湯で茶を淹れた。彼女は毛糸の話をし、私は植物図鑑の話をした。レオンハルトの名は一度も出ない。それでも会話は続いた。
部屋へ戻る時、老婦人が焼き菓子を半分くれた。翌朝、私は茶葉を半分包んで彼女の扉へ掛けた。
染色工房の結界槽は、排水管の固定具が一つ緩んでいた。私は響く位置を示し、工房の職人が締め直す。点検料はその場で私名義の受領書へ記された。
「次もお願いできますか」
「日程が合えば」
公爵家を通さずに受けた、最初の依頼だった。帰りに自分の報酬で焼き菓子を一つ買い、療養館の食堂で食べた。
城との連絡は顧問室を通じた書類だけだった。レオンハルトの私信は来ない。見張る者も、迎えの馬車も現れない。
彼は約束を守っている。
三日目の朝、一人で北境茶を淹れた。
城から届く設備報告には、ユリウスの事務的な添え状だけが付いていた。レオンハルトの筆跡はない。けれど、報告書の頁番号がいつも正確で、私が使う青い分類札が付けられている。彼が顧問室へ、私の方式を守るよう伝えたのだろう。
抽出時間を少し誤り、渋くなった。レオンハルトなら顔に出さず飲み、二口目で湯を足しただろう。
四日目、報告書の余白へ説明図を描いた。彼なら線が曲がっていると言いながら、自分で定規を持ってきたはずだ。
五日目の夜、眠る前に無意識に口を開いた。
「おやすみなさい」
返事のない部屋で、自分の声だけが落ちた。
私は寝台を下り、机へ座った。
便箋に『帰りたいです』と書く。
その一行を見て、すぐに破らなかった。
雪の中で拾われたからでも、彼の呪いを鎮めるからでもない。仕事も住まいも眠りも、ここで足りている。
足りないのは、彼だった。
彼が笑うところを見たい。昼の本を読んでやりたい。今度は何の理由にも隠れず、隣で朝を迎えたい。
怒りが消えたわけではない。診断書を隠された朝を思い出せば、今も胸が痛む。戻るなら、その痛みをなかったことにはできない。
それでも、彼が手すりを凍らせながら動かなかった姿も忘れられない。間違えた後に私を止めなかったことは、間違えなかったこととは別の重さを持っていた。
私は便箋を封筒へ入れたものの、宛名は書かなかった。
先に知らせれば、彼は迎えを寄越すだろう。それではなく、自分で帰りたかった。
翌朝、顧問の外部依頼を三日後へ調整し、館の管理人へ退去日を告げた。報酬から馬車代を払い、荷物をまとめる。
「城へお戻りになるのですね」
「はい。でも、こちらの契約は月末まで残します」
もし話し合いがうまくいかなければ、戻る部屋はある。その逃げ道を残したまま、私は城へ向かうことにした。
管理人は理由を聞かず、返金日と鍵の返却方法だけを確認した。
未送信の手紙は鞄へ入れた。
城を出た時とは違い、帰る道は自分で決めた。




