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婚約破棄された魔力過敏令嬢の心音だけが、氷の魔王公爵を眠らせる ~捨てられた夜に拾われ、安眠係として溺愛されています~  作者: 他力本願寺


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第15話 呪いではなく、欲だった

再検査の結果は、翌日の夕方に届いた。


 検査では、鈴、香草、温水、粗さの違う布が一つずつ使われた。レオンハルトは鈴の高さを聞き分け、香草を二種類とも当てた。冷水と温水へ触れても、痛みは起きない。


 味覚の試験には、塩水と薄い蜂蜜水が使われた。


 レオンハルトは蜂蜜水を飲み、驚いたように舌先へ意識を向けた。


「甘い」


 ただそれだけの言葉を、オリヴィエは診療記録へ慎重に書いた。


「帰ったら、蜂蜜を入れすぎた黒パンをもう一度出しましょう」


 私は笑った。


 レオンハルトも笑った。けれど、私が『帰ったら』と言った時だけ、その表情が止まった。


 オリヴィエは結果を記しながら、何度も驚いたように首を振った。


「回復が一時的でないか、最終所見を夕方までにまとめます」


 私は喜び、レオンハルトは検査器具を片づける医師の手元だけを見ていた。


 私は仕事部屋で報告書を書いていた。隣の執務室から、封を切る音がする。


 しばらくしてレオンハルトが現れた時、診断書は手に持っていなかった。


「結果はいかがでしたか」


「回復は進んでいる」


「ほかには?」


 彼は一度、唇を開いた。


「今夜、話す」


 それだけ言い、執務室へ戻った。


 けれど夜になっても、彼は診断書を見せなかった。


 内扉の前で、私は尋ねた。


「まだ、私の心音が必要ですか」


 返事までに、長い間があった。


「……ああ。そばにいてほしい」


 必要だとは言わなかった。私はその違いに気づかず、安堵して扉を開けた。


 翌朝、食堂で銀の匙を落とした。


 澄んだ音が鳴る。


 私より先に、レオンハルトが匙へ顔を向けた。痛みに耐える表情ではない。ただ、音の場所を確かめる自然な動きだった。


「聞こえましたね」


 彼の手が止まった。


「診断書を見せてください」


 レオンハルトは逃げなかった。上着の内側から、折り畳んだ紙を出す。


『生命を脅かす痛覚変換は停止。今後は通常の感覚訓練へ移行可能』


 文字が一度、霞んだ。


 診断書の余白には、心音への接触なしでも睡眠可能、と医師の補記がある。レオンハルトは、私に触れずとも眠れることを確かめていた。そのことも話さなかった。


「いつ知ったのですか」


「昨日の夕方だ」


「昨夜、私は聞きました」


「ああ」


「私が安心した顔をしたのを、見ていましたよね」


 声が大きくなった。耳飾りが熱を持ち、食堂の空気に私自身の魔力が細く震える。


「見ていた」


「それでも、黙っていた」


「すまない」


 彼は言い訳をしなかった。そのことが、かえって痛かった。


「数日前から、痛みが戻らないと分かっていた」


 レオンハルトは診断書の端を握った。


「君に話せば、夜の扉が閉じると思った。治療が終わっても君にいてほしいと、正面から言うのが怖かった」


「だから、治療が続いているように見せたのですか」


「一晩だけでも、その理由へ隠れたかった」


 彼は自分を切るように言った。


「呪いではない。私の欲だった」


 彼は執務机から、私たちの契約書の写しを持ってきた。解除条項へ指を置く。


「ここを無効にするつもりはない。君の職も部屋も、私が何を望んでも変えない」


「今、その正しさを並べないでください」


 レオンハルトの指が止まる。


「一つ守れば、一つ隠していいわけではありません」


「……そのとおりだ」


 契約書を盾にしようとした自分へ気づいたように、彼は紙を閉じた。


 怒りの下から、別の痛みが上がってきた。


 私は食堂を一度歩いた。窓まで行き、戻り、冷めたスープの前で止まる。彼に向かって叫びたいのに、叫べば自分の耳が傷つく。だから声を押さえるしかない。そのことさえ悔しかった。


「あなたが治ったことを、私は喜びたかった」


「分かっている」


「分かっていて、私からその朝を奪ったんです」


 レオンハルトは顔を上げられなかった。


 昨夜、彼がまだ苦しむと聞いてほっとした自分。彼の回復を願いながら、必要な役目を失うことを恐れた自分。


 私は椅子から立った。今ここで彼の手を取れば、きっと許してしまう。許した後で、自分が何を理由に残ったのか分からなくなる。


「少し、離れます」


 レオンハルトの顔から色が消えた。


「あなたを罰したいのではありません。一人でも眠れると確かめたい。その上で、私がここにいたいのか考えます」


 彼の手が上がり、私まで半分のところで止まった。


「分かった」


 その日のうちにユリウスが、北方医療組合の静穏療養施設を三か所示した。私は運営母体、家賃、結界の強さを比べ、自分で一つを選んだ。費用は顧問給与から払える。職務契約も、私的な事情では終了しないと再確認された。


「護衛は必要な時だけ呼べる形にする」


 レオンハルトは書類を私へ渡した。


「私から手紙は送らない。追わない」


「はい」


 午後、城門に馬車が待っていた。


 荷造りを手伝う者は呼ばなかった。自分の服、本、仕事の記録を鞄へ入れる。内扉の鍵は机の上へ置こうとして、契約上は私の物だと思い直し、腰へ戻した。


 部屋を捨てるわけではない。戻ると決めているわけでもない。ただ、決めるまで鍵を誰にも渡したくなかった。


 植物図鑑の間から、レオンハルトが使った栞が落ちた。赤峡谷の守り袋と同じ、赤い糸が一本結ばれている。私はそれも本へ戻し、鞄を閉じた。


 私は自分の鞄を持ち、乗り込む前に振り返った。


 レオンハルトは階段の下に立っている。片手が鉄の手すりを握り、そこだけが分厚い氷に覆われていた。


 城門を閉ざすことも、馬車を止めることもできる男だ。


 それでも彼は、手すりから一歩も動かなかった。


 馬車が走り出す。


 彼の姿が雪の向こうへ消えるまで、追ってくる蹄の音は聞こえなかった。

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