第14話 魔王が守ってきたもの
審理の三日後、私は北の第四砦へ向かう巡察へ同行した。
結界柱の一基から不規則な響きが報告され、顧問として確認を頼まれたのだ。
馬車の窓から、雪原を進むレオンハルトの背が見える。副官グレンが手旗を上げると、騎士隊は声を交わさず隊列を変えた。
道沿いの村では、彼の姿を見つけた人々が戸口へ出た。深く礼をする者もいれば、雪かきの手を止めず片手だけ上げる者もいる。レオンハルトはどちらにも同じように手を返した。
途中、荷車の車輪が溝へ落ちていた。騎士へ任せず、彼も馬を下りて氷で足場を固める。感覚が戻り始めたばかりの手で縄を取り、車輪が上がるまで支えた。
「呪いを受けてから作られた合図です」
同乗したユリウスが教えてくれた。
「閣下は命令を聞けなくなっても、巡察を一度も止めませんでした。全砦で同じ手旗を使えるよう、御自身で規格を作られたのです」
第四砦へ着くと、兵士たちは一斉に姿勢を正した。
レオンハルトは報告板を読み、備蓄庫、医務室、馬房を順に回る。結界柱だけを見て帰るつもりはないらしい。
備蓄庫では、麦袋の列が予定より一列少なかった。補給路の雪崩で到着が遅れているという。
砦長は、兵舎の暖房を一日二刻止めれば、月末まで燃料が保つと提案した。レオンハルトは返事の代わりに、壁の地図へ三本の線を引く。西の炭焼き村、凍った旧河道、砦までの斜面。
「旧河道なら橇が通れます。ただ、春前は橋の強度が足りません」
グレンが手旗で答える。
レオンハルトは窓から川を見て、氷厚の報告を求めた。兵舎を冷やすのではなく、工兵を二十人出して二日だけ氷橋を補強し、燃料を運ぶ。医務室と見張り塔の火は落とさない。決定はその場で板へ書かれ、伝令が走った。
八年の沈黙の間に作られた手順は、彼の感覚が戻り始めても捨てられていなかった。声を出せない者や、吹雪で声が届かない時にも使えるからだ。
古参の兵士が、報告板の前で右拳を胸へ当てた。『承知した』の合図だ。レオンハルトも同じ形で返す。
「声で命じられるようになっても、旗は残すのですか」
私が尋ねると、彼は頷いた。
「私だけが使う物ではなくなった」
幼い姉弟が、砦の食堂前で彼を待っていた。
父親は昨冬、吹雪で孤立した哨所から救出された兵士だった。レオンハルトが視界だけを頼りに夜間巡察を続け、信号灯の異常へ気づいたのだという。
「公爵様、お父さんを助けてくれて、ありがとうございました」
姉が差し出したのは、赤い糸で縫った小さな守り袋だった。
レオンハルトは手袋をした掌で受け取る。何と答えればよいか分からず、私を見る。
「嬉しい、とお伝えすれば十分です」
「……嬉しい。大切にする」
弟が笑う。その声が聞こえたのか、レオンハルトの目がわずかに動いた。
食堂の奥で、古参兵たちも顔を見合わせた。そのうちの一人、白い髭の兵が恐る恐る口を開く。
「閣下。私の声も、届きますか」
レオンハルトはしばらく耳を澄ませた。
「全部ではない。だが、バルト。お前が前より声を張れなくなったことは分かる」
「歳を取りましたので」
バルトの声が震えた。八年前、赤峡谷から彼を背負って戻った兵だという。二人はそれ以上何も言わず、いつもの敬礼を交わした。
聞こえなかった年月が消えるわけではない。けれど、同じ相手の声を今から覚え直すことはできる。
結界柱の異常は、雪解け水が刻印の継ぎ目へ入り込んだためだった。私は響く場所を指し、砦の技師が封止材を交換する。
作業を終えた帰り、私たちは赤峡谷の旧橋へ寄った。
橋のたもとに、八年前の戦死者の名を刻んだ石碑がある。
「ここで、呪いを?」
「向こう岸にあった鐘を壊した」
レオンハルトは峡谷の奥を見た。
「味方の悲鳴が痛みに変わり、誰が倒れたのか分からなかった。それでも、橋を落とす合図の旗だけは見えた」
最後の避難民が渡り、彼は自分の背後で橋を凍らせた。敵を止めた後、三日間は誰にも触れられず、文字だけで指示を出したという。
石碑には、その日戻らなかった十二人の名が刻まれていた。レオンハルトは上から順に目で追い、一番下の名まで確認する。
「毎年、来ているのですか」
「雪で道が閉じなければ」
声を聞けなかった八年も、彼はここで名を読んだのだ。
「城へ戻ってからも、春の洪水、秋の備蓄、冬の巡察は待ってくれなかった」
彼は英雄譚を語る声ではなかった。翌日の仕事を説明するように淡々としている。
私は初めて、彼が眠れない男である前に、この土地を八年守り続けた領主なのだと知った。
風が峡谷を抜ける。
レオンハルトが顔を上げた。
「川の音がする」
厚い氷の下で、水が岩へ当たっている。
「痛くありませんか」
「痛くない」
彼は手袋を外し、石碑へ指先を当てた。冷たい石のざらつきを確かめるように、ゆっくり撫でる。
その帰路、馬車の中で彼の素手が私の手袋へ触れた。
「温かい」
「手袋越しでも?」
「分かる」
笑った私を見て、レオンハルトも口元を緩める。
けれど、手を離すのが少し早かった。
城へ戻ると、オリヴィエから再検査の日程が届いていた。
レオンハルトは紙を読み、折り目に沿って畳んだ。
「治るのですね」
「おそらく」
彼はそう答えた後、開いている内扉へ長く目を留めた。




