第二章 ep1
「ふう……」
わたしは大きなスーツケースのふたを閉めると大きく息をついた。
合格発表から三日たち、わたしは王立魔法音楽院の寮に入るための準備を終えて、少しほっとした。
朝食を済ませたばかりだが、できるだけ早めに公爵邸を出立して、お昼までにはなんとか入寮の手続きをすませてしまいたい。
この公爵邸に引き取られてから外出を許されていなかった身なので、旅行などしたこともない。幼い頃、父とふたりで旅暮らしだったのが嘘のように、生活が変わってしまった。
もともと身の回りのものは多くないため、スーツケースひとつに入り切ってしまった。そもそも入学後必要になるものについては、その都度買えばよいとジーク様からも言われている。
寮に入るだけではあるのだけれど、部屋はすっかり片づけてしまった。
ジーク様は家族だと思ってくれて構わないと言って下さったけれど、たった一人の身よりを亡くして、引き取られた子どもにすぎない。
寮に入るというのはよい機会のようにも思えたのだ。
この部屋にも、こんどいつ帰るか、そもそも、もう帰らないのかもわからない。
だから、お世話になった分、綺麗に片づけて、きちんと掃除もすませた。
寮に持っていくものは、もうひとつ。
「おい、ミーリャ。そのバカでかい鞄を持って、おれも一緒に持てるのか?」
このおしゃべりな魔法楽器。リュート・オリヴェルだ。
「大丈夫よ、このスーツケース大きいけれど、下に車輪がついてるから」
そう言って、オリヴェルを背中にかついで、スーツケースをごろごろと転がしてみせた。
「あのな、ミーリャ。ここは地下だぞ」
「知ってるわよ。何年ここに住んでると思ってるの?」
この部屋は地下とはいえ、ジーク様の気遣いで、まるで窓があるかのように壁にカーテンがかけられていて、一見すると普通の部屋のように見える。他の部屋よりも明るいくらいに、ランプが灯されているから、なおさらだ。
「おまえ、そのバカでかい鞄。自分でもちあげて階段あがれるのか?」
「……」
そうでした。ここは地下で、階段を上らないと、玄関にもたどりつけないのでした。
「オリヴェル、いったん留守番してもらっていい?」
「まあ、いいけど」
わたしは、いったん背負ったオリヴェルをまたベッドの上に置き直し、スーツケースを持ち上げてみた。重くはあるけれど、持ちあがらないほどではない。
「うん、大丈夫そう」
わたしは、さきにこのスーツケースを玄関に運ぶことにした。
地下室の階段を一段ずつ慎重にのぼっていると、一階から驚いたようにブルームズさんが声をかけてきた。
「ミーリャ、言ってくれればよかったのに」
「大丈夫、なんとかなりそうです」
ブルームズさん、ジーク様にはばれないようにしているけれど、腰の具合が良くないのだ。そんな人に重い荷物を持たせるわけにはいかない。
「おい、ちょっと、手を貸してくれないか」
ブルームズさんは、通りかかった若い従者に声をかけた。
そうでした。ブルームズさんは執事で、お屋敷の使用人の中で一番偉い人なので、そもそもわたしの荷物を運んだりするわけないですよね。
たしか、半年ほど前に入ったレヴィさんだ。がっしりとした体つきなのに、ブルームズさんについて執事の仕事を覚えていると聞いたことがある。
レヴィさんは、階段を半ばまで降りてくると、わたしの手からスーツケースを受け取り、軽々と一階まで運んでくれた。
「あ、わたし、部屋からリュートを取ってきますね」
せっかく大きな荷物を運んでもらえたのだ。階段半分の位置から引き返したほうが早い。
わたしは部屋へ戻ると、ベッドに置いていたオリヴェルを背にかついだ。
「思ったより、早かったな」
「荷物を運ぶの、手伝ってもらえたのよ」
そう言いながら、自分の部屋を出ようとしたが、扉を閉める前に、くるりと身をひるがえした。
公爵邸に引き取ってもらえてから、八年間過ごした部屋だ。
最初は地下で、窓もなくて、息苦しくて、大嫌いな部屋だった。
でも、ジーク様の気遣いで、部屋には女の子らしい、調度品もいろいろと備えてもらえて、まるでちょっとしたお嬢様の部屋になっている。
そして、いつの間にか、居心地のいい、わたしの部屋になっていた。
わたしは、部屋にむかってそっと一礼した。
「ありがとう……」
そう言って、自分の部屋の扉を閉めた。
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