「旗を振る前の夜」
集会は、翌日の夕方だとミレイアは言った。
場所は、王都の東の外れ。かつて倉庫街だった区画だが、今は半分が放棄され、残り半分は勝手に使われている。
エリスがそれを聞いて、少し皮肉っぽく言った。
「都合がいい場所だな」
セラが静かに頷く。
「視線が届きにくい場所だからね」
「だが」
エリスは一拍おいて、続けた。
「人が集まる」
人が集まる場所には、必ず役割が生まれる。
誰かが話し、誰かが聞き、誰かが煽り、誰かが従う。そして――
誰かが旗を振る。
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翌朝、俺は外套を羽織ったまま、何もせずにただ座っていた。
焚き火はない。暖を取る理由もないからだ。
エリスは、少し苛立った様子で言う。
「行くのか」
「まだ」
「行かないなら」
「ミレイアが行く」
「それは」
エリスの声が低くなり、警戒の色が混じった。
「危険だ」
俺は、ただ頷いた。
「分かってる」
「なら」
「止めてください」
俺は、首を振った。
「止める権利は、ない」
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セラが静かに口を挟んだ。
「あなたが出ない場合」
「集会は、誰かのものになる」
「出た場合は?」
「あなたの影が、落ちる」
正解がない。
俺は両手を見つめた。
剣はない。命令もない。肩書きもない。
あるのは、“見られてしまう可能性”だけだ。
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昼過ぎ、ミレイアが戻ってきた。
いつもの外套だが、今日は少しだけ地味に見える。
「決めた?」
俺は答えない。
ミレイアは、それで理解したようだった。
「じゃあ」
「先に行く」
「危なくなったら?」
「帰ってくる」
軽く言って、ミレイアはそのまま外に出て行く。だが、彼女は“帰れなかった場合”の話は一切しない。
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集会は、予想よりもかなり多くの人々が集まっていた。
遠くからでも、ざわめきが耳に届く。
エリスは、歯を噛みしめながら呟いた。
「早すぎる」
「ええ」
セラが言う。
「まだ、思想が熟成していない」
「だからこそ」
俺は呟いた。
「一番、暴発しやすい」
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俺たちは少し離れた場所から様子を見ていた。
ミレイアは、群衆の中に溶け込むように静かに歩いていく。目立たない。だが、耳を澄ませば聞いている。それが、彼女の戦い方だ。
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演台代わりの箱の上に立ったのは、若い男だった。
声は、よく通る。
「俺たちは!」
「守られなかった!」
群衆の中でざわめきが起こる。
「制度は!」
「弱い者を虐げる!」
そこに同意する声が上がった。
ここまでは予想通りだった。だが――
「だから!」
「灰色地帯に留まらない者は!」
「また、虐げられることになる!」
その瞬間、空気が一変した。
誰かが頷き、誰かが顔を曇らせた。
思想が、どんどん線を引き始めていた。
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その時、ミレイアが動いた。
ほんの一歩。
ほんの一言。
「それは、違うわ」
声は大きくなく、ただ不思議と耳に届く。
男が彼女を見て、驚いたように尋ねる。
「誰だ?」
「通りすがりの商人」
ざわっと、空気が揺れる。
「商人が、何を知ってる?」
ミレイアは、微笑んだ。
「“戻った人”が」
「全員、虐げられた?」
男は言葉に詰まった。
「違うだろ?」
「戻った人の中には」
「虐げられず」
「静かに生きている人もいる」
「それを」
「決めるつけたのは、誰だ?」
その言葉が広がり、群衆のざわめきが一層大きくなった。
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だが、その後、別の声が上がった。
「きれいごとだ」
中年の女だった。
疲れ切った顔をしている。
「戻れる人間は」
「元々、強いんだ」
「弱いままの私たちは」
「灰色地帯しか、ない」
その言葉は、正論だった。
そして――一番、危険な正論だった。
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ミレイアは、一瞬だけ言葉を失った。
その隙に、誰かが叫んだ。
「だから!」
「灰色地帯は!」
「俺たちの国だ!」
「国」という言葉が出た瞬間、
エリスの顔色が変わった。
「だめだ」
セラが言った。
「旗が立つ」
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俺は、立ち上がった。
足が、自然に前に出る。
エリスが、腕を掴んだ。
「出るな」
「出たら」
「象徴になる」
「分かってる」
俺は静かに言った。
「でも」
「今、誰も止めてない」
エリスは歯を食いしばり、セラは俺を見て言った。
「あなたが出ると」
「今日の集会は、勝つ」
「だが」
「明日から」
「あなたが、狙われる」
俺は、頷いた。
「それでも」
「今は」
「誰も死なせたくない」
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その瞬間、遠くで小さな衝突が起きた。
押し合い。
怒号。
誰かが転ぶ。
空気が完全に熱を帯びた。
ミレイアが、こちらを見る。
目が合った。
彼女は、ほんの僅かに首を振った。
――出るな。
だが。
俺は、一歩踏み出した。
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群衆の中。
声を張らず、ただ言った。
「灰色地帯は」
「正しくない」
一瞬、音が消えた。
「正しさになった瞬間」
「灰色地帯は、終わる」
視線が集まり、
誰かが叫ぶ。
「ここは」
「居場所じゃない」
「逃げ場でもない」
「じゃあ、何だ!」
俺は、答えた。
「途中だ」
それだけ。
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沈黙が広がった。
理解はされない。
だが――
加熱は、止まった。
その瞬間、俺は理解した。
(やってしまった)
(これで)
(もう、戻れない)
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その夜、倉庫に戻ったあと、ミレイアが言った。
「最悪の手」
「ですね」
俺は苦笑した。
「でも」
彼女は、少しだけ笑った。
「一番、人を残す手」
エリスが深く息を吐く。
「荒れるな」
セラが静かに言う。
「もう」
「思想は、引き返せない」
俺は頷いた。
「だから」
「次は」
「壊すかもしれない」
その言葉に、誰も否定できなかった。




