王女の手紙
それは、命令ではなかった。
秘密の指示でもない。
助けてほしいという依頼でもない。
ただの――接触だった。
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夜明け前。
小さな村のはずれ。
納屋の裏手。
エリスが最初に気づいたのは、足音ではない。
空気の変化だった。
風の流れが、わずかに違う。
誰かが、息を潜めている。
(いるな)
もう騎士ではない。
剣も持っていない。
だが、体は覚えている。
「出てこい」
低く、短く言う。
物陰から一人の女が姿を現した。
黒衣ではない。軍服でもない。
王城の文官服。
(王城?)
「失礼いたします」
深く一礼。
「私は、王女アリシア殿下の“私的連絡係”です」
その一言で、
三人の視線が揃った。
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「追跡じゃないのか?」
セラが淡々と確認する。
「違います」
女は即答した。
「公式記録上、皆様は“関与対象外”です」
「追う理由がありません」
つまり、制度上は“もう存在しない人間”だ。
だから接触できた。
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「要件は?」
俺が聞く。
女は封書を差し出した。
王家の紋章。
だが、公印ではなく私印。
公的文書ではない。
個人としての手紙。
「殿下より。“読むかどうかは任せる”とのことです」
それだけ言って、女は一歩下がった。
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焚き火の前。
三人と封書。
エリスが小さく言う。
「毒の可能性は?」
「ない」
セラが即答する。
「毒なら、この距離で渡さない」
合理性の話だ。
俺は封を切った。
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紙は一枚だけ。
文字は整っていて、無駄がない。
《あなた方へ》
《私は政治的に敗北しました》
《現在、ほとんどの権限を失っています》
《命令も、保護も、提供できません》
そこまでは、事実の報告だ。
だが、続きがある。
《それでも“記録”と“接点”だけは持っています》
《制度の外に出た者は、内側からは見えません》
《しかし、内側にいる者は外側から観測できます》
俺はゆっくり読み進める。
《もし、あなた方が“何かを始める”なら》
《私は止めません》
《手も出しません》
《ただ、“つなぎます”》
最後に署名。
《――王女アリシア》
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読み終えたあと、しばらく誰も話さなかった。
最初に口を開いたのはエリスだ。
「うまいな」
責める声ではない。
「権限がないと言いながら、関係は切っていない」
俺も頷く。
「助けない。でも、見てるってことですね」
セラが静かに言う。
「観測者だ」
「彼女も、制度の内と外の境目に立っている」
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連絡係の女が小さな紙片を置いた。
「“安全な接点”です」
数字でも名前でもない。
記号の列。
暗号だ。
「殿下が“切られても残る人々”と連絡を取る窓口です」
「使うかどうかは自由です」
女は一礼し、音もなく去った。
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焚き火の前。
再び三人。
エリスが低く言う。
「使えば、殿下を巻き込む」
セラが続ける。
「使わなければ、完全に孤立する」
俺は紙片を見つめる。
アリシアは助けに来ていない。
命令もしていない。
ただ、“つながっている”と知らせただけだ。
「俺は」
ゆっくり言う。
「使う前提で、使わない」
エリスが眉を寄せる。
「どういう意味だ?」
「接点があるって知ってるだけで、選択肢が増える」
「実際に使わなくても、“孤立してない”って思える」
セラが小さく頷く。
「合理的」
「“完全に切られていない”という事実は、不安定要素になる」
味方でも敵でもない位置。
それが一番扱いづらい。
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夜が深まる。
エリスがぽつりと言う。
「殿下は、まだ戦っているな」
「剣を持たずに」
俺は小さく笑う。
「俺たちと同じですね」
セラが火を見つめながら言う。
「違う」
「彼女は制度の中で、私たちは外だ」
「だが、方向は同じ」
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その夜、王城。
アリシアは報告を受けていた。
「封書は届きました」
「返事は?」
「ありません」
アリシアは微笑む。
「それでいい」
「彼らは、自分で選ぶ」
「それが重要です」
侍女が小さく問う。
「殿下は何を期待されているのですか」
アリシアは窓の外を見る。
「期待はしません」
少し間を置く。
「ただ、続いてほしい。それだけです」
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遠い村。
焚き火の火が小さく揺れる。
紙片は燃やさない。
かといって使わない。
ポケットにしまう。
それだけで、十分だった。
制度の外にいる。
だが、完全に孤立しているわけではない。
王女の手は伸びていない。
守られてもいない。
それでも――
確かに、つながっている。




