夜盗の頭と、狩りの終わり
森を抜けるころには、太陽は完全に山の向こうへ沈んでいた。
夜だ。
それでも、思ったより暗くない。
(…月、明るいな)
いや、それだけじゃない。
岩の輪郭も、地面の起伏も、木の影も、やけにくっきり見える。
(目まで強化されてるのか?)
少し気味が悪い。
でも今は助かる。
足音をできるだけ殺して進む。
やがて森が途切れ、目の前に岩山が現れた。
黒く口を開けた穴がいくつも並んでいる。
――廃坑。
近づくと、匂いが変わった。
土と木の匂いじゃない。
油と鉄、それから人の匂い。
(いるな)
岩陰に身を隠して様子を見る。
入口付近に見張りが二人。
松明を持ち、だらしなく立っている。
(警戒、甘いな)
…いや違う。
(普通の人間相手なら、これで十分ってことか)
その瞬間、はっきりしたことがある。
――俺はもう、自分を「普通の人間」とは思っていない。
それに気づいて、背中に冷たい汗が流れた。
(戻れないな)
今さら村に行って助けを求めるわけにもいかない。
ここで終わらせる。
俺は足元の石を拾い、遠くへ投げた。
――カン。
乾いた音。
「…?」
一人が音の方を見る。
「何だ?」
「動物だろ」
気が緩んだ、その一瞬。
俺は闇の中から飛び出した。
――速い。
自分でも驚くほど速い。
十メートルの距離が一瞬で縮む。
一人目の顎に掌底を打ち込む。
「――っ」
声にならない声。
倒れかけた体を支え、静かに地面へ寝かせる。
(気絶…してる)
殺していない。
よし。
もう一人が振り向く。
「な――」
鳩尾に一撃。
膝が崩れ、松明が転がる。
(…簡単すぎる)
拳を見つめる。
(これ、本当に俺か?)
答えは出ない。
でも進む。
坑道の中は暗い。
松明の光が壁に揺れる。
奥から笑い声。
酒の匂い。
(油断してる)
壁際を進む。
三人、四人。
一人ずつ、確実に無力化する。
殴る。
抑える。
気絶させる。
血は出ていない。
(…慣れてきてる)
それが一番怖い。
(俺、今…人を“処理”してる)
罪悪感はある。
でも、それ以上に妙な納得があった。
(これが、この世界のやり方か)
そう思い始めている自分が、何より恐ろしい。
やがて広い空間に出た。
坑道の最奥。
焚き火を囲む数人。
その中心に、一人の女。
赤い髪。
鋭い目。
腰に剣。
手には筒状の道具。
――ミルダ。
「…来たか」
俺を見るなり、そう言った。
(気づいてた?)
「思ったより早いね」
余裕の笑み。
「三人、生かして返しただろ」
…読まれてる。
「優しいじゃないか」
ミルダが立ち上がる。
「だが、それが命取りだ」
筒をこちらに向ける。
(火の筒…)
直感が叫ぶ。
――危険。
「撃つぞ。動くな」
次の瞬間。
――轟音。
火花。
空気が裂ける。
体が勝手に横へ跳ぶ。
地面が爆ぜた。
(銃じゃない…散弾系か)
直撃したら無事じゃ済まない。
ミルダが舌打ちする。
「避けたか」
次の瞬間、彼女の足元に魔法陣が浮かぶ。
「《火線拘束》」
地面から炎が走る。
(避けきれない――)
そう思ったが、体が前に出た。
炎を踏み越える。
熱は感じるが、致命的じゃない。
(…え?)
自分でも分からない。
ミルダの目が見開かれる。
「何だお前…」
距離を詰める。
今なら――
その瞬間。
「――やめろ!」
凛とした声。
坑道の外から蹄の音。
入口を白い影が塞ぐ。
銀の鎧。
抜き放たれた剣。
女騎士だ。
「これ以上の戦いは、私が許さない」
彼女は一瞬だけ俺を見る。
その目に驚きが混ざっていた。
ミルダが舌打ちする。
「騎士か…」
女騎士は剣を構えた。
「この場は私が引き取る」
「貴様は――下がれ」
短く、強い命令。
その瞬間、気づいた。
――終わった。
戦いが、じゃない。
俺が“狩る側”でいられる時間が。
体の奥が、急に冷える。
(…戻ってきた)
(人間側に)
安堵と、わずかな名残惜しさ。
それに気づいて、愕然とする。
(俺、どこまで行くつもりだったんだ)
女騎士が俺の前に立つ。
背中越しに言った。
「――よく生きていたな」
その一言で、張り詰めていたものが切れた。
膝が震える。
(ああ…)
(助かったんだ、俺)
こうして。
異世界に来て最初の夜は終わった。
そして俺は、本当の意味で“この世界の住人”として歩き始めることになる。




