夜盗の追跡と“狩る側”への反転
水を何度もすくって飲んだ。
冷たい川の水が喉を通り、さっきまでの熱を少し落ち着かせる。
顔も洗う。頬についた土や汗をこすり落としながら、さっきの三人の顔を思い出していた。
――逃げた。
「覚えとけよ」と言い残して。
(あれで終わるわけない)
ああいう連中は、一人で動かない。
山の中で三人だけというはずがない。上がいる。仲間がいる。
今の俺は強い。たぶん、かなり。
でも。
(強い=無敵じゃない)
刃物が急所に入れば死ぬかもしれない。
毒を使われたらどうなるか分からない。
そもそも、この世界の常識を俺は何も知らない。
普通なら――逃げる。
できるだけ遠くへ。
できるだけ人の多い場所へ。
それが正解のはずだった。
なのに、足が動かなかった。
胸の奥がざわつく。
いや、ざわつくというより、もっと生々しい感情。
(…ムカつく)
まず、それだった。
転移して最初に会ったのが強盗未遂?
ふざけるな、と思った。
そして、もう一つ。
(俺が強いってバレた)
あいつらの最後の目は、恐怖だった。
恐怖は、すぐに恨みに変わる。
恨みはしつこい。
(逃げても終わらない)
村に下りても、どこかで情報を集めて追ってくる可能性がある。
なら――
(先に潰す)
そこまで考えて、自分に驚いた。
(俺、何考えてんだ?)
日本にいた頃の俺なら、絶対に出ない発想だ。
トラブルは避ける。謝る。逃げる。
警察を呼ぶ。
でもここに警察はいない。
そして今の俺は、妙に冷静だった。
(身体が強いと、心まで変わるのか?)
それとも――この世界に来たことで、何かが変わったのか。
分からない。
ただ一つはっきりしている。
俺は、さっきの三人に「狩られる側」で終わりたくなかった。
(狩る側に回る)
そう決めた瞬間、恐怖が少し薄れた。
代わりに、頭が冴える。
森の中を見渡す。
折れた枝。踏み荒らされた草。
土に残る足跡。
(…追える)
やったことはない。
でも、なぜか分かる。
俺は川沿いを少し下り、それから森に入った。
理由は自分でもはっきりしない。体がそう動いた。
空が赤くなり始めている。
(夜になる前に)
走る。
――速い。
今の俺の走りは、人間というより獣に近い。
枝が当たっても大して痛くない。
地面を蹴るたびに体が前に飛ぶ。
(ヤバいな、俺)
興奮と恐怖が混ざる。
でも止まらない。
十五分も経っていないはずだ。
森の中に小さな窪地を見つけた。
焚き火の跡。踏み固められた地面。空き瓶。
(野営地)
でも、ここが本拠地ではない。
移動しながら狩りをする連中の中継地点だ。
さらに耳を澄ます。
――声。
「マジであいつ何なんだよ」
さっきのリーダーの声だ。
「腕が鉄みてぇだった…!」
「でも武器持ってなかっただろ」
「数で囲めばいける」
「チッ…一回引く。姐さんに話す」
(姐さん)
やっぱり上がいる。
「面ぁ良くなかった?」
「どっかの貴族かもな」
「だまれ」
会話を聞きながら、俺は木陰に伏せた。
(末端だな、こいつら)
ここで三人を倒しても、上が残れば終わらない。
(情報がいる)
場所。人数。武装。
(…一人捕まえる)
その考えに、自分でぞっとする。
でも、体は熱い。
血が騒いでいる。
タイミングを見る。
三人は気が緩んでいる。
一人が離れて用を足しに行った。
(こいつだ)
音を立てずに近づく。
背後から口を塞ぎ、腕で締める。
「――っ!?」
暴れるが、俺の腕は外れない。
「騒ぐな」
低く言うと、相手は一瞬止まった。
言葉は通じる。
俺は草の奥に引きずり込んだ。
「姐さんって誰だ」
「し、知らねぇ…!」
腕に少し力を入れる。
「痛っ!」
(力、強すぎる)
慌てて緩める。
「殺す気はない。ただ生きたいだけだ」
相手の目が揺れる。
「…オレもだよ」
その言葉に、少しだけ現実が戻る。
こいつも、生きるためにやっているだけかもしれない。
「答えたら逃がす」
「ほんとかよ」
「約束する」
しばらく迷ったあと、男は話し始めた。
姐さんの名前はミルダ。
山の南にある廃坑が根城。
常駐は十数人。外で動いている者もいる。
剣、弓、槍。そして――
「火が出る筒」
(銃か? 魔道具か?)
さらに、
「姐さんは魔術を使う」
魔術。
(身体能力だけで勝てるか?)
初めて、はっきりと恐怖を感じた。
でも。
(引けない)
ここで逃げたら、追われる側のままだ。
情報は十分だ。
俺は男の肩から手を離した。
「行け」
「…マジで?」
「約束だ」
男は森へ消えた。
残された俺は、空を見上げる。
太陽は沈みかけている。
南。廃坑。
(行くか)
恐怖はある。
でも、その上に決意が乗った。
俺はこの世界で生きる。
そのために、狩る側に回る。
俺は南へ走り出した。
廃坑へ。
ミルダへ。
そして、この判断が俺の運命を大きく変えることを――
このときの俺は、まだ知らなかった。




