幕間 善意は、ときどき自分の顔を忘れる
研究室の明かりは、深夜になっても消えていなかった。
窓の外は真っ暗なのに、室内だけが白く浮いている。
床に刻まれた魔法陣が、低い音を立てながらゆっくり回転していた。
机の上には、水晶板に映る数式。
何度も書き直された理論式。
消しては書き、消しては修正した跡。
「…やっぱり」
私は椅子にもたれ、天井を見上げた。
「おかしい」
何度計算しても、結果が同じ場所に戻ってくる。
あの模擬戦。
彼が、防御障壁の内側に立っていた瞬間。
障壁は壊れていない。
魔力の乱れも、干渉痕もない。
なのに、彼は“内側”にいた。
(魔法じゃない)
(身体能力でもない)
(異種族特性?…違う)
あり得る仮説を一つずつ潰していく。
全部、否定される。
指先で水晶を軽く叩く。
「…世界干渉型」
ぽつりと、口に出た。
もし彼が、魔力を使っていないのではなく。
そもそも“魔力のルールに縛られていない”存在だとしたら。
魔法を使う側じゃない。
魔法が成立する“前提側”。
(…待って)
背筋がぞくりとする。
(それ、勇者とか英雄とかの枠じゃない)
もっと嫌なやつだ。
世界に組み込まれた存在。
例外ではなく、“仕様”。
(そんなの、神話級じゃん)
喉が乾く。
心臓が速く打つ。
怖い。
でも――
(面白すぎる)
思考が一気に加速する。
もし彼が、自分の力の正体を理解したら?
もし制御できるようになったら?
もし理論化できたら?
魔法史は書き換わる。
世界の構造そのものが再定義される。
そのとき、ふと別の考えが混じる。
(彼、今どうしてる?)
隔離。
噂。
孤立。
彼は今、何も知らないまま、ただ「危険」として扱われている。
(誰も、ちゃんと説明してない)
騎士団は管理。
学院は慎重。
教授たちは様子見。
時間が、ゆっくり流れている。
(その間に、彼が壊れたら?)
心が折れたら?
自分を怪物だと認めてしまったら?
それは――理論の問題じゃない。
私は勢いよく立ち上がった。
椅子が、がたんと音を立てる。
「私が、やる」
声が、研究室に響く。
「私が、ちゃんと教えればいい」
理論を。
構造を。
可能性を。
彼が“分からない存在”でいる時間を、減らせばいい。
教授たちは慎重すぎる。
騎士団は保身的だ。
配慮が多い。
許可が必要だ。
(その間に、壊れたらどうする)
遅い。
全部、遅い。
(善意だ)
自分に言い聞かせる。
(これは、善意)
彼を守るため。
彼が怪物にならないため。
彼自身が、自分を理解するため。
だから――
私がやる。
そう結論づけた瞬間。
胸の奥で、何かがひっそりと警鐘を鳴らした。
それは、研究者としての倫理かもしれない。
あるいは、人としてのブレーキかもしれない。
だが私は、その音を無視した。
今の私は、「壊れる前に助けたい」という理由を持っている。
それが、どれだけ危うい動機かに、まだ気づいていない。
机の上の水晶板に、彼の数値が浮かぶ。
《危険度評価:未確定(上限不明)》
私は、それを見つめながら小さく笑った。
「上限、測ってあげるよ」
その言葉が。
救いになるのか。
引き金になるのか。
まだ、誰も知らない。




