幕間 孤立する男を、見てしまった夜
夜の王都は、静かだった。
騒がしい昼の顔とは違い、灯りを落とした街は、どこか疲れたように眠っている。
近衛騎士団の詰所に戻ってからも、私は鎧を脱げずにいた。
剣を外し、手袋を外し、それでも――
胸の奥の違和感が取れない。
(…遅い)
視線が、窓の外ではなく、魔法学院の方角へ向いていることに気づき、自嘲する。
(職務だ)
(気にする必要はない)
何度も、そう言い聞かせた。
だが、頭の中に浮かぶのは、あの部屋だった。
隔離用に用意された、中途半端な一室。
安全で、清潔で、そして――
誰もいない部屋。
(…あれで良かったのか)
判断としては、正しい。
学院の混乱を抑え、彼を刺激から遠ざけ、状況を沈静化させる。
近衛騎士として、最善に近い。
なのに。
(…なぜ)
胸の奥が、妙に重い。
私は、ふと席を立った。
理由は考えない。
考えれば、行ってはいけないと分かってしまうからだ。
夜の街を歩く。
近衛の制服は着ていない。
ただの、女一人。
魔法学院の裏門に着いたとき、衛兵が驚いた顔をした。
「エリス様?」
「…少し見回りだ」
それだけ言って、通してもらう。
(私は、何をしに来た)
問いは、最後まで言葉にならなかった。
隔離区画に近づくにつれ、人気が消える。
魔法灯の光が、冷たく床を照らす。
(…静かだ)
足音が、やけに響く。
あの部屋の前で、私は足を止めた。
扉は閉まっている。
鍵は、かかっていない。
(覗くつもりはない)
(声をかけるつもりもない)
…そのはずだった。
中から、物音がした。
「…」
息を、殺す。
微かな音。
布が擦れる音。
椅子が、軋む音。
そして――
低く、抑えた声。
「…はは」
笑い声だった。
だが、楽しそうではない。
むしろ――
自分を誤魔化すための、乾いた音。
(…あ)
胸が、嫌な形で締め付けられる。
私は、扉の前から動けなくなった。
「…俺」
声が、聞こえる。
「何やってんだろな」
一人に向けた言葉。
返事のない独白。
「強いとか、危ないとか」
「そんなの、どうでもよかったのに」
(…)
「静かに生きられたら、それでよかった」
その一言が、剣より鋭く刺さった。
(…知らなかった)
彼が、そんな望みを持っていたなんて。
勝ちたいわけでも、目立ちたいわけでもない。
ただ、巻き込まれずにいたかっただけ。
「…はぁ」
ため息。
それから、しばらく沈黙。
私は、背中を壁に預けた。
(私は…)
(何を守っているつもりだった)
王国の安全。
学院の秩序。
騎士団の判断。
どれも、正しい。
だが――
(“彼”は?)
彼の心は、どこにも含まれていない。
(…臆病だな、私は)
剣を振るう勇気はある。
命を懸ける覚悟もある。
だが、誰かの孤独に踏み込む勇気だけがない。
それを、善意と規律で誤魔化している。
「…」
中から、また声がした。
「…怪物じゃない、よな」
小さく、確認するような声。
私は、反射的に一歩踏み出しかけて――
止まった。
(言えるのか)
(私に、否定する資格があるのか)
昼間、私は言った。
――噂は剣より速い、と。
――行動で上書きしろ、と。
だが今、彼に必要なのは――
剣でも、正論でもない。
誰か一人の、肯定だ。
それが、分かっているのに。
私は、扉を開けなかった。
拳を、強く握りしめる。
(…卑怯だ)
(本当に)
足音を立てないよう、その場を離れる。
振り返らない。
振り返れば、戻れなくなる。
廊下の角を曲がったところで、ようやく息を吐いた。
(…明日)
(明日こそ)
そう思う自分を、信じきれないまま。
私は、夜の学院を後にした。
王都の風が、頬を冷やす。
剣を握る手が、少しだけ震えていた。
(孤立させたのは、世界じゃない)
(私たちだ)
その事実を、この夜――
私は、はっきりと知ってしまった。




