マイラ・グランヴィルは破局を迎える8
(――その方向は!)
そしてマイラが何かを叫ぶ。意味は分からないが、しかしゴドフロワは凄まじい怖気を覚え、眼前の彼女の腹部を殴り壁を破壊するほど吹っ飛ばしてから、すかさず王子のところへ走り出す。マイラが魔術で操った剣がチャールズの心臓を貫こうとする寸前、その剣に己の腕を刺して止めるのに成功した。血が噴き出し、さすがのゴドフロワも全身から汗が噴き出す。
だが、マイラはもうろくに動けない。それだけのダメージを与えた手応えがあった。ゴドフロワが本気を出せば彼女に致命傷を与えた後にこうして王子を守ることが可能ではあると証明してみたせたものの、余裕があったとは決して言い難い。あの細い身体に――いや、もしかしたらドレスで隠しているだけで、身体は相当鍛え上げている可能性は高いと、彼はマイラに対する認識を改める。機敏な動きは、つまりそれだけ筋肉があるということでもある。ゴドフロワの攻撃を一度だけでも防ぎぎったという事実だけでもいくつかの情報を得ることができる。少なくとも彼女はドレスさえ着ていれば誤魔化せる程度には身体を鍛えている。彼女はゴドフロワと対峙した際、冷静に対処することを何度も頭の中で描いていた。魔術の巧みさもそうだが、何より剣を使った攻撃に慣れている、ということだ。まさにチャールズが語った通り、彼女は何年にも渡り歴史に残るだろう犯罪行為を準備していたのだ。
そもそも不意を突かれた程度であの王子達が、アズヴァルドが、そしてあのセイロが殺されるだろうか。特にセイロとは過去何度か戦ったことがある。凄まじい実力の持ち主で、過去何度も出し抜かれたのみならず、場合によっては命すら見逃してもらったこともあった。――その頃からセイロという人物が噂通りの殺人狂とは思えなくなっていたが、その彼を殺したのだ。
(やはり油断はできないな)
「ゴドフロワ、治癒する」
「いえダメです。そんな余裕も暇もありません。私は今から奴にトドメを刺します。少なくとも首を落とさなければ安心などできない」
ここで迂闊に王子のところを離れるのは危険かもしれない。理屈はさておき、マイラは魔術によってあらゆる物質を好き勝手に操作可能らしい。当然制限もあるだろうが、今のところそういった弱点は見当たらない。物質を操るというのは着ている服すら操ることも可能だが、何かしらの制限――恐らくは魔力の容量によってゴドフロワを縛り付けるほどの威力は出せないらしい。
(ならば勝ち目はあるか?)
圧倒的優位にあるのは自分だと自覚しながら、しかしゴドフロワはあくまでも淡々と勝ちの目を探る。この男の恐ろしいところはここだ。数多もの戦場を巡ってきたからこそ培われた戦闘経験の勘、そしてこと戦闘において見た目にそぐわぬ理論的な思考ができる。
それでも、彼はマイラの魔術を全て理解したわけではない。
「ああ、ようやくちゃんと血を流してくれました」
ふらつきながらも、一筋の血が額から頬を伝おうとも、彼女の美貌は些かも損なわれること無く、敢えて不敵を装っているような笑みを浮かべて。
「身体から流れた血は、既に生きていないもの」
「ゴドフロワ! 血を拭え!」
「――ッ!」
いち早く気付いたチャールズだが、体内から漏れた血液の全てが既に『死んでいる』と判定され、ただの物質として使われるのだとしたら、チャールズの言葉は余りにも遅すぎた。
「破裂して!」
パン! という凄まじい音が耳を弾き、ゆるりと伝わってくる衝撃と痛みでゴドフロワは自分の腕には目を向けず、魔力を操作して痛みを完全に遮断――神経の信号をシャットアウトし、ここに自分がいることこそ一番の危険だと判断、彼はすかさず走り出す。
「破裂して!」
さらに腕が完全に四散した決定的な音がする。だがまだ右腕が残っている。彼女が再度魔術を構築する前に辿り着き、この命の代わりにその生命を絶つ。ここで止まると考えていたのか、明らかにマイラが焦りの表情を浮かべているのを目にして、ゴドフロワはさらにもう一歩、弦を引き絞って放つ矢の如く、その速度は人間の限界を超えてたった一人の少女を殺すためだけに繰り出される。音よりも速い。彼女が己の死を耳にするより速く、奔く、右手の刃が彼女の心臓を貫き砕くことだろう。心臓を貫かれて生きていける生命体などいないのだから。
攻撃が届く瞬間、焦っていたように見えたマイラは一転して華のような笑顔を浮かべて。
「死んで」
ゴドフロワは己の死んだ腕に右手で掴み、腕を引き千切ってマイラに投げる。
「なっ!」
こればかりは予想外だったのか、その腕から無数に飛び出す細長い血の棘が、彼女を貫こうと凄まじい勢いで真っ直ぐ進んでくる。
「おおおおおぉぉォッ!」
そしてゴドフロワが全く同じ速度で走ってくる。彼女にとっては余りにも予想外過ぎる千切られた腕を避けようとも、その先にはゴドフロワがいる。
――マイラが打てる手は僅かしか無い。彼女は意を決する時間を与えられることもなく、とにかく打てる手を打った。まず物質の動きを止める。しかし魔力による肉体の強化をした状態で投げられた物質は、恐らく時速二百キロには達しているだろう。大男の腕一本分を止めるにはマイラも相当の魔力を消費するしかないが、しかしまずはこの凶器を止めるしかなかった。この棘で串刺しにして殺すつもりだったのに、ゴドフロワはマイラの予想を完全に上回ったのだ。
さすがに並大抵の者ではない。
「止まって!」
叫び魔術を放つ。構成自体は凄まじく単純だ。物質の操作、その本質は最小単位の物質を直接操作するというものだが、その副産物として大雑把に物を自由に操るというものがある。これが転生前ならばサイコキネシスやらテレキネシスと呼ばれていただろう。しかし自分へ刺さる前に止まるかどうかは別問題だ。残りの魔力を使っても難しいかもしれない。しかしゴドフロワから喰らった先ほどの一撃は今でも響いており、下手に避けようとするよりも今は止めるべきだった。
その腕の横から見える最強を誇る男の貌。死に物狂いで自分を殺そうとする貌だ。普段から余裕がありつつ、決して隙を見せない強かな男であった。チャールズが王子という立場であろうとも、この男を一日中護衛につけていたというのは何とも贅沢な話であろう。
腕の勢いが落ちてくる。速度が落ちたのだ。一方で速度を変えていないゴドフロワが腕を追い越そうとする。彼は自分の千切れた腕になど意識を向けていない。何をすべきか、死ぬまでそれを考え、そして信念の元に大義を成すだろう。
だからマイラは詠唱をキャンセルし、思考のみで魔術を放つ。本来ならこれは正しくない手順であり、人間が使える技術の枠を超える。魔術は言葉にするからこそ具現化するものだという。ならばこれは具現化を無理矢理脳内で完結し、そして実際に魔力を具現化させるのだから、脳にかかる負荷は凄まじい。強烈に走る頭痛を無視してマイラは魔術を発動する。
――弾けて、と。
パン! という、まるで風船でも破裂させたかのような音にマイラは一種の懐かしさを覚えながら、しかしその感傷も刹那にしか過ぎなかった。突如胸を打つ凄まじい何かに肺の空気が一気に無くなり、壁をぶつかってから地面へ仰向けになって倒れ、マイラは瞬間意識を失う。
すぐに頭を上げてそこを見ると、血まみれになって床に伏しているゴドフロワと、自分の目の前で拳だけになったそれがある。今更人間の身体の一部が目の前で落ちていたところで動揺などしないが、それでも見ていて気分が良いものでもない。
「はっ、あ……!」
やっと――やっと、息が吸えた。
まったく息を吸えなかった。一呼吸でも吸ってしまえば、ゴドフロワの速度ならその間に自分を殺すことができただろう。呼吸をせず、残った息だけで魔術を唱えなければとても対応などできなかった。呼吸もできず、脳に強烈な負荷が与えられて頭痛が酷い。意識も靄が掛かっている。それでも、それでもだ。
「殺せた……最大の障壁ぃ!」




