第28話 大蛇とオリオン
二人の英雄が、それぞれの戦場へ向かう。
右翼。
大蛇の前には、地平線を覆うほどの怪異が押し寄せていた。
先頭を走る怪異が咆哮を上げる。
それに呼応するように、後方から幾重もの咆哮が重なった。
大地が揺れる。
土煙が上がる。
数え切れない怪異が、一斉に大蛇へ殺到する。
大蛇は立ち止まった。
構えない。
武器も持たない。
ただ。
静かに前を見据えている。
百メートル。
五十。
二十。
怪異の姿がはっきり見える距離まで近付いても、大蛇は動かなかった。
十メートル。
五メートル。
先頭の怪異が大きく跳躍する。
鋭い爪が、大蛇へ振り下ろされる。
その瞬間。
ズンッ――。
怪異が落ちた。
いや。
叩き落とされた。
腹から大地へ激突し、その巨体が地面へめり込む。
続いて。
二体。
十体。
五十体。
大蛇へ殺到していた怪異達が、次々と大地へ叩き付けられていく。
何が起きているのか。
後方の英雄達には分からない。
大蛇は触れてすらいない。
それなのに。
怪異達の身体だけが、見えない何かに押さえ込まれていく。
大地が軋む。
骨が砕ける。
地面そのものが、ゆっくりと沈んでいく。
後方から押し寄せた怪異達も止まれない。
前列へぶつかり。
重なり。
次々と大地へ縫い付けられていく。
大蛇はその光景を静かに見つめる。
そして。
右手を横へ払った。
空気が爆ぜた。
暴風。
轟音と共に風が戦場を駆け抜ける。
大地へ押さえ付けられていた怪異達が、一斉に宙へ舞い上がった。
十体ではない。
百体でもない。
黒い群れそのものが、空へ持ち上げられていく。
「……嘘だろ。」
後方の英雄が呟く。
その直後。
大蛇の足元を水が走った。
最初は細い流れだった。
だが。
大地を這いながら急激に膨れ上がっていく。
幾つもの水流が絡み合う。
頭部。
胴体。
巨大な顎。
それは、巨大な蛇へと姿を変えた。
水蛇が天へ昇る。
大きく口を開き。
宙へ巻き上げられた怪異達を一気に飲み込んだ。
巨大な身体の中で水流が渦を巻く。
怪異達が暴れる。
だが。
抜け出せない。
大蛇が静かに視線を上げた。
水蛇の内側に。
小さな赤い光が灯る。
次の瞬間。
紅蓮が走った。
一瞬。
巨大な水の身体が白く濁る。
そして。
爆ぜた。
轟音。
白い蒸気が戦場を飲み込んだ。
衝撃波が大地を駆け抜ける。
「伏せろ!」
英雄達が身を低くする。
熱風が頭上を通り過ぎた。
土煙。
水蒸気。
砕けた大地。
何も見えない。
やがて。
風が白い煙を運んでいく。
英雄達がゆっくりと顔を上げた。
「……。」
言葉が出なかった。
先ほどまで。
右翼を埋め尽くしていた怪異の群れ。
その大半が消えていた。
大蛇だけが。
何事もなかったように、その中心へ立っている。
白い髪が静かに風へ揺れていた。
だが。
終わってはいない。
地平線の向こうから。
新たな怪異達が押し寄せてくる。
大蛇はその群れを見つめる。
そして。
後方の英雄達へ振り返った。
「皆さん。」
「大変でしたね。」
穏やかな声だった。
「少し休んでいてください。」
「ここから先は。」
「私達が前に立ちます。」
英雄達は大蛇の背中を見つめた。
一人。
また一人。
握っていた武器を下ろす。
僅かな時間でもいい。
呼吸を整えられる。
傷を確認できる。
倒れた仲間を後方へ運べる。
大蛇が前に立っている。
ただ、それだけで。
彼らには休むことが許された。
◇
一方。
左翼。
こちらも怪異の勢いは衰えていなかった。
いや。
右翼以上の数が押し寄せている。
オリオンは一人。
迫る黒い群れを静かに見つめていた。
背から弓を下ろす。
一本の矢を番える。
怪異との距離は既に近い。
「オリオン!」
「もう来るぞ!」
オリオンは怪異ではなく。
空を見上げた。
「少し下がっていてください。」
それだけだった。
弦を引く。
ギリッ――。
弓が大きくしなる。
そして。
放つ。
一本の矢が夜空へ昇った。
ただの一射。
そう見えた。
しかし。
矢が淡く光る。
一筋だった光が。
二つへ分かれた。
さらに。
四つ。
八つ。
十六。
瞬く間に、数えることすらできなくなる。
光は増え続ける。
空いっぱいに。
無数の光点が広がっていく。
英雄達が戦うことさえ忘れ、空を見上げた。
「……星?」
誰かが呟いた。
次の瞬間。
星々が落ちた。
無数の光が。
流星のように戦場へ降り注ぐ。
一体。
また一体。
怪異の頭部を正確に貫く。
別の光が胸を射抜く。
その後ろ。
さらに奥。
次。
次。
次。
光の雨が降る。
怪異だけが倒れていく。
英雄達のすぐ横にも光が落ちる。
肩越し。
頭上。
剣を振り抜いた、その僅かな隙間。
だが。
一本たりとも味方には触れない。
「……まさか。」
一人の英雄が気付く。
「全部……狙っているのか?」
偶然ではない。
一本から生まれた無数の矢。
その全てを。
オリオンは操っていた。
怪異が倒れる。
また倒れる。
左翼を埋め尽くしていた黒が。
光の雨によって削り取られていく。
数十秒。
それだけだった。
最後の光が一体の怪異を貫き。
大地へ消える。
静寂。
オリオンは弓を下ろした。
「今です。」
その一言で。
英雄達が我に返る。
「前へ!」
「押し返せ!」
一斉に進軍する。
崩壊寸前だった左翼が。
逆に怪異を押し返し始めた。
その時。
オリオンの視線が止まる。
怪異の群れの奥。
大きな影が動いた。
地面を踏み砕きながら。
一体の上位種が姿を現す。
「上位種!」
英雄達の足が止まった。
先ほどまでの怪異とは違う。
その巨体から放たれる圧だけで、周囲の空気が変わる。
上位種が低く身を沈めた。
そして。
走り出す。
大地が揺れる。
巨体からは想像できない速度。
一直線にオリオンへ迫る。
「オリオン!」
「援護する!」
英雄達が前へ出ようとする。
だが。
オリオンは一本の矢を番えた。
「大丈夫です。」
「そのまま下がっていてください。」
声色は変わらない。
弦を引く。
上位種が迫る。
百メートル。
五十。
オリオンは動かない。
狙いを定める。
そして。
放った。
ヒュッ――。
一本の矢。
上位種と比べれば。
あまりにも小さい。
上位種が腕を振り上げる。
矢など、そのまま叩き落とせる。
誰もがそう思った。
だが。
飛翔する矢が光を纏った。
そして。
大きくなる。
「……?」
英雄達が目を見開く。
矢は止まらない。
飛ぶほどに。
光が増していく。
矢そのものが膨れ上がる。
槍ほどに。
大木ほどに。
さらに。
さらに。
上位種が速度を落とした。
飛翔する矢は、既にその巨体と変わらない大きさになっていた。
だが。
まだ止まらない。
「まだ……。」
誰かが呟く。
「大きくなってる……。」
光が夜を照らす。
矢は上位種の身体を超え。
なお巨大化を続ける。
空を横切る、巨大な光。
もはや。
誰の目にも矢には見えなかった。
星。
落ちてくる星そのもの。
上位種が足を止めた。
初めて。
迫る光に対し、巨大な両腕を交差させる。
防御。
直後。
激突した。
一瞬。
音が消えた。
白い光だけが視界を埋め尽くす。
そして。
轟音。
大地が跳ねた。
巨大な光が上位種を飲み込み、そのまま後方へ突き抜ける。
怪異。
岩。
大地。
進路上に存在するもの全てを巻き込みながら。
一本の巨大な光が戦場を貫いていく。
衝撃波が遅れて襲ってきた。
「っ!」
英雄達が腕で顔を覆う。
立っていることすら難しい。
やがて。
光が消える。
轟音も遠ざかっていく。
土煙がゆっくりと晴れた。
誰も声を出さない。
上位種がいた場所から。
遥か後方まで。
大地に巨大な溝が刻まれていた。
上位種の姿はない。
その後ろにいた怪異達も。
まとめて消えている。
オリオンは静かに弓を下ろした。
それだけだった。
呼吸一つ乱れていない。
まるで。
今の一射が、彼にとって特別なものではなかったかのように。
オリオンの視線が右翼へ向く。
遠く離れた場所。
大蛇もまた。
こちらを見ていた。
二人の視線が交わる。
大蛇が僅かに微笑む。
オリオンも小さく頭を下げた。
数百年ぶりに。
二人が同じ戦場へ立っている。
戦い方は、まるで違う。
大蛇は前に立ち。
圧力。
風。
水。
炎。
それらを自在に繋ぎ、仲間へ近付く敵を押し返す。
オリオンは遠くから戦場全体を見渡し。
一射で戦況そのものを変える。
右翼。
左翼。
崩壊寸前だった二つの防衛線が。
確実に前へ進んでいた。
「押せ!」
「今なら行ける!」
英雄達の声が戦場へ響く。
誰もが思った。
押し返せる。
この二人がいるなら。
この戦場を取り戻せる、と。
だが。
大蛇は前方を見つめたまま動かなかった。
オリオンも。
弓を下ろしていない。
二人だけが。
勝利を確信していなかった。
やがて。
大蛇の表情から笑みが消える。
「……来ますね。」
その一言で。
オリオンの視線が遠方へ向いた。
怪異達の動きが変わる。
先ほどまで我先にと押し寄せていた群れが。
止まった。
そして。
ゆっくりと左右へ分かれ始める。
一本の道ができていく。
「何だ……?」
英雄達も異変に気付く。
誰も声を出さない。
怪異達自身が。
何かへ道を譲っている。
ドン――。
大地が揺れた。
ドン――。
もう一度。
先ほどまでとは違う。
重い振動。
足音だった。
遥か彼方から響いているはずなのに。
踏み出すたび。
その振動が足元まで伝わってくる。
やがて。
怪異達が作った道の奥に。
巨大な影が現れた。
一つ。
英雄達が武器を構える。
その隣に。
もう一つ。
「……二体。」
違う。
さらに奥。
三つ目。
四つ目。
影が増えていく。
「嘘だろ……。」
誰かの声が震えた。
先ほど。
オリオンが一撃で消し飛ばしたものと同じ。
上位種。
それが。
一体ではない。
怪異達の間から、次々と姿を現してくる。
英雄達から歓声が消えた。
誰もが。
握っていた武器へ、もう一度力を込める。
そんな中。
大蛇は静かに前へ出た。
オリオンも一本の矢を番える。
「オリオンさん。」
大蛇が前を見たまま呼ぶ。
「はい。」
「どうやら。」
「昔話は、もう少し先になりそうですね。」
オリオンが僅かに笑った。
「そのようですね。」
二人の前で。
上位種達が足を止める。
その背後には。
なおも地平線まで続く怪異の群れ。
大蛇の周囲で風が動く。
水が集まる。
炎が揺れる。
足元の大地が。
ゆっくりと沈んでいく。
隣では。
オリオンが弦を引き絞った。
ギリッ――。
張り詰めた音が響く。
上位種達が。
一斉に身を沈めた。
大蛇はその姿を見つめ。
小さく息を吐く。
「さて。」
「もうひと踏ん張りですね。」
次の瞬間。
地平線を埋める上位種達が。
一斉に駆け出した。




