第22話 始動 後編
悠真とエレナは、その男から目を離せなかった。
白いロングコート。
戦闘服というより、医師が纏う白衣に近い装い。
黒髪には僅かに白髪が混じり、細い眼鏡の奥には穏やかな瞳がある。
戦場に立っているというのに、その姿からは殺気がまるで感じられない。
むしろ長年、多くの命を救ってきた医師。
そんな印象だった。
男は静かに一礼する。
「改めまして。」
「ヒュプノスと申します。」
「アマテラス所属。」
「参謀を務めています。」
悠真は思わず聞き返した。
「参謀……ですか?」
「ええ。」
ヒュプノスは穏やかに微笑む。
「戦うより、考える方が仕事なんです。」
悠真は四体の上位種へ視線を向けた。
「これ……全部。」
「ヒュプノスさんが倒したんですか?」
ヒュプノスは少し困ったように笑う。
「結果的には、そうなりますね。」
あまりにも淡々とした返事だった。
上位種を四体倒した人物とは思えない。
まるで当たり前の日常を話しているようだった。
大蛇が小さく笑う。
「この方は昔からそうなのです。」
「どれほど功績を残しても、自ら語ることはありません。」
「大蛇さん。」
「買い被り過ぎですよ。」
「いいえ。」
大蛇は静かに首を横へ振る。
「事実です。」
ヒュプノスは苦笑するしかなかった。
その時だった。
村の奥から人の声が聞こえてきた。
「先生!」
「こちら終わりました!」
悠真たちが振り向く。
そこには白い腕章を付けた十数名の男女がいた。
ある者は倒れた柱を運び。
ある者は崩れた屋根を直し。
ある者は薬箱を抱え、負傷者の手当てをしている。
誰一人慌てていない。
無駄な動きもない。
まるで何度も同じ光景を経験してきた者たちだった。
ヒュプノスは静かに頷く。
「怪我人を優先してください。」
「住居は後回しで構いません。」
「食料は皆さんで分け合ってください。」
「日没までには仮設の寝床を用意しましょう。」
次々と指示が飛ぶ。
その声は大きくない。
それでも全員が迷いなく動き始める。
悠真は思わず呟いた。
「軍隊……。」
ヒュプノスは小さく笑う。
「いいえ。」
「復興部隊です。」
「復興……。」
エレナが周囲を見渡す。
泣いていた子供へ毛布を掛ける女性。
老人を支えながら歩く青年。
壊れた井戸を修理する男たち。
誰も武器を持っていない。
それでも、その姿には戦士と同じ覚悟が感じられた。
ヒュプノスは静かに続ける。
「怪異は倒せば終わりではありません。」
「残された人たちが、明日も生きていけるようにする。」
「それも、私たちの役目です。」
その時、小さな女の子が駆け寄ってきた。
「先生!」
ヒュプノスは自然としゃがみ込む。
「もう大丈夫ですよ。」
「怖かったですね。」
優しく頭を撫でる。
女の子は堪えていた涙を溢れさせ、ヒュプノスへ抱きついた。
「もう怪物は来ない?」
ヒュプノスは少女の目を見つめ、静かに微笑む。
「ええ。」
「もう大丈夫です。」
「皆さんが守ってくれますから。」
少女は安心したように頷き、母親の元へ戻っていった。
その姿を見送りながら、大蛇が穏やかに微笑む。
「だから皆、あなたを慕うのですね。」
ヒュプノスは少し照れたように笑う。
「違います。」
「私は皆さんに助けられているだけです。」
「一人では、何も守れませんから。」
悠真はその言葉を聞きながら、四体の上位種へ目を向けた。
これほど強い人でも。
一人ではないと言う。
その言葉の重みを、悠真は静かに胸へ刻んでいた。
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穏やかな時間が流れていた。
崩れた家屋から木材を運び出す者。
炊き出しの準備を始める者。
怪我人の手当てを続ける者。
泣いていた子どもたちにも、少しずつ笑顔が戻り始めていた。
壊れた村は、確かに息を吹き返そうとしていた。
ヒュプノスは、その光景を静かに見つめる。
安堵したように、小さく息を吐く。
だが。
その表情は、すぐに引き締まった。
「大蛇さん。」
その一言だけで、大蛇も空気の変化を察する。
「状況を。」
「はい。」
ヒュプノスは村の外れへ視線を向けた。
「ここ一ヶ月で、上位種の出現数が急激に増加しています。」
「本来、この辺りは中位種が現れる程度の地域です。」
「ですが。」
四体の亡骸へ目を向ける。
「昨夜だけで四体。」
「異常です。」
悠真は息を呑んだ。
再び亡骸を見る。
忘れられるはずがない。
この怪物に。
自分は右腕を奪われた。
何もできず、死を覚悟した。
その上位種が。
四体も。
一撃で命を絶たれている。
身体が震えた。
恐怖ではない。
世界の広さを知った震えだった。
「そんなに……増えてるんですか。」
「ええ。」
ヒュプノスは静かに頷く。
「境界の侵食速度が、私たちの予測を大きく上回っています。」
「封印が弱まっているだけではありません。」
「向こう側も。」
「こちらへ雪崩れ込むように動き始めています。」
エレナが静かに尋ねる。
「じゃあ……。」
「この村だけじゃないんですね。」
「はい。」
ヒュプノスは答えた。
「各地で同じことが起きています。」
「私の部隊も各地へ分散しています。」
「それでも人手が足りません。」
「怪異の増加に対し、防衛が追いついていないのです。」
悠真は村を見渡した。
復興を進める人々。
泣き止んだ子ども。
笑顔を取り戻した母親。
この村は助かった。
それは奇跡ではない。
ヒュプノスが間に合ったからだ。
もし、あと少し遅れていたら。
この景色は存在しなかった。
ヒュプノスは静かに続ける。
「本当なら。」
「私がここへ来る予定ではありませんでした。」
「最前線を離れる余裕など、本来ありませんから。」
大蛇は静かに目を伏せる。
「そこまで……。」
「はい。」
ヒュプノスは短く答えた。
「持ちません。」
「あと数日遅ければ。」
「前線は崩壊していたでしょう。」
沈黙が落ちる。
誰も言葉を発せない。
風だけが静かに吹き抜け、怪異の亡骸を撫でていった。
大蛇は空を見上げ、小さく息を吐く。
「……分かりました。」
「私は最前線へ向かいます。」
悠真とエレナは同時に顔を上げる。
「え……?」
思わず声が漏れた。
ヒュプノスは二人へ向き直る。
「悠真さん。」
「エレナさん。」
「お二人は私が門まで案内します。」
悠真は戸惑いを隠せない。
「でも……。」
「大蛇さんとは一緒じゃないんですか。」
ヒュプノスは穏やかに微笑んだ。
「私も戦えます。」
「ですが。」
「今、最前線で必要とされているのは。」
静かに大蛇を見る。
「この方です。」
大蛇は少し困ったように笑う。
「過大評価ですよ。」
ヒュプノスも微笑み返す。
「いいえ。」
「私では。」
「あなたの代わりは務まりません。」
二人は互いに笑みを交わす。
言葉は少ない。
だが、その一瞬だけで伝わる信頼があった。
悠真はその姿を見つめる。
これが。
命を預け合ってきた者同士なのだと。
修行は終わった。
これからも三人で旅を続ける。
そう思っていた。
しかし。
世界は、それを許さない。
大蛇は悠真とエレナへ向き直る。
その表情は、いつものように穏やかだった。
「安心してください。」
「別れではありません。」
「それぞれが、自分の役目を果たすだけです。」
エレナは俯いた。
分かっている。
それが正しいことくらい。
それでも。
胸の奥が少しだけ苦しかった。
ヒュプノスが空を見上げる。
夕日がゆっくりと山の向こうへ沈んでいく。
「今日は村で休みましょう。」
「出発は明朝です。」
部隊の者たちが忙しく動き続ける中、村には少しずつ灯りがともり始めた。
その灯りを見つめながら、悠真は静かに思う。
世界は、自分が思っていたよりずっと広い。
そして。
自分たちの知らない場所で、多くの人が今日も世界を守っている。
明日から歩く道は、修行ではない。
本当の戦いだ。
悠真は静かに拳を握り締めた。




