第20話 生きて帰れ
翌朝。
朝靄が森を包んでいた。
冷たい空気の中、悠真とエレナは大蛇の前へ並んで立つ。
昨日までの修行で刻まれた傷は、まだ身体のあちこちに残っていた。
腕を動かせば筋肉が軋み、足を踏み込めば鈍い痛みが走る。
それでも二人の瞳に迷いはない。
大蛇は静かに二人を見つめた。
「今日が最後の修行です。」
二人は姿勢を正す。
「ですが、その前に。」
「上位種が、どれほど恐ろしい存在だったのか。」
「もう一度、思い出していただきます。」
悠真とエレナは表情を引き締めた。
大蛇はゆっくりと目を閉じる。
深く息を吸い。
静かに吐く。
「……このくらいでしょうか。」
その瞬間だった。
森から音が消えた。
鳥のさえずり。
風。
木々の葉擦れ。
すべてが止まる。
空気そのものが重く沈み、見えない何かが全身へ覆い被さってきた。
「……っ!」
悠真の心臓が激しく脈打つ。
息が浅くなる。
本能が叫ぶ。
逃げろ。
今すぐ逃げろ。
勝てない。
ここにいてはいけない。
身体が震える。
膝が笑う。
指先から力が抜けていく。
それでも。
「……っ!」
悠真は歯を食いしばる。
右足が震えながら半歩前へ出た。
「……動いた。」
自分でも信じられなかった。
隣ではエレナも全身を震わせながら双短剣を構えている。
腕は震えている。
呼吸も乱れている。
だが。
以前のように身体は止まっていなかった。
大蛇は静かに目を開く。
殺気を収めると、森へ風が戻る。
二人は大きく息を吐いた。
「以前のお二人は。」
「恐怖に呑まれ、身体そのものが動きませんでした。」
「ですが今は違います。」
「恐怖を抱えたまま、一歩を踏み出せています。」
悠真は自分の足を見る。
ほんの半歩。
それだけだった。
それでも、あの時とは決定的に違う。
エレナも静かに頷く。
「まだ怖い。」
「でも……動けました。」
大蛇は微笑む。
「恐怖は消えていません。」
「消す必要もありません。」
「恐怖を受け止め、そのまま前へ進める。」
「それが、生き残る者の第一歩です。」
悠真は拳を握った。
「でも。」
「まだ勝てる気はしません。」
「勝つ必要はありません。」
大蛇は静かに首を横へ振る。
「今日、身につけていただくのは。」
「勝つ方法ではありません。」
「生きて帰る方法です。」
二人は顔を見合わせた。
「今日、私と戦うことはありません。」
「今日の修行は。」
「私から逃げ切ることです。」
「逃げる……?」
悠真は思わず聞き返す。
「はい。」
「制限時間は十分。」
「この森の出口まで辿り着ければ合格です。」
悠真は苦笑した。
「最後の修行が逃げることなんですか?」
「ええ。」
「以前も話しましたね。」
「逃げることは敗北ではありません。」
「生きるための選択です。」
「今のあなたたちでは上位種には勝てません。」
「ですが。」
「生きて帰る可能性は作れます。」
エレナが静かに尋ねる。
「その可能性が……命を分けるんですね。」
「その通りです。」
大蛇は穏やかに頷いた。
「では。」
「始めましょう。」
白い衣が揺れる。
その姿が音もなく消えた。
「走れ!」
悠真が叫ぶ。
二人は同時に地面を蹴った。
木々の間を全力で駆け抜ける。
枝を避ける。
岩を飛び越える。
出口だけを目指す。
だが。
「終わりです。」
耳元だった。
悠真の首へ白い指先がそっと添えられる。
全身から血の気が引いた。
振り向く。
そこには微笑む大蛇が立っていた。
「今ので死んでいました。」
開始から五秒。
悠真は呆然と立ち尽くす。
「速すぎる……。」
どこから来たのか。
まったく分からなかった。
エレナも息を呑む。
「見えなかった……。」
未来視どころではない。
気付いた時には、もう終わっていた。
大蛇は開始位置へ戻る。
「もう一度。」
二人は黙って頷いた。
二回目。
今度はエレナが周囲へ意識を集中させる。
薄く重なる未来。
白い影が右へ現れる。
「右!」
悠真が飛び退く。
空を切る白い腕。
「左!」
また避ける。
今度は見えている。
確かに昨日より見えている。
悠真も笑みを浮かべる。
「いける!」
その瞬間だった。
悠真は思わず後ろを振り返る。
いない。
「どこだ!」
「終わりです。」
正面だった。
いつの間にか、大蛇は目の前に立っていた。
指先が首へ触れる。
悠真は肩を落とした。
「また……。」
大蛇は静かに言う。
「恐怖を確認するために、後ろを見ましたね。」
「逃げる者は。」
「後ろを見てはいけません。」
「恐怖を見つめるほど。」
「足は止まります。」
悠真は悔しそうに拳を握る。
エレナも唇を噛む。
見えていた。
それでも、恐怖に負けた。
大蛇は静かに微笑んだ。
「まだ終わっていません。」
「もう一度です。」
三回目。
二人は開始位置へ戻る。
悠真は大きく息を吸い、ゆっくり吐いた。
まだ心臓は速く脈打っている。
それでも、今度は振り返らないと決めた。
エレナも静かに頷く。
「大丈夫。」
「私が見る。」
「うん。」
悠真も頷いた。
二人は互いだけを信じる。
大蛇が静かに告げる。
「始め。」
白い姿が消えた。
「走るよ!」
エレナの声。
二人は同時に駆け出す。
エレナの視界には、薄く未来が重なっていた。
「右!」
悠真が木の間を抜ける。
「そのまま!」
背後を白い影が通り過ぎる。
「左!」
岩を飛び越える。
「真っ直ぐ!」
枝を払いながら駆け抜ける。
今までで一番、息が合っていた。
大蛇の姿が見えない。
いや。
見えないままでいい。
エレナだけを信じる。
森の出口が見えた。
「見えた!」
悠真が叫ぶ。
あと三十メートル。
二十メートル。
十メートル。
その時だった。
エレナの表情が変わる。
「……え?」
出口に。
もう一人の大蛇が立っている。
いや。
違う。
未来ではない。
今そこにいる。
「悠真!」
叫ぶ。
だが遅かった。
出口の前。
白い衣が風に揺れている。
大蛇だった。
「終わりです。」
二人は同時に立ち止まる。
悠真は悔しさのあまり拳を握り締めた。
「なんで……。」
「なんで前にいるんだよ!」
息を切らしながら叫ぶ。
大蛇は静かに答えた。
「上位種は。」
「追うだけではありません。」
「相手が逃げる場所も考えます。」
「逃げ道を塞ぎます。」
「待ち伏せもします。」
悠真は歯を食いしばる。
考えていなかった。
追われることしか。
大蛇は続ける。
「逃げるとは。」
「速く走ることではありません。」
「相手より先に考えることです。」
「相手の思考を読み。」
「逃げ道を選ぶ。」
「それもまた、生き残る力です。」
悠真は深く息を吐いた。
「……もう一回。」
「お願いします。」
大蛇は穏やかに頷く。
「ええ。」
「最後です。」
四回目。
二人は何も話さない。
視線だけを交わす。
十分だった。
「始め。」
大蛇が消える。
二人は走る。
エレナが未来を見る。
「右!」
悠真は迷わない。
「木の裏!」
身体を滑り込ませる。
「今!」
白い影が頭上を抜ける。
昨日までなら。
もう終わっていた。
森の出口が見える。
あと少し。
その時。
出口へ大蛇が現れる。
悠真は止まった。
「また……!」
エレナが叫ぶ。
「違う!」
「まだ!」
その瞬間。
悠真は刀へ手を掛けた。
抜刀。
大蛇へ向かって走る。
エレナは目を見開いた。
「悠真!」
「先に行け!」
「でも!」
「いいから行け!」
悠真は叫ぶ。
「勝つんじゃない!」
「一秒だけでいい!」
刀が振り下ろされる。
大蛇は避けない。
白い指先が刀へ触れる。
甲高い金属音。
火花が散る。
その一瞬。
本当に一瞬だけ。
大蛇の身体が止まった。
「今だ!」
エレナは迷わない。
悠真を信じる。
出口へ飛び込む。
その背中を確認すると。
悠真もすぐ身を翻した。
全力で走る。
あと五歩。
四歩。
三歩。
二歩。
一歩。
森の出口を飛び越えた。
その瞬間。
背後から感じていた殺気が、ふっと消えた。
二人は地面へ倒れ込む。
息が続かない。
肺が焼けるようだった。
全身が汗で濡れている。
しばらくして。
静かな拍手が響いた。
大蛇だった。
「合格です。」
悠真は仰向けになったまま笑う。
「最後……少し戦いました。」
大蛇は静かに首を横へ振る。
「いいえ。」
「あなたは勝とうとはしませんでした。」
「一秒だけ。」
「仲間が生き残る時間を作った。」
「それが正しい判断です。」
悠真はゆっくり起き上がる。
「でも。」
「逃げるだけなのに。」
「こんなに難しいなんて思いませんでした。」
大蛇は微笑む。
「逃げるとは。」
「命を未来へ繋ぐことです。」
「勝てない相手に命を懸けることは勇気ではありません。」
「生きて帰ること。」
「それが、本当の勇気です。」
悠真とエレナは静かに耳を傾ける。
大蛇は二人を見渡した。
「覚えておきなさい。」
「英雄とは。」
「最後まで戦った者ではありません。」
「生きて帰った者です。」
「生きて帰った者だけが。」
「また誰かを守れます。」
風が森を吹き抜ける。
朝日に揺れる木々が、静かにざわめいた。
大蛇は穏やかに微笑む。
「これで修行は終わりです。」
「もう、お二人へ教えられることはありません。」
悠真は驚いたように顔を上げる。
「え……?」
エレナも目を丸くした。
大蛇は静かに頷く。
「ここから先は。」
「あなたたち自身の旅です。」
二人は言葉を失う。
修行は終わった。
だが、それは終わりではない。
本当の戦いの始まりだった。




