第19話 終わりの先
夜。
森は静寂に包まれていた。
焚き火が静かに爆ぜる。
薪の燃える音だけが、ゆっくりと流れる時間を刻んでいた。
エレナは毛布に包まり、穏やかな寝息を立てている。
大蛇も木へ背を預け、静かに目を閉じていた。
だが。
悠真だけは眠れなかった。
右手を見る。
握る。
開く。
もう一度、強く握る。
違和感はない。
痛みもない。
皮膚も。
筋肉も。
骨も。
すべて元通りだった。
だからこそ怖い。
確かに、この腕は切り落とされた。
骨が砕ける音も。
肉が裂ける感覚も。
流れ落ちる血の温度も。
あの激痛も。
全部覚えている。
それなのに。
今は何事もなかったように動いている。
悠真は右腕へ左手を添えた。
温かい。
脈もある。
生きている腕だ。
それでも。
自分の身体なのに、自分の身体ではないような感覚だけが消えなかった。
「……。」
眠れるはずがなかった。
「眠れませんか。」
静かな声。
悠真が振り向く。
大蛇が目を開けていた。
「あ、起こしました?」
「いえ。」
「元々起きていましたから。」
悠真は少し苦笑する。
焚き火が小さく弾けた。
少しだけ沈黙が流れる。
炎を見つめたまま、悠真は口を開いた。
「大蛇さん。」
「はい。」
「俺って……死なないんですか?」
焚き火が揺れる。
大蛇は答えない。
悠真は続けた。
「だって。」
「腕が生えたんですよ。」
「普通じゃない。」
「エレナは、不死身だとか無敵だとか言ってましたけど……。」
少し笑う。
だが。
その笑顔は弱かった。
「俺は少し怖いです。」
「……何がですか?」
「もし死なないなら。」
「みんな居なくなりますよね。」
「エレナも。」
「大蛇さんも。」
「俺の知らない誰かも。」
「みんな歳を取って。」
「みんな死んで。」
「俺だけ残るのかなって。」
焚き火が、小さく音を立てる。
「そんな人生だったら。」
「俺……笑って生きていける気がしません。」
夜風が吹く。
木々が静かに揺れた。
大蛇は夜空を見上げる。
満天の星が広がっていた。
「怖いですよ。」
悠真は顔を上げる。
「私は長く生きています。」
「ですが。」
「別れに慣れたことは、一度もありません。」
「慣れないものなんですか?」
「ええ。」
「慣れてしまったら。」
「その人を大切に思えなくなったということですから。」
大蛇は少しだけ微笑んだ。
「何百年生きても。」
「見送る時は悲しい。」
「寂しいものは寂しい。」
「涙も流れます。」
「それでいいのです。」
悠真は静かに焚き火を見る。
炎は燃え続けている。
同じ炎は一つもない。
形を変えながら、燃えていた。
「ですが。」
「別れがあるから、出会いが無意味になるわけではありません。」
「私は今まで出会ったすべての人に。」
「出会えて良かったと思っています。」
少しだけ昔を思い出すように目を細める。
「泣いた日もありました。」
「笑った日もありました。」
「救えなかった命もありました。」
「それでも。」
「あの出会いが無ければ良かったと思ったことは、一度もありません。」
悠真は黙って聞いていた。
「永遠を生きる者はいません。」
大蛇は穏やかな声で続ける。
「命には、必ず終わりがあります。」
「それが今日なのか。」
「百年先なのか。」
「千年先なのか。」
「それは誰にも分かりません。」
「終わりがあるから命は大切なんです。」
「限りがあるから。」
「人は今日という一日を大切にできます。」
「隣にいる人を。」
「当たり前だと思わずに済むのです。」
悠真は夜空を見上げた。
無数の星が静かに輝いている。
「……そういうものですか。」
「ええ。」
「そういうものです。」
静かな時間が流れる。
誰も話さない。
焚き火だけが小さく揺れていた。
「……私も眠れない。」
後ろから小さな声がした。
二人が振り向く。
毛布を抱えたエレナが立っていた。
少し照れくさそうに笑う。
「ごめん。」
「途中から全部聞いちゃった。」
悠真は苦笑する。
「聞かれてたのか。」
「うん。」
「寝ようと思ったんだけど。」
「寝られなかった。」
エレナは焚き火の前へ座る。
三人で炎を囲む。
しばらく誰も話さない。
その沈黙が、不思議と心地良かった。
やがて大蛇が立ち上がる。
「私は少し休みます。」
「お二人も、夜更かしはほどほどに。」
穏やかに微笑み、小屋へ戻っていく。
残されたのは二人だけだった。
エレナが立ち上がる。
「少し歩こ?」
悠真は頷いた。
二人は夜の森をゆっくり歩き始める。
冷たい風。
土の匂い。
虫の鳴き声。
見上げれば、木々の隙間いっぱいに星空が広がっていた。
「私ね。」
エレナが空を見上げる。
「小さい頃。」
「星って、死んだ人が行く場所だと思ってた。」
悠真は笑う。
「今は?」
「今は違う。」
エレナも笑った。
「生きてる人も。」
「同じ星を見上げてる。」
「だから。」
「一人じゃない。」
悠真は立ち止まる。
静かに夜空を見上げる。
今日、大蛇が話してくれたこと。
死ぬこと。
生きること。
別れること。
全部が頭の中を巡る。
「俺さ。」
自然と口が動いた。
「みんな居なくなるのも嫌だけど。」
少し間が空く。
「エレナが居なくなるのは。」
「もっと嫌だ。」
言った瞬間。
自分でも驚いた。
「……あ。」
エレナは何も言わなかった。
少しだけ目を丸くし。
やがて、ふわりと笑った。
「ありがと。」
その一言だけだった。
二人は並んで歩き出す。
肩が触れそうで触れない距離。
夜風が二人の間を通り抜けていく。
静かな夜だった。
だが。
少し離れた場所から、大蛇は二人を見つめていた。
この少年が歩く未来を知っている。
この少女が流す涙も知っている。
だからこそ。
何も知らず、同じ星空を見上げる二人の時間が愛おしかった。
願わくば。
あと少しだけでも。
この穏やかな夜が続いてほしい。
母として。
師として。
一人の子を想う者として。
大蛇は誰にも聞こえないほど小さく息を吐いた。
夜空には、静かに星が輝いていた。
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『終わりがあるから命は尊い。
別れがあるから出会いには意味がある。』




