第18話 生き残るために
エレナにだけ、見え始めていた。
森に静寂が訪れる。
誰も動かない。
悠真も。
エレナも。
そして、大蛇も。
風だけが三人の間を静かに吹き抜けていく。
エレナは大蛇を見つめたまま動けなかった。
目の前に立つ大蛇。
その姿に、もう一人の大蛇が重なる。
今、この場所に立つ大蛇。
そして、ほんの一瞬先へ踏み込む大蛇。
二つの姿が、淡く重なって見えていた。
「……。」
大蛇は静かにエレナを見つめる。
黄金色の瞳が、その変化を見逃すことなく捉えていた。
「なるほど……。」
穏やかな声が森へ溶ける。
「今日は、ここまでにしましょう。」
その言葉を聞いた瞬間、悠真は刀を支えにその場へ膝をついた。
「はぁ……。」
全身から力が抜ける。
腕は痺れ、脚は震え、呼吸をするだけで胸が痛い。
「もう……身体が動きません。」
エレナも双短剣を下ろし、その場へ座り込んだ。
それでも視線だけは大蛇から離れない。
「まだ……見えます。」
小さく呟く。
「今の大蛇さんと……その先にいる大蛇さんが。」
大蛇は静かに頷いた。
「無理に見ようとしてはいけません。」
「その力は、目で見るものではありません。」
「見ようとすれば、今という景色に囚われます。」
「恐怖も。」
「痛みも。」
「迷いも。」
「すべて受け止めた先で、初めて見えてくるものです。」
エレナはゆっくりと目を閉じた。
深く息を吸う。
ゆっくり吐く。
肩から力を抜く。
すると重なっていた景色は、少しずつ一つへ戻っていった。
「消えました……。」
「それでいいのです。」
大蛇は穏やかに微笑む。
「必要な時、その感覚は必ずあなたを導きます。」
悠真は苦笑した。
「俺も、そんなふうになれるんでしょうか。」
大蛇は悠真へ視線を向ける。
「焦る必要はありません。」
「あなたには、あなたの才能があります。」
「昨日の自分より、一歩前へ進めたか。」
「それだけを見なさい。」
悠真は静かに頷いた。
昨日の自分なら、大蛇の姿を追うことすらできなかった。
今日は、一瞬だけ反応できた。
それだけでも前へ進めている。
大蛇は二人へ背を向ける。
「今日は身体を休めなさい。」
「明日、その感覚が本物かどうか確かめます。」
夕日に染まる森を、三人は静かに歩き始めた。
誰も言葉を交わさない。
修行で疲れ切った身体には、その静けさが心地よかった。
その夜。
悠真は倒れ込むように眠りについた。
エレナも幾度となく目を閉じる。
脳裏には何度も、大蛇の姿が映った。
今の姿。
その先の姿。
意識すると消え。
力を抜くと、また現れる。
まるで、その感覚を身体へ刻み込むように。
翌朝。
朝露に濡れた森。
木々の隙間から差し込む朝日が白い霧を照らし、静まり返った森には、小鳥のさえずりだけが響いていた。
昨日の激しい修行が嘘のような穏やかな朝。
だが、その静けさの中で、悠真とエレナの表情は引き締まっていた。
二人の身体には、まだ昨日の傷が残っている。
腕を動かせば筋肉が軋み、足を踏み込めば鈍い痛みが走る。
それでも昨日までとは違う。
恐怖に支配されていた瞳は、今は大蛇だけを真っ直ぐ見据えていた。
冷たい空気の中、大蛇は静かに二人と向き合った。
「では、昨日の続きを始めましょう。」
その声が終わるより早く。
大蛇の姿が霞み、音もなく消える。
風だけが遅れて頬を撫でた。
だが。
エレナは迷わなかった。
視界の奥に浮かぶ僅かな違和感。
現在の大蛇。
そして、次の瞬間に踏み込む大蛇。
二つの姿が重なる。
考えるより先に身体が動いた。
半歩だけ左へ。
白い閃光が頬を掠め、数本の髪が宙を舞う。
鋭い斬撃は何もない空間だけを切り裂いた。
大蛇が足を止める。
「……。」
森が静まり返る。
僅かな沈黙。
やがて、その口元が柔らかく緩んだ。
「手加減していたとはいえ、私の初撃を避けるようになるとは……成長しましたね。」
エレナは肩で息をしながら首を傾げる。
「えっ……手加減?」
大蛇は静かに頷いた。
「ええ。」
「昨日の目的は、勝つことではありません。」
「生き残ることです。」
悠真が眉をひそめる。
「生き残る……?」
「はい。」
大蛇は二人を見渡した。
「今のあなたたちでは、上位種に勝つことはできません。」
「ですが。」
「初撃を避け、距離を取り、逃げ延びることはできます。」
穏やかな声だった。
しかし、その言葉には一切の迷いがない。
「今のあなたたちに最も必要なのは、勝利ではありません。」
「死なないことです。」
「生きてさえいれば、また強くなれます。」
「ですが、死ねば終わりです。」
その一言が、二人の胸へ静かに落ちる。
昨日、何度も死を覚悟した瞬間が脳裏を過ぎった。
エレナは双短剣を握り直す。
「つまり……逃げるための力だったんですね。」
「ええ。」
大蛇は穏やかに微笑んだ。
「逃げることは敗北ではありません。」
「生きるための選択です。」
「そして、生き残った者だけが、いつか勝てる日を迎えます。」
悠真は静かに刀の柄を握り締めた。
その言葉の重みを、昨日の痛みが何よりも証明していた。
その時だった。
大蛇の表情が僅かに変わる。
黄金色の瞳が森の奥を見据えたまま動かない。
「……来ますね。」
空気が変わる。
小鳥の鳴き声が止み、風さえも息を潜めた。
悠真が刀へ手を掛ける。
「怪異ですか?」
「ええ。」
大蛇は頷く。
「中位種です。」
一拍置いて静かに続けた。
「ですが……。」
視線は森のさらに奥へ向けられたままだった。
「数が多いですね。」
直後。
木々の間から黒い影が現れる。
一体。
二体。
三体。
草を踏み潰す音が重なる。
十。
二十。
三十。
群れだった。
低い唸り声が森を満たし、濃密な殺気が辺りを覆う。
悠真が息を呑む。
「多すぎるだろ……。」
エレナも表情を強張らせる。
「全部、中位種……?」
「最近、増え方が異常です。」
大蛇は静かに呟いた。
「境界の侵食が、私の想定より早い。」
悠真はゆっくりと刀を抜く。
刃が朝日を受けて鈍く光る。
エレナも双短剣を構え、深く息を吸った。
大蛇は二人を見つめる。
「悠真さん。」
「エレナさん。」
「これは実戦です。」
「私は命を預かります。」
「思い切り戦いなさい。」
二人は顔を見合わせる。
互いの瞳に浮かぶ恐怖も、不安も隠さなかった。
それでも。
小さく笑い合い、力強く頷く。
「はい!」
次の瞬間。
中位種が一斉に駆け出した。
地面が震える。
訓練とは違う。
本物の殺意。
本物の戦場だった。
「っ!」
悠真が最初の一体を斬り伏せる。
だが、休む暇はない。
次の怪異が牙を剥き、さらにその後ろから別の影が迫る。
「悠真!」
エレナの声が飛ぶ。
「右へ二歩!」
悠真は迷わず従う。
爪が鼻先を掠める。
そのまま刀を振るい、一体を斬る。
「しゃがんで!」
悠真が身を沈める。
頭上を尾が唸りを上げて通り過ぎた。
「今!」
立ち上がる勢いのまま斬撃を放つ。
二体目が崩れ落ちる。
呼吸を合わせるように、二人は動き続けた。
エレナが見る。
悠真が斬る。
悠真が守る。
エレナが導く。
昨日まで噛み合わなかった動きが、一つの流れとなり、まるで長年共に戦ってきたかのような連携へ変わっていく。
そして。
最後の一体。
中位種がエレナへ飛び掛かった。
「エレナ!」
悠真の叫び。
間に合わない。
その瞬間。
エレナの視界に、二つの世界が重なる。
今の怪異。
次の瞬間の怪異。
爪の軌道。
踏み込み。
重心。
筋肉の収縮。
すべてが一瞬だけ重なって見えた。
「……大丈夫。」
一歩。
右へ。
爪が空を切る。
怪異の懐へ潜り込んだ悠真の刀が、静かに首を断ち切った。
最後の一体が崩れ落ちる。
静寂。
荒い呼吸だけが森に響いた。
悠真はその場へ座り込む。
「死ぬかと思いました……。」
エレナも苦笑する。
「私も……。」
「でも、本当に見えた。」
大蛇は穏やかに頷いた。
「お見事です。」
「これで、お二人は初めて実戦を生き抜きました。」
二人は安堵の息を漏らす。
しかし。
大蛇だけは笑っていなかった。
森の奥を見つめたまま、小さく呟く。
「……早すぎます。」
悠真が顔を上げる。
「何がですか?」
「本来、この辺りに、これほどの中位種が群れることはありません。」
「境界の侵食が、私の予想以上に進んでいます。」
夕暮れの風が森を静かに吹き抜ける。
怪異の亡骸を揺らし、三人の髪を撫でていく。
大蛇は静かに二人へ向き直った。
「急がなければなりません。」
その一言だけが、静かな森に重く響いた。




