第15話 英雄の血
朝。
森の奥から、爽やかな鳥の声が響く。
野営地の天幕の中で、悠真はゆっくりと目を開けた。
悠真
「・・・朝か。」
身体を起こす。
無意識に、右腕を見た。
手を握る。開く。
一ミリの違和感もない。
皮膚の感触も、爪の形も、まるで最初から何も無かったみたいだった。
悠真
「本当に生えてる・・・。」
エレナ
「本当に生えてるじゃないよ!」
隣から、鋭い声が飛んできた。
振り向く。
そこには、目の下に不自然な隈を作ったエレナが座っていた。
黒いパーカーのフードを少し落とし、怒ったように悠真を睨みつけている。
悠真
「・・・寝てないのか?」
エレナ
「誰のせいだと思ってるの?」
悠真
「・・・ごめん。」
エレナは不満げに頬を膨らませる。
だが、その視線は悠真の右腕に、その五本の指に、片時も離せないと言わぬばかりに吸い付けられていた。
──昨夜、目の前で宙を舞った血塗れの右腕。
あの瞬間、エレナの心臓は凍りつき、世界から完全に色が消えた。
私のせいで、この人が死ぬ。
その絶望の底で流した涙の熱さが、まだ瞼の裏に残っている。
生きていてくれた。ただそれだけの事実が、今の彼女には奇跡のようだった。
大蛇が、温かい飲み物の入った器を持って歩み寄ってくる。
大蛇
「気分はどうですか?」
悠真
「大丈夫です。驚くくらい、普通ですね。」
大蛇は悠真の細い手首に指を当て、静かにその脈を測る。
見つめる大蛇の目が、微かに細められた。
悠真の顔色は悪くない。脈も正常。
昨日、あれだけの失血をした人間とは到底思えなかった。
大蛇
「血液まで、瞬時に再生しているのでしょうか・・・。」
悠真
「そんなことあるんですか?」
大蛇
「普通はありません。普通なら、ですが。」
悠真は、自傷気味に苦笑する。
「最近、その普通って言葉を本当に聞かなくなりましたね。」
大蛇はそれを見て、小さく、優しく笑う。
「そうですね。悠真さんと出会ってから、特に。」
大蛇は傍らに置いてあった、丁寧に畳まれた新しい衣服を悠真へと差し出した。
昨夜の激戦でボロボロになり、赤黒く染まってしまった衣服の代わりだった。
集落で用意された、現代の男の子が着るようなごく普通の衣服。
大蛇
「それから、こちらを。着替えてください。」
悠真
「あ、ありがとうございます。助かります。」
大蛇は立ち上がる。
「問題なさそうですね。予定通り、次の封印へ向かいましょう。」
悠真
「分かりました。」
新しい服に身を包み、荷物をまとめ、歩き始める。
身体は驚くほど軽かった。本当に、昨日腕を失ったことなど嘘みたいだった。
その道中。
先頭を歩いていたエレナが、唐突に足を止めた。
悠真
「どうしたんだ?」
エレナは振り返らない。黒いパーカーの背中が、微かに震えていた。
沈黙。
彼女は、ずっと考えていた。
戦い方すら知らないくせに、いつも一番に前へ飛び出していく、この頼りない背中のことを。
エレナ
「・・・ありがとう。」
悠真
「ん?」
エレナ
「助けてくれて。私・・・動けなかった。怖くて、何も出来なかったの。」
──怖かったのは、上位種の殺意だけじゃない。
それ以上に、この人が壊れて、二度と動かなくなることが、息ができないほど怖かった。
悠真は少し考える。
それから、いつものように穏やかに笑った。
悠真
「俺も怖かったよ。」
エレナ
「 ...…え?」
少女が驚いたように振り返る。金髪が朝風に揺れた。
悠真
「怖かったんだ。エレナが傷つくのがさ。」
エレナは言葉を失う。
まっすぐに向けられる、少年の無垢な言葉。
何の見返りも求めず、当然のように自分を盾にした理由が、それだけだったなんて。
悠真
「気付いたら勝手に身体が動いてた。後のことなんて、何も考えてなかったよ。まぁ・・・エレナに会わなかったら俺、とっくに夜の街で死んでたと思うしね。お互い様だろ。」
山道を風が吹き抜けていく。
エレナは、勢いよく俯いた。
耳の先まで、カッと熱くなっていくのが自分でも分かった。
胸の奥が、締め付けられるように熱い。
記憶喪失で、無知で、低級相手に死にかける大馬鹿野郎のくせに。
どうして、そんな顔で、そんな言葉を簡単に言えるのだろう。
悠真
「 ...…エレナ?」
エレナ
「な、なに?」
悠真
「顔、赤くないか?」
エレナ
「うるさい!」
悠真
「痛っ。急に叩くなよ。」
エレナ
「・・・痛かったよね?」
悠真
「それなんだけど・・・。」
少し視線を彷徨わせ、肩をすくめる。
「めちゃくちゃ痛かった。本当に痛かったよ。普通に泣くかと思った。」
エレナ
「ふふっ。」
悠真
「いや、笑い事じゃないからな? 次やれって言われても絶対嫌だ。」
エレナは、声を立てて笑った。
本当に、この人が生きている。綺麗な服を着て、冗談を言って、痛がって、笑っている。
もう、誰も目の前で失わなくていい。
その絶対的な救いが、彼女の凍りついていた心を優しく溶かしていく。
その時だった。
胸の奥の熱が、さらに深く、甘い痛みに変わる。
ただの「仕事の同行者」だったはずの存在が、エレナの中で決定的に書き換わった。
──ああ。私。この人のこと。
好きなんだ、と。
もう、認めざるを得なかった。自分の命よりも大切にしたいと思える人に、出会ってしまったのだと。
風が優しく吹き抜ける。
悠真はそんな少女の心の変化など何も知らないまま、眩しそうに青い空を見上げていた。
エレナは、少しだけ嬉そうに、愛おしそうに笑った。
────
救われたのは、
悠真じゃなかった。




