第二章 優華と鏡太
「待って!」
鏡太くんの声は風にかき消されそうに揺れた。ビルの屋上は風が強くて声が届かないかもしれない。
「なんで?」
その子は振り返った。よかった、聞こえてるみたい。
「なんであんたに止められなきゃいけないの。」
その子の声は高く澄んでいて空気の隙間を貫くように私の耳に届いた。
「理由なんてない。」
鏡太くんはかっこよく言い切った。
「ビルの屋上から飛び降りようとしている人がいたら止めるのがヒーローだ。」
「ヒーロー?」
その子は笑った。
「あなたヒーローなの?」
違う。鏡太くんはヒーローじゃない。
「そうだ。」
鏡太くんは嘘をついた。でも、あの子にはこれが嘘だと知る術はない。
「ヒーローは何も助けてくれないわ。名前だけの嘘っぱち。」
「そんなことない。事実今君を助けようとしている。」
「私を本当に助けたいなら、放っておいてくれない?」
「それはできない。」
見たところ高校生くらいの女の子は、ビルの屋上のフェンスを片手で握りながら震えていた。まだフェンスは超えていない。まだ助けられるかもしれない。鏡太くんは彼女に向かって一歩踏み出した。
「来ないで!」
女の子は叫んだ。この距離から走ったとして、フェンスを越えようとしている彼女には届かないかもしれない。止まるしかない。
「わかった。」
鏡太くんもそれは理解しているようだった。私たちはその場に留まることを選んだ。女の子はフェンスに両手をかけて体重を乗せて体を持ち上げ、片足をフェンスの向こう側に下ろした。フェンスに跨った少女は、震えながら笑っていた。
「もしあんたが本当にヒーローならさ、こんな世界ぶっ壊してよ。」
彼女はもう鏡太くんには届かないかもしれない。最悪の映像が頭をよぎった。
「きっとすごい能力でも持ってるんでしょ。」
鏡太くんは迷っているようだった。今から追いかけても、彼女には届かないだろう。説得しか道は残っていないように思えた。
「落ち着くんだ。」
「落ち着いてるわ。」
嘘だ。彼女の体は震えている。私には彼女を覆い尽くす死への恐怖が見えた。
「私は、私の意思で死ぬことを選ぶわ。」
震えたまま彼女は言い切った。
「もういいわね。ヒーローに私は救えない。」
鏡太くんはかける言葉に悩んでいるようだった。
「ヒーローが救えるのはヒーローになった自分だけよ。」
少女は残っていた片足もフェンスの上を通して、フェンスの上に座った。
「私もね、私を救ってあげるの。」
少女は体重を前にかけ、フェンスから飛び降りようとした。鏡太くんは走り出した。もう遅い。そう分かっていながら、足を踏み出した。結局私たちも、救えないと分かっていながら、救いたいというわがままな自分のために走っている。自分には自分しか救えない。そうかもしれないと思った。
「じゃあね。」
少女は灰色の空に落ちていった。
「鏡太くん、何見てるの?」
鏡太くんはさっきからずっとぼーっとしていた。意識がどこかに飛んでいったみたいに遠い目をして、宙に浮かぶ何かを見ているみたいだった。
「ああ、ごめん、ちょっと昔のことを思い出してたんだ。」
「せっかくヒロシの対策してるんだから、ちゃんと集中してよね。」
「うん。」
鏡太くんは大学の同期で今はヒーロー試験、通称ヒロシの対策中。大学の空いてる教室を使って筆記試験の対策をしていた。
「もうあと一ヶ月だもんな。」
「うん、頑張んなきゃ。」
先のことはあんまり考えたくないけど、ヒロシが迫ってきていると思うとそうも言ってられない。今は五月で、六月に試験があって、十月に内定が出るみたい。来年の四月からは私もヒーローになるのかぁ。なんか実感が湧かないな。憧れていたヒーローに実際自分がなるというのは現実味がなく思えた。私が、こんな私が、ヒーロー?私はヒーローとして働く自分を上手く想像できなかった。まあいいの、とりあえず今はヒロシに集中。そういえば鏡太くんはさっき、「昔を思い出してた」って言ってたけど、どんなことを思い出してたんだろう。子どもの頃の鏡太くんの話とか、ちょっと興味あるかも。
「鏡太くん、何を思い出してたの?」
「んー、大したことじゃないよ。」
鏡太くんはにこっと笑った。まるで作られたかのような完璧な笑み。出た、この笑い方。私は心の中で思った。彼が何かを誤魔化す時の笑い方。ずるい。あんな風に笑われたら、私はそれ以上何も言えなくなってしまう。
「えっと、次は火災現場での状況を判断する問題だね。」
「うん。」
私はいろんな気持ちを抑えて、また勉強に集中することにした。鏡太くんと心理戦をやっても勝てる気がしない。どうせまたあの笑顔で、にこっと魔法にかけられてしまうんだ。鏡太くんとの距離は、常に一定。ある程度以上は、絶対に踏み込ませてくれない。私が踏み込めない領域には、どんな顔の鏡太くんがいるんだろう。どんな顔をして生きてきたんだろう。きっと、私が知ることはない。
「ただいまー。」
「あら優華、おかえり。」
私が家に帰って声をかけると、お母さんが返事をしてくれた。お母さんはちょうど晩御飯の準備をしていたみたいで、私が台所に顔を出すと、「もうすぐできるからね」と言ってぱたぱたと動き回っていた。私は鞄を自分の部屋に置いて晩御飯の準備に加わった。
私がご飯をよそっていると、お母さんが聞いてきた。
「最近、鏡太くんとはどうなの。」
「どうって、別に何もないわよ。」
「あらそう。」
お母さんは一人娘の恋愛事情に興味津々らしく時々こうやって聞いてくる。進展なんてないよ。あればいいな、とは思ってるんだよ。思ってるだけでなんにもできないけど。
「あ、お母さん、今日のご飯ちょっと固め?」
「あら、お水の量間違えたかしら。」
私はなんとか話題を逸らしてその場を凌いだ。今日も美味しそうな晩ごはんが私を待っている。それだけで幸せな気持ちになってしまう私は、おそらく単純なのだろう。そして、鏡太くんはそんなに単純じゃないんだろうなと思う。彼の表情には、時々翳りがある。寂しそうな彼の表情を見ると、私まで寂しくなってくる。それを思うとご飯を前にした嬉しい気持ちも少し萎んでしまった。でも、ご飯を食べれば元気になる。それが私。
「いっただっきまーす。」
「いただきます。」
今日もお父さんの帰りは遅いみたい。お母さんはいつも決まった時間にご飯を作ってくれるから、私はそれに合わせて家に帰る。実質的な門限みたいなもので、過保護だなあと思わずにはいられない。
「あ、この煮物美味しい。」
「そうでしょ、昨日から下ごしらえしておいたの。」
「へえー!」
料理が得意な自慢のお母さんだ。私のお母さんは料理が好きでこうやっていろんなものを作ってくれる。私がジャンクフードよりも素朴な食事の方を好きになったのはお母さんの努力の結晶だと思う。お母さん、いつもありがとう。いつか鏡太君にも食べてほしいな。スーパーの惣菜とかばっかり食べてるって言ってたし。
「今日ね、鏡太くんと一緒にヒロシの勉強したの。」
「あら、仲良しね。」
そうだといいんだけど、と声には出さずに思った。鏡太くんはどれだけ距離を縮めても近くに寄れた気がしない。どんなに近づいても、どんな会話をしても、むしろ遥か遠くにいるんだと感じさせられることばかりで、嫌になっちゃう。
「今日は集中力がなかったように見えたんだけど、何かあったのかなあ。」
「そういう日もあるわよ。」
うーん、と私は唸った。心の中では、何か彼に思うところがあったんだろうと思わずにはいられなかった。何を思い出していたんだろう。私の知らない鏡太くんは、どんな顔をして生きてきたんだろう。あんな風に笑うようになったのは、いつからなんだろう。きっと私の知らない鏡太くんが、そこにはいる。
「ごちそうさまでした。」
「今日の煮物何点?」
「百点。」
「いつも通りってことね。」
お母さんとのお決まりの会話を終え、私は席を立った。お母さんも同時に立ち上がり、布巾で机を綺麗にし始めた。私は食器を流しに置いて自分の部屋に戻った。部屋には、少し前に買ったギターがあった。私はスタンドに立っているギターを少し眺めた。
「うん、かっこいい。」
憧れていたエレキギターをお小遣いで買ったのが一ヶ月前のこと。ヒロシの勉強の息抜きにってことで買っちゃった。ギタースタンドから黄色が可愛いギターを外してストラップを首に通し、椅子に座った。この重みが心地いい。じゃーんと鳴らしてみる。うん、かっこいい。このギターは、私にはまだ上手く弾けない。だから今日も練習の時間だ。弦に左手を添え、右手でぽろんと鳴らしてみる。私がコードを弾こうとするとどうしても一弦だけがうまく鳴ってくれないギター。一番細くて一番繊細な弦が、私の左手の一番不器用なところに当たってうまく音が鳴ってくれないの。私とは相性が悪いのかもね、と思ったりもしてみたけど、やっぱり悔しくて練習する。その弦は今日も不機嫌で、綺麗には鳴ってくれなかった。三十分くらい練習した後、私は不貞腐れてギターをスタンドに戻し、ベッドに寝転んだ。明日また練習しよう。今日はこれからお風呂に入って、それからもう少しだけ勉強して寝よう。睡眠時間を削るとお父さんが怒るからなるべく夜更かしはしないようにしている。そのおかげで私の睡眠時間はバッチリ。お肌の調子も良い。やっぱ人間寝なくちゃダメね。私はお風呂に向かった。
「優華、ギターの調子はどう?」
「零点!」
「こっちもいつも通りなのね。」
お母さんは過保護だ。娘のギターなんて放っておけば良いのに。まあうちのお母さんは「趣味は?」って聞かれて「娘です」と答えるような人だから仕方ないのかもしれない。私がヒーローになって独り立ちしたらどうするのかしら。
お風呂に入って湯船に浸かると、いつも通り私は考え事を始める。今日のテーマは、最近一番出てくるテーマだった。鏡太くんのことだ。鏡太くんは、いつも何かから自分を守っているように見える。何かに怯えているように見えるの。一体何を恐れているのだろう。何が鏡太くんをそんな風にしてしまったのだろう。何かが、鏡太くんから大切なものを奪ってしまったのだろうか。その経験から彼が自分を守ろうとしているのであれば、すごく納得がいく。考えすぎだろうか。本人に聞いてみれば早いんだけど。そんな彼のガードを真正面から突破するようなことは私にはできない。私にできるのは、彼のガードの隙間からその中身を覗くことだけ。また明日もその中身を覗いてみよう。
私がお風呂から上がるとお父さんが帰ってきていた。
「優華、ただいま。」
「おかえり。」
お父さんはそれだけ言うとお母さんの作ったご飯を食べに食卓へ行ってしまった。私も少し勉強して寝ようと思った。だけど結局、勉強にはあまり手がつかず、私はすぐに寝ることにした。
その夜、私は夢を見た。もう何度も見た、あの日の夢だ。悪夢だった。
少女が落ちていったビルの屋上で、残された私たちの間には無言のビル風が吹いた。
「助けられなかった…。」
鏡太くんはフェンスに手をかけて項垂れた。私は鏡太くんにかける言葉を選んだ。
「頑張ったと思うよ。」
私にとっても衝撃的な出来事だったけど、私よりショックを受けている鏡太くんを見ていると、なんだか冷静になれるような気がした。落ち着いて。もう、どうにもならない。終わってしまったんだ。もうすぐパトカーや救急車の音が聞こえる。私に今できるのは、憔悴している鏡太くんをサポートすること。落ち着いて。
「僕に能力があれば助けられたのかな。」
鏡太くんはポツリと言った。
「能力の問題じゃないと思うよ。」
「やっぱり能力のない人が誰かを助けようなんて間違ってたんだ。」
会話が成立してない。
「僕に力があれば。」
その時、少女が落ちたはずのビルの下の方から声がした。知ってる。いつもの夢だ。
「私を助けられなかったくせにヒーローを名乗るの?」
「ごめん。」
鏡太くんは謝った。
「私も、落ちても無事だと思った?」
「ううん。」
「あなたは誰も助けられない。自分ばっかり守って傷つかないようにしてる。」
鏡太くんは黙ってしまった。
「無敵で無力なスーパーヒーローはあなたのことね。」
傷ついた鏡太くんは見ていられなかった。
「違う。」
私は声を出した。でも、誰にも届かない。
「鏡太くんは優しくて賢くてかっこいいヒーローなの。」
「ごめんなさい。」
鏡太くんは謝った。
「お前のせいで人が死んだ。」
「違う。」
「ごめんなさい。」
「お前じゃ誰も救えない。」
「違う。」
「ごめんなさい。」
「無能、無能力、使えないゴミ。」
「違う。」
「ごめんなさ…。」
目が覚めた。
「鏡太くん…?」
私は夢の内容を完璧に覚えていた。何度も見た夢だ。鏡太くんの夢。これは本当にあった出来事なのかな。場所の設定も時間軸もあやふやで、現実味がなく思えた。これは鏡太くんが経験したことなのか、それとも私の脳みその創作なのか、わかんないな。あの女の子は誰?いつも夢に出てくるけど、会った事も見た事もない。本人に聞けばいいんだけど、聞けない。「鏡太くんが女の子を助けられなかった夢を見たんだけど」って、変じゃない?私はどうすることもできない気持ちを抑えたくてギターを手に取った。安心する重みと同時に自分の不器用な手が寝起きの私に襲いかかってきた。私は結局ポロンと少しだけ音を鳴らしてギターをスタンドに戻した。この触り方なら、一弦も綺麗に鳴った。それがなんだか、どうしようもなく悔しかった。
台所に行くと、お母さんが朝ごはんを用意してくれていた。お母さんの朝ごはんはいつも美味しい。これでリセット。いつもの私。大丈夫。きっと鏡太くんとももっと仲良くなれる。私はご飯をかき込んで食べた。
「ごちそうさま。」
食べ終わった後、私は手を合わせた。食器を流しに置き、自分の部屋に戻ってスマホを確認した。鏡太くんにメッセージを送るの。
「今日も五時にあの教室で。」
っと。いつも誘うのは私から。鏡太くんから誘ってくれたことは、覚えてる限りでは一回もない。こりゃダメそうね。私は何回目かもわからない自虐をした。脈なしです。でも、いいの。私は私を喜ばせてあげるの。だからこうしてまた、鏡太くんからの返信を待つ。しばらくして、私が家を出る準備をしていた時、スマホに通知が来た。鏡太くんからは、「了解」というスタンプが送られてきていた。こんなので喜んでしまう私は、ちょろい。




