第一章 勝負と事件、自由落下のその先は
僕らは順番にシャワーを浴びた。寝る段階になった時、沖野がゴネ始めた。
「君も一緒に寝てよ。」
「僕は床で寝るよ。君がベッドで寝て。」
「んー、やだ。」
沖野はごねたけど、僕は譲らなかった。
「僕は床で寝るから。」
「じゃあ一つ、勝負をしようよ。」
「勝負?」
「そう、簡単な勝負。やる?」
「どんな勝負かによる。」
「それは後のお楽しみ。まずは『やる』って言って。じゃなきゃ明日以降も毎日この家に来るから。」
「わかったよ。やる。」
「よろしい。」
沖野は笑顔で頷いた。僕はどうやら怪しい賭けに乗ってしまったようだ。
「それじゃ勝負の内容を説明するね。今から問題を何問か出すから、当たったら床で寝るのを許してあげる。」
「一問でも当たればいいの?」
「うん。簡単でしょ。」
沖野は自信満々のような顔だった。一問くらいなら僕でも正解できるだろう。
「じゃあ一問目。」
そう言うと沖野は自分の鞄をゴソゴソと漁り始め、名刺ほどのサイズの小さなプラスチックケースを取り出した。
「このケースに入っているものは何でしょう?」
「そういうクイズかよ。」
「いいから。早く答えて。」
なんだろう。このサイズのケースに入るもので、女の子が持ってるもの。
「特別にヒントあげる。」
そう言うと沖野は、そのケースを軽く左右に振った。するとケースからカチャカチャと言う音がした。どうやら硬いものが入っているらしい。僕は少し悩んで、答えを出した。
「ヘアピン。」
少し自信があった。でも、答えを言った瞬間に、「もしヘアピンだったら、どうしてそんな問題を出したんだろう」という疑問が湧いた。
「ブッブー。」
沖野は嬉しそうに笑った。そしてケースを開けた。
「正解は、安全ピンでしたー。」
僕は、「なぜそんなものを持っているのだろう」という疑問が頭に浮かんだ。沖野は笑顔で続けた。
「じゃあ、第二問。この安全ピンを、無敵である私に刺すと、どうなるでしょうか。」
僕は絶句した。沖野は、きっとそれを試したことがあるのだ。自分の柔らかい肌に、あの尖った無機物を突き立てたことがあるのだ。僕はそれを想像して、少しの間閉口してしまった。
「さあ、どうなるでしょーか。」
沖野は笑顔だった。まるで、苦しんでいる僕を見て満足しているかのような、そんな笑みだった。
「わからない。」
僕は正直に答えた。沖野が傷つくのも、彼女が自分を傷付けなくてはいけないほど傷付いていると知るのも、嫌だった。僕は考えるのをやめようとした。
「ファイナルアンサー?」
少し躊躇ってから沖野の目を見ると、彼女は僕をまっすぐに見ていた。僕はそれから逃げようとして目を逸らした。
「じゃあ不正解ね。」
沖野はつまらなさそうに言った。
「正解は、」
僕は沖野を見た。彼女は、安全ピンを手に取り、自分の左手首に刺そうとしていた。僕は息を飲んだ。安全ピンの鋭い先端が、ゆっくりと肌に突き立てられた。沖野の安全ピンを握る右手に力が入るのが見えた。沖野の肌に、安全ピンが、刺さっていく。真っ赤な鮮血がぷくっと顔を出した。
「正解は、普通に刺さるでした!意外でしょ?」
沖野は笑った。僕は、その左手首から目を離せないでいた。沖野は、無敵じゃなかったのか。そんな疑問も浮かんだけど、目の前で起きたショッキングな出来事にまだ脳みそが追いつかないでいた。
「昔は刺さんなかったんだけどねー。最近刺さるようになったの。」
どういうこと?無敵の力は歳とともに弱まってるのか。もし、そうなら。
「じゃあ第三問、最終問題ね。これで不正解だったら、一緒に寝てもらうから。」
僕は未だに何も喋れないでいた。
「実は無敵じゃない私が、傷付いた時、一緒にいてくれる?」
沖野はふわっと笑った。僕はそんな彼女に見惚れて、だけど、イエスと答える自信がなかった。僕は、正直に答えた。
「わからない。」
沖野は笑顔のまま言った。
「そういう正直なところ、嫌いよ。さ、一緒に寝ましょ。」
沖野はそう言うとベッドに潜り込んでしまった。先にベッドに寝転んで、僕が来るのを待っている。僕は、力無くベッドに引き摺り込まれ、仕方なく寝る体勢をとった。
その夜はなかなか寝付けなかったけど、沖野の寝息を聞いていたらいつの間にか眠ってしまっていた。沖野の寝息は静かで、平穏そのものだった。沖野を傷つけるこの世界が間違っているんだ。僕はそう思った。沖野が傷つかなくてもいい世界になればいい。でも、この間違った世界は、間違ったまま、また沖野を傷つけようとしていた。
次の日、目が覚めると世界は本当に「大変なこと」になってしまっていた。
スマホのアラームを止めると、異常な通知が目に入った。
「東京に化け物が出現」
寝ぼけた頭のままSNSで検索すると、すぐに一番バズっている動画が見つかった。それは異形を少し遠くから映したものだった。僕の眠気は吹き飛んだ。動画に映っているそれは、明らかな異形であって、大きさは人間の倍くらい。よく見れば人型にも見えるが、細部は人間ではなかった。スマホから目を離した時、その時になってやっと、僕はこの部屋に一人しかいないことに気づいた。沖野がいない。昨日一緒のベッドで寝たはずの沖野が、どこにもいなかった。僕は状況を把握すべく、テレビをつけた。どの局も化け物のニュースを報道していた。専門家の意見によると、東京で暴れているというその異形はおそらく何かしらの能力が発現した「元人間」とのことだった。現代科学では遺伝子異常の一つと考えられている「能力」が最もおぞましい形で姿を現したものだった。能力が発現した人間が化け物になるなんてことは聞いたことがない。おそらく世界でも初めての出来事だった。沖野は既に部屋にいない。きっとこれが予言のヒーローが言った『大変なこと』なのだろう。緊急のこととはいえ起こしてくれればよかったのに、沖野は一人で向かったのだろうと思った。沖野はもうヒーローになったのだろうか。化け物は能力の急激な発現とともに姿を変えたというのが、専門家の意見だった。能力が急激に発現するということは、きっとその化け物はまだ若かったに違いなかった。十代前後の子どもが急に化け物になってしまう。それは考えただけでもおぞましいことだった。たまたま沖野の能力の種類が無敵だっただけで、彼女がこうなっていたかもしれないんだなと思った。僕はその化け物を少し可哀想にも思った。
ニュースによると、その異形は発現してすぐに周囲の人間を数人殺し、現在も東京の街をふらふらと彷徨っているらしかった。きっとその数人には、その子の親も含まれているに違いなかった。移動速度が人間と大差ないのが不幸中の幸いだっただろうか、異形の現れた街には避難指示が出て、完全に封鎖されていた。緊急で対応にあたったヒーローもいたけど、異形の力は強く、負傷してしまったらしい。日本の法律はこの状況を想定していなかった。そのため、すぐに大きな火力を持つ武力を行使することはできず、異形はすでに数時間の間街に放たれていた。警察官の拳銃は少しのダメージを与えたものの、動きを止めるには十分ではなかった。異形は近づくものを無差別に攻撃し、ある程度以上のスピードを持ったものでないと、「彼」に近づくことさえ不可能のようだった。
その時、ニュースが速報に切り替わった。ヒーローがヘリコプターから化け物に向かって飛び降り、高速で近づいて無力化するという試みが行われるようだった。武力の行使に当たらないヒーロー活動は緊急時の活動にある程度自由を認められている。人々の注目はどんなヒーローがその危険な任務に当たるのかということだった。ニュースでは、それは「頑丈」のヒーローだと紹介された。でも、画面に映った顔はどう見ても沖野だった。
沖野の能力は無敵じゃなかったのか。僕の頭に疑問が浮かんだ。そしてそれは次第に焦りに変わっていった。確かに、彼女は無敵ではなかった。昨晩あの小さな安全ピンが彼女に傷をつけたように、彼女は頑丈であって無敵ではなかった。でも、それでも、彼女の能力は無敵であると信じたかった。もし彼女の能力が頑丈であるならば、彼女が能力持ちだと判明した時のように、「この衝撃には耐えられる」ということがわかっても、彼女が他のより強い衝撃に耐えられる保証はない。沖野が飛び降りようとしているヘリコプターは、学校の屋上の何倍もの高さをしていた。沖野は、この衝撃に耐えられるのだろうか。僕は急に震えが止まらなくなった。
ふと、瞬間移動のヒーローの言葉が頭に浮かんだ。
「ヒーローは一人でいる時が一番強い。」
沖野は、誰のために飛ぶのだろうか。自分のためじゃないことは確かだろう。そういえばあの日、不思議な夢を見たあの日、沖野は学校の屋上から飛び降りていた。あれは、誰のためだったんだろうか。あれはきっと、自分のため、沖野が沖野であるために飛んだんだろうと思った。今の沖野は、誰かを守るために、そしてその誰かの先にいる僕を守るために飛ぼうとしている。僕は、無力だ。無敵でもない、ただの無力な一般人だ。それが、すごく悔しかった。
もう一度、沖野に会いたい。僕はそう思った。なぜ昨日、僕は「沖野が傷付いた時は側にいるよ」と言えなかったのか。それが悔しかった。沖野に会って、今度こそそう伝えたかった。それが、沖野のためになるのかはわからないけれど、それでも、もう一度やり直したかった。僕は沖野と一緒にいたい。沖野が苦しんでいる時は、側にいてあげたい。沖野が空を飛ぶ時は、一緒に飛んであげたい。そう、思った。思ったけど、現実は変わらない。
僕は想像した。
もし、彼女がこの作戦で死んでしまったら。
いつか見たあの夢の雫のように、地面にぶつかって弾けてしまったら。
こんな使い捨ての爆弾のような使い方をされて沖野がこの世界からいなくなってしまったら。
もし、本当に、「無敵のヒーロー」が必要なのだとしたら。
僕は、僕は、正気でいられるだろうか。
ヘリコプターから撮影されたニュースの映像が、沖野の顔と異形を同時に映した。
沖野雫が、落ちていく。
僕はニュースの映像を食い入るように見た。沖野が異形に向かって落ちると大きな爆発が起きた。ずっと言葉を繋いできたリポーターもこの瞬間は黙って爆発を見届けた。カメラは爆風の中心を捉え続ける。砂埃が立ち、爆発の中心を隠していた。僕は拳を握りしめてその瞬間を待った。少しして、砂埃が収まった。
砂埃の真ん中には、いくつかの部位にバラバラになった異形と、座り込んだ沖野がいた。沖野は少し惚けたような顔をしてモゾモゾした後、立ち上がってヘリコプターを見つけて、笑顔でピースサインをした。
僕は言葉にならない声をあげて、拳を握った。なんと言ったのかは自分でもよくわからないけど、自然と腹から声を出していた。リポーターの興奮したような言葉も、何を言っているのかはよくわからなかった。僕は肩で息をして、拳を強く握った。沖野はちゃんと生きている。あの笑顔でピースサインをしている沖野は、昨日の夜僕の隣にいた沖野と何も変わってはいない。ちゃんと、生きて、笑っている。それがどうしようもなく、嬉しかった。
少しして冷静になって、僕はベッドに座り直した。少し緊張しすぎていたようだ。僕は肩の力を抜いた。手のひらに食い込んだ爪の跡が痛かった。ニュースの画面はその後突入してきた特殊部隊の人たちを映すばかりで、沖野のことを映してはくれなかった。僕は深く息を吐き、もう一度沖野のあの笑顔を思い出した。いつもの、かっこいい沖野だった。僕がトラックに轢かれるのを助けた、あのヒーローの笑顔だ。ただ、今のこの瞬間に僕の隣にいないことだけが心配だった。怪我はないだろうか。まあ多分ないだろうけど、それでも心配だった。やっぱり沖野は無敵だったんだ。予言のヒーローが言った無敵のヒーローは、やっぱり沖野のことだったんだ。僕はそれを嬉しく思った。こんな大きなことになるのなら、昨日のうちに何か伝えておくべきだったかもしれない。昨日、同じ部屋で夜を過ごしたあの時に。いや、これからも伝える機会はいくらでもあるに違いない。僕はそう思って、沖野に伝えるべき言葉を探した。僕の心にある言葉を、真っ直ぐに伝えようと思った。今日は忙しいだろうけど、また明日から沖野は僕の隣にいてくれるはずだ。
でも、そんなことはなかった。
沖野は有名人になった。彼女はその美貌と愛嬌で日本中を虜にし、「ヒーロー」のアイコンになった。彼女は様々なテレビ番組に出演し、その笑顔を振り撒いた。少し危険な状況を工夫して乗り越えるという番組に出演し、無敵を利用して全く工夫せず乗り越え、話題を集めた。十代の若者一人ではどうすることもできない大きなお金が動いて、スポンサーがついた。彼女はスポンサー付きのヒーローとして活動することになった。普段は下っ端のヒーローとして現場で働きながら、時にはその「無敵」を活かして派手な舞台で活躍する。
そんな彼女の姿を、僕は密着番組で知った。彼女とはもうずっと連絡も取っていない。彼女は一人で、完全無欠の無敵のヒーローへと成り上がった。
大人になった沖野の隣に、僕はいなかった。




