第一章 能力という呪い
それからしばらくの間は平穏な毎日が続いた。少し変わったことといえば、沖野がより元気に暴れ散らかしていたことくらいだろうか。彼女は高校でやり残したことがないようにと、授業中に校庭に飛び降りてみたり敢えて保健室登校をしてみたりといろんなことをしていた。
「おい、帰るぞ。」
僕が保健室に沖野を迎えにいくと、保健室の先生は不在で沖野が一人ベッドで寝ていた。沖野はすっかり熟睡していたようで僕の声にも全く反応せずに静かな寝息を立てていた。少し汗ばんでいる彼女を見てエアコンの温度を下げ、彼女が寝ているベッドの側の椅子に座った。安らかに眠る彼女は健康的ですごく魅力的だった。僕はしばらく彼女を眺めて時間を潰した。サラサラの髪は多分撫でたら気持ちいいんだろうなと思った。
「ん…。」
沖野が目を覚ました。ゆっくりと寝返りを打って、僕と目が合った。彼女は飛び上がって布団を抱き寄せ、僕を睨んだ。
「おはよう。」
「何もしてないよね?」
「するわけないだろ。」
沖野は顔を赤くして布団の中に埋めてしまった。
「あーもう!」
僕はそんな沖野を可愛いなと思いながら眺めた。とても無敵のヒーローには見えない。
「とにかく、こっち見ないで!ちょっとあっち向いてて。」
沖野はしばらくジタバタした後、落ち着いたようで、「もういいよ」と言ってくれた。僕が振り向くと、そこにはいつも通りの沖野がいた。
「帰るぞ。」
「うん。」
「今日はなんで保健室にいたの。」
「んふー、なんででしょうか。」
「知らね。」
「ふふふ。」
「楽しそうで何よりだよ。」
「ねねね、そんなことよりさ、買い食いしようよ。」
「『買い食いしようよ』なんて言って買い食いする人なんていないよ。」
「じゃあ、『なんか食べよ』。」
「及第点。」
僕らは学校を出て、家に帰る前に寄り道をすることにした。
「近くにかき氷あるよ。」
「いいね。」
まだまだ夏は終わらないらしく、かき氷は暑い日差しにちょうど良かった。喫茶店に入って注文すると、割とすぐに出てきた。沖野は頭が痛くなるということを知らないから、かき氷をものすごいスピードで食べている。僕はちまちまと食べた。甘ったるいシロップがちょうどいい。
「そういえばさ、予言のヒーローが言ったことについて僕も考えてみたんだけど。」
「へえ。なんかわかった?」
「いや、何にも。でもさ、『無敵のヒーローが必要だ』って言ったんだろ?」
「うん。」
「無敵のヒーローって沖野以外にもいないのかな。」
沖野以外にも無敵の能力を持つ人がいてもおかしくない。国のお偉いさんが何を根拠に沖野のところに来たのか。僕はそれを疑問に思っていた。
「あー、戸籍でも調べたんじゃない?」
「戸籍に能力って書いてあんの?」
「うん。」
知らなかった。どうやら能力を自治体に登録する時に戸籍に能力を書かれるみたいだ。怪力の能力を持った兄の名前の横には「怪力」と書かれているんだろう。沖野の場合は「無敵」だろうか。なんかかっこいいな。
「調べたら私が出てきたんだってさ。」
「へえ、一人しかいなかったのか。」
「そうらしいよ。」
「へー。」
僕はようやくかき氷を食べ終えようとしていた。沖野はとっくに食べ終わってスプーンで遊んでいた。こんなやつだけど、持ってる能力はとんでもないんだな。まあそりゃそうか、なんて言ったって無敵だもんな。無敵の人間なんて、そうそういてたまるか。
「ご馳走様。」
「ご馳走様でした。」
食べ終わった僕らは、本格的に家に帰ることにした。いつものように僕の隣を歩く沖野は少し迷ったような口調で口を開いた。
「少し重い話をしてもいい?」
「かき氷食べた後の女子高生とは思えないね。」
「確かに。」
沖野はふふっと笑った。花のようだった。
「雫って、落ちていく間だけ雫でいられるの。」
「どういうこと?」
「私の名前の雫って、一人で落ちていく水の名前でしょ。大量に流れていたり止まっていたりする間は雫じゃない。」
「確かに。」
「いい名前だなって思うの。私にぴったり。」
「そう、なのか?」
「うん。私もね、空から落ちていく時に、生きてるって思えるの。」
彼女はまるで冗談でも言うかのように言葉を続けた。
「私が能力を持ってることがわかったきっかけってなんだと思う?」
「きっかけ?」
考えたこともなかった。なんとなく沖野は無敵の人間として生まれてきたんだと思っていた。でも、確かに生まれた時は普通の赤ちゃんと同じように生まれてきたはずだ。それはつまり沖野が子どもの頃に、彼女が無敵じゃないと耐えられないようなことが起きたということだ。僕は返す言葉に詰まった。
「私の家族の話とか、あんまりしたことないよね。」
「うん。別にしなくてもいいぞ。」
「そっか、じゃあ少しだけ聞いて。」
沖野が小さく見えた。
「私の能力が初めて確認できたのは、お父さんが私に熱湯をかけた時。お母さんに聞いた話だと、かけた量はそんなに多くなかったらしいんだけど、私が全く熱がらないから不審に思ったらしいわ。それから殴っても蹴っても私が泣かないからってことで病院に連れて行かれたの。まだ小学校に入る前のことよ。私は物心つく前から無敵だったの。」
僕は何かかけるべき言葉を探して、何も思いつかなかった。沖野は無敵として生まれたわけじゃなくて、無敵になっていったんだ。能力を持つ子どもを気味悪がる大人も一定数いる。どんな衝撃にも耐えて、耐えてしまったがゆえに、沖野は無敵になってしまった。初めて屋上から飛び降りた時、沖野はどんな気持ちだったんだろう。僕には想像がつかなかった。
「なんでそんなこと話してくれたの。」
「もうすぐヒーローになるかもしれないから。」
僕はまた言葉に詰まった。沖野の覚悟に応えるには心の準備が足りないと思った。
「もし私がヒーローになったら、一つだけ覚えておいてほしいことがあるの。」
「なに。」
「私は、」
沖野は息を吐いて、少し大きく息を吸った。
「私は、別にヒーローになりたかったわけじゃない。」
僕はこの時の沖野の表情を生涯忘れることはないだろう。凛々しく覚悟を決めた顔で、だけど寂しそうだった。望まない能力を手にして、虐げられた過去を抱いて、未来を他人に決められ、今を窮屈に生きる。そんな彼女は、とても苦しそうだった。
「それでも、私はヒーローになるわ。」
沖野は言い切った。駄々をこねることもせず、文句も言わず、彼女は言い切った。僕はそんな彼女に見惚れた。
「さ、帰ろっか。」
僕らは家路についた。僕は一人になってからも、ずっと沖野のことを考えた。彼女が今までの人生で感じて考えてきたことの十分の一も自分は生きていないような気がした。彼女はいろんなものを背負っている。今度もまた、予言を背負おうとしている。僕は、何もできない。それが、ただ苦しかった。その日はうまく寝付けず、僕は夜更かしをした。
またあの夢を見た。いつか見た夢と同じように真っ白な世界に、雫が一つ存在していた。今回は落ちていく雫に触れようと僕は手を伸ばした。夢の中の僕はゆっくりと動き、雫に触れる前に雫は地面に当たって弾けてしまった。何もない世界に、また何もなくなった。
起きた時、僕は夢の内容を忘れていた。スマホのアラームを止めて、僕はベッドから身を起こした。僕は着替えてから朝ごはんのパンを口に突っ込んで玄関を出た。今日は雨だ。空から山ほど落ちてくる雫を傘に感じながら、僕は学校に向かった。雨は好きだ。周囲の音がかき消されて自分だけの空間が広くなったように感じる。だけどこの日は、その僕だけの空間を侵す人がいた。
「よう。」
馴れ馴れしい挨拶の割に、僕はこの人を知らない。僕より年上に見える男は、くしゃくしゃの髪をかきあげた後、僕に向かって話しかけてきた。
「お前、気をつけろよ。」
僕は誰とも知らない人の声を無視しようとした。
「おい、まあいいか。無敵の邪魔はすんなよ。」
それだけ告げるとその男は僕とすれ違っていった。僕が「なんで僕に沖野の話をするんだろう」という疑問を浮かべて振り返ると、もう男はいなくなっていた。雨の音に包まれて、僕はまた一人になった。
「心当たりある?」
僕は学校に着いた後、今朝出会った男について沖野に聞いてみた。
「そんな変な人いたの?」
「やっぱ知り合いじゃないよな。」
「多分ね。」
僕は唸った。沖野が言っていた「お偉いさん」の仲間だろうか。でもどうして僕に話しかけてきたんだろう。
「邪魔するなって言われたよ。」
「しないでしょ。」
「しないね。」
僕らの話題はそれから今日の講演会の話に移っていった。その日は現役のヒーローが高校に来て話をするというイベントがあった。そういえば今日来るヒーローは瞬間移動のヒーローだったはずだけど、もしかして…。
くしゃくしゃの髪に背の高いシルエット。やっぱりあの人だ。
僕は講演会に現れた顔を見て、今朝すれ違った人が瞬間移動のヒーローだと確信した。司会役として能力のない女性の一般ヒーローが瞬間移動のヒーローを紹介した。
「どうも。」
男は低い声で言った。
「俺は瞬間移動の能力を持っている。ある程度の距離なら瞬時に移動することができるという能力だ。どのくらいの距離を実際にどのくらいの時間で移動できるのかという情報は国家機密なので言わないが、まあ漫画とかで見るような能力だと思ってくれていい。ここまで聞いて俺がすごいスーパーヒーローだと思ったやつもいるかもしれない。敵をバッタバッタと倒すようなヒーローだとな。よくある勘違いだ。最初に言っておくが、基本的に俺は紛争や自然災害の現場で偵察や視察の業務に当たっている。俺の仕事はあくまで偵察や視察に限られていて、それ以上のことは認められていない。能力は危険な現場での生存可能性を上げるため、撤退に使う。端的に言って仕舞えば、俺は死ににくく何度でも使える都合のいい捨て駒だ。」
男は全く言い淀むことなく、普段から言っていることのように言った。
「どんなすごい能力があっても一人で世界を救うなんてのはガキの妄想に過ぎない。俺たちは能力の有無に拘らず協力体制をとっている。世界はその世界に生きている全員で少しずつ良くするものだ。まずはそれを覚えておいてほしい。」
僕はぐっと聞き入った。能力のない人間がヒーローを目指す時、少なからず能力持ちに憧れてしまうものだ。男の話はそんな自分を戒めているように聞こえた。
「ただ、」
男は少し声を強くした。
「能力は強力であればあるほど、他人によく使われる。」
僕は沖野のことを考えた。
「俺は能力を持っているが故に、能力を持っていない人間の決めたように動かなければいけない。『偵察しろ』と言われるのは能力を持っているからだ。それは『ある程度の確率で死ね』と言われているのと同じだ。」
司会のヒーローがすごく居心地悪そうにしていた。
「その分報酬も大きいが、死ねば報酬なんていくらあっても意味がない。能力を持つ人間は能力のない人間よりも特に自分のことを大切にするように。」
男は一点を見つめながら言った。その視線の先にいたのは多分沖野だったんだろうと僕は思った。
「ただまあ、お前らのほとんどは非能力者だ。そうだな?」
講演会で「お前ら」って言っていいんだ。初めて知った。
「残念だが、非能力者は世界を救うようなヒーローにはなれない。この世界がどれだけ発展して、国がどれだけ自由を標榜しようとも、人生の大体は生まれで決まる。お前らじゃ、大したことはできない。」
能力があるとかないとか、才能があるとかないとか、そういうものは生まれで決まる。普通の人間に生まれた僕は、沖野みたいにはなれない。
「お前らは普通の人間で、普通の人生を歩む。俺はそれを羨ましいと思う。」
嫌な言い方をする人だと思った。
「そしてお前らは、自分より能力も才能もない奴らが、普通の人生を歩めるように社会に貢献しろ。」
その後も講演は続き、最後に男はこう言って講演を締めた。
「能力者か能力者でないかに大差はない。この世界はこの世界の全員が正しく生きることで少しずつ正しくなっていく。正しく生きろ。以上だ。」
会場は拍手に包まれた。僕も拍手をしながら、正しく生きることについて真面目に考えてみた。正しく生きること。それはきっと、自分のためだけじゃなくて誰かのために生きること。誰かっていうのは、沖野のことかもしれないし、そうじゃない時もあるかもしれない。とにかく、誰か自分以外のために生きることが、正しいことだと思った。ヒーローになることが間違っているとは思えなかった。やっぱりヒーローになろう。ヒーローといえば、沖野にとって正しいことは何だろう。聞いてみたくて、その日の帰りに沖野を探した。ホームルームが終わった後、沖野の教室に寄ってみたけど、沖野はもうすでに帰ってしまったらしかった。僕はその後学校の屋上も覗いてみたけど、ついに彼女を見つけることはできなかった。僕は一人で家まで帰ろうとした。雨は止んでいた。僕が一人で歩いていると、学校を出たところであの男が僕を待っていた。
「よう、ボウズ。」
「は、はい。」
「ちょっとツラ貸せ。」
「あ、はい。」
僕は急のことで動揺してしまって、コミュニケーション能力を失った人のようにぎこちなく喋った。なんでまた僕に話しかけてきたんだろう。僕は近くの公園に連れて行かれた。そこは沖野を見つけた公園だった。
「まあ座れ。」
男はそう言って僕の座るベンチの隣に座った。
「能力者は孤独だ。」
「はい?」
「お前は能力者じゃないよな。」
「そうです。」
ちょっと胸が痛んだ。
「能力者は、誰にも共感されない。」
「共感、ですか。」
「能力者は憧れられたり、嫉妬されたりする。だが誰も、その苦しさに共感してはくれない。」
「苦しいんですか?」
「人間だからな。生きてりゃ苦しい時もある。」
「はあ。」
「お前、無敵の気持ちなんてわかんねえだろ。」
僕はちょっと馬鹿にされた気分になった。
「少しくらいはわかりますよ。」
「わかるなら、俺の話をよく聞け。」
「はい。」
男は「んー」と上を向いて言ったあと、まっすぐ前を向いて僕に尋ねた。
「お前、無敵のことをどう思ってる?」
「どう、ですか。」
「好きか?」
男はまっすぐ前を向いたまま僕に尋ねた。それはいつかの沖野に似ていた。
「んーいや、まあ。」
「どっちだ。好きかと聞いている。」
「す、好きです。」
「じゃあ、もう関わるな。」
「え?」
男は少し言い淀んでから声を出した。
「無敵がヒーローになったら、あいつはいずれ死ぬと、俺は思う。」
「なんでですか?」
「お前にはわからないかもしれないが、能力というのは使わないのが一番その効果を発揮するんだ。」
男の口調は優しくなっていた。
「危険な状況で活動するヒーローにとっては、能力を使うことを前提に動いてしまうのが最も危ないんだ。俺の場合、いつでも撤退できるからと危険な状況に踏み込んでしまうことが死因になりかねない。」
だから、と男は続けた。
「能力を前提として活動することは、雪道で車でスピードを出して走るようなものだ。ブレーキすればいいからと思っているとスリップする。スリップし始めたらもうブレーキじゃどうにもならない。動摩擦とか静止摩擦とか、まあこの話はいいか。とにかく、あいつはこのままだと死ぬ。」
沖野が死ぬかもしれない。そんなことは想像したことがなかった。
「でも、沖野は無敵です。」
僕は反論してみた。沖野は死なない。そう、信じたかった。
「無敵だからこそ死ぬよりも苦しい状況になるかもしれない。それこそ目の前でお前が死ねばあいつは無敵なだけで無力なヒーローだ。」
僕は口を閉じた。自分が死ぬことが沖野にどれだけのダメージを与えるのかを考えるのは難しかった。
「あいつを無敵で無力なスーパーヒーローにしたくなければ、あいつとは距離を取れ。ヒーローは一人でいる時が一番強い。」
男はそう言うと立ち上がった。
「よく考えるんだな。」
男は去って行った。僕はベンチに座ったまま、しばらく沖野のことを考えた。沖野は、強い。僕とは比べ物にならないくらい強い心を持っている。そしてその心に似合うだけの能力も持っている。沖野が無力なところなんて、想像がつかなかった。実際、僕がトラックに跳ねられて死にそうになった時は、沖野が助けてくれた。沖野なら、沖野と一緒なら、僕も無敵になれるような気さえした。僕らは二人で無敵だ。そう思いたかった。
家に帰っても、僕は沖野のことをずっと考えた。沖野と距離を取ることが沖野のためになるのなら、そうすべきなのかもしれない。それが「正しいこと」なのだろうか。もし、そうなら。僕は沖野から来ていたメッセージにも返事をしなかった。明日は休みだ。「明日どっかご飯行かない?」という通知を僕は無視して眠りについた。
次の日僕が目を覚ますと、大変なことが起こっていた。




