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第一章 このことは秘密ね

不思議な夢を見た。僕は真っ白な世界にいた。辺りを見回してもどこにも何も見当たらない、どこまでも続く白の世界。でも、何もない世界ではなかった。僕はその世界に真っ白ではない何かを見つけた。目を凝らして見ると、それは雫だった。沖野ではない。一滴の水だ。他に何もない世界で、その雫は大きくも小さくも見えた。雫は、その内に秘めた暗さによって黒を生み出し、真っ白な世界に自己を保っていた。真っ白で何も無い世界に、雫が落ちていく。透明で白くて黒い雫が、何も無い世界に落ちていく。落ちて、落ちて、永遠の時間の後にその雫は地面に当たって弾けた。音はしなかった。弾けた雫のかけらは、それ自身雫でありながら自己を保つには弱すぎて霧散していく。何も無い世界に、本当に何も無くなった。


目が覚めると、見慣れた自分の部屋の天井が目に入った。いつも通りの朝だ。僕は体を起こして首を鳴らした。それから昨日買っておいたパンを朝ごはんにしながら今日見た夢について考えた。真っ白で何もない世界に雫が落ちて消えた。沖野に何かあったのだろうか。僕にはあの雫が沖野を表しているようにしか思えなかった。これがいわゆる虫の知らせというやつなのかもしれない。僕はなんだかソワソワしてしまって、いつもより少し早めに家を出た。学校に行くまでの間もずっと夢の内容を反芻していた。ただ、考えているうちに少しずつ夢の内容は曖昧になっていって、ソワソワだけが残った。学校に着くと、僕の不吉な予感とは裏腹に沖野は変わらず元気な様子のままで僕を迎えた。

「おはよ。」

「おはよう。」

何気ないこの会話に安心してしまうくらいには、僕の不安は大きくなっていた。夢で見たくらいで大袈裟だったかもしれない。そして、どうやらそれは態度に出ていたらしい。

「どした?なんかあった?」

「いや、なんにも。」

「ほんとに?」

僕は夢の話をしなかった。君の夢を見た、なんてまるで口説いてるみたいだ。というかそもそも沖野の夢ですらないし。ただの抽象的な夢に過ぎない。僕の考えすぎだ。そんなことを思っていると、周囲から冷やかしの視線を感じた。ああそうか、沖野とは違うクラスだから、周囲から見ると僕が沖野にわざわざ会いにきたということになる。そりゃ「どした?」って聞かれるし、周りからはそういう目で見られる。でも僕は周囲から実際に声をかけられるほどの愛嬌を持ち合わせてはいなかった。誰一人として僕に声をかけることはなく、僕らの会話はスムーズに進んだ。

「じゃあ、また放課後。」

「うん。」

初々しいカップルみたいな会話をして、僕は静かに自分のクラスに戻った。僕が出た後の教室では沖野が女子たちに囲まれて事情を聞かれているようだった。沖野はこうやって揶揄われるのが嫌いじゃないだろうか。余計なことをしてしまったかもしれない。沖野に嫌われたくはなかった。とにかく、沖野が無事でよかった。沖野に何かあったというのは、どうやら僕の杞憂だったようだ。

だけど、そんな僕の考えは半分当たっていて、半分は大外れだった。

放課後になると、沖野は学校からいなくなっていた。


放課後になり、僕は自分の教室で沖野がやってくるのを待った。でも、いつまで待っても沖野は現れなかった。その代わりに沖野のクラスの女子がやってきて、僕に「雫から何か聞いてない?」と聞いてきた。どうやら彼女は友達にも何も言わず学校から姿を消したようだった。体調不良だろうか。いや、無敵の彼女に限ってそんなことは。スマホを開いて沖野に送ったメッセージを眺めても、一向に既読がつかない。僕は今朝見た夢を思い出した。嫌な予感がした。

僕は職員室へ行き、沖野のクラスの担任に早退の理由を聞きに行った。デスクで真剣にパソコンに向かっていた白髪が混じりの中年の先生に聞くと、「沖野は体調不良だそうだ」と言われた。そんな馬鹿な。沖野は無敵だぞ。確かに沖野は力も弱くて体力もないけど、体調不良で早退するなんてそんなことあるわけがない。僕は納得しないまま、「わかりました」と返事をして職員室を出た。沖野に何かがあったのは確実だろう。だって沖野は無敵なんだから。僕は学校の廊下を足早に歩きながら思った。でも、彼女が早退しているのは事実で、僕はそれに見合うような理由を思いつけなかった。単純にサボりという説はあるけど、不良と喧嘩するような彼女がそんなことをするだろうか。僕は焦った。でも、本当にこんなに焦ることなのかすらもわからなかった。彼女は本当は無敵なんかじゃなくて、普通に熱を出して寝込んでいるだけなのかもしれない。それでも、と思い僕は帰り道に彼女がいる可能性のある場所を巡りながら帰ることにした。

学校を出て、二人で歩くはずだった帰り道を、僕は一人で歩いた。一人で歩く道はやけに広くて、自分が小さく思えた。僕は大股で、時々小走りで沖野を探した。焦りだけが大きくなって、夏の太陽がいつもより強く僕を刺した。沖野は帰り道の途中にいるだろうか。おそらく、否。どこかに一人でいるはずだ。学校を早退した沖野が誰かといる様子は、あまり想像がつかなかった。僕が一生懸命探しているのに沖野が誰かと楽しんでいたら、ちょっと拗ねるかもしれない。一緒に帰る約束したじゃんって。でもきっと沖野は一人でいるに違いない。一人で時間を潰せる場所。僕は頭の中に地図を描きながら沖野を求めた。

結局のところ、沖野は学校からそれほど遠くない小さな公園にいた。僕は公園の入り口からベンチに座っている彼女を見つけた。彼女は座ったまま下を向いていて、いつもよりもすごく小さく見えた。何か良くないことがあったんだろうというのは遠目にも分かった。夕陽に照らされた彼女はとても無敵とは思えないほど弱々しく、そして美しかった。僕はどんな態度で話しかけたらいいのかわからなくて、ただゆっくりと近づいた。夕陽が僕の影を長くして、その影が僕より先に彼女に届いた。彼女は顔を上げて僕を見た。一瞬、驚いたような顔をしてすぐに顔を背けた。彼女がもう一度僕を見た時、彼女の表情はいつもの無敵な沖野に戻っていた。

「何、してるの?」

「なんにも。ぼーっとしてたの。」

「そっか。」

僕は彼女の隣に座った。彼女は僕から少し離れる方向に座り直した。僕はそれを感じて、口を開く勇気を失った。無言の時間が流れる。夕暮れの公園には重すぎる空気が僕らを支配した。

「あのさ、」

僕が声を出したのかと思った。沖野の声だった。彼女は僕を見ずに真っ直ぐ前を向いたまま口を開いた。

「私って本当に無敵だと思う?」

僕はすぐに「当たり前だろ」と言おうとして口を噤んだ。屋上から落ちたり車に撥ねられたりしてもピンピンしていられる彼女はどう考えても人間の範疇を超えている。どこに出しても恥ずかしくない無敵の人間だ。でも、今の彼女は普通の人間よりも弱く、消えてなくなりそうだった。無敵には、見えなかった。

「無敵には見えない。」

僕は正直に答えた。彼女は「そっか」と小さく呟いた。

「今日ね、国のお偉いさんと会ってきたの。」

「高校を辞めて、今すぐヒーローにならないかって言われたわ。」

僕は衝撃を受けた。沖野が、高校を辞める?彼女は能力持ちで、将来を約束されたヒーローだ。いつかヒーローになる。わかっていたはずだ。でも、今すぐと言うのはあまりにも性急に思えた。

「どうして急にそんな話になったんだ。」

「もうすぐ、世界が大変なことになっちゃうんだって。」

「大変なこと?」

「そう、大変なこと。予言のヒーローが言ったみたい。」

 予言のヒーローは知っている。素性は不明だけど名前だけはよくニュースにも出てくる。未来の出来事を予知する能力を持ったヒーローで、彼の発言が国際情勢を動かす可能性もあるから国の施設で厳重に保護されているはずだ。

「『じきに大変なことが起こる。無敵のヒーローが必要だ』って言ったんだってさ。」

「名指しかよ。」

「笑っちゃうよね。」

彼女は少しおどけたように言った。それは強がりのようにも見えたし、彼女の芯の強さの表れのようにも見えた。とにかく彼女は少しだけ笑っていた。

「大変なことって、具体的になんなんだ?」

「わかんないんだって。」

「そんな無責任な。」

ヒーローに関する法律では、子どもが能力を持っているとわかった時点で保護者は自治体に登録しなくてはいけないと定められていて、能力の日常的な使用限度については裁判所で決められる。そして国の重大な危機の場合には登録してある能力者全員が国に協力することになっている。高校生である沖野をヒーローとして働かせるのはその「大変なこと」が起きてからになるのが普通のはずだった。

「それで、実際にその『大変なこと』が起こる前に、私にヒーローとしての経験を積ませたかったみたい。」

むう、と僕は唸った。確かに国の危機ともなれば仕方ないのかもしれない。でも、沖野は高校生だぞ。国がそんなことをしていいのか。

「このことは秘密ね。」

僕は黙り込んだ。沖野が高校を辞めてしまうのは嫌だった。能力を持っていることが彼女から普通の高校生活を奪ってしまうのは受け入れ難い。僕に能力がないのが僕のせいではないのと同じように、能力を持って生まれたのは彼女の責任ではないはずだ。

「それで、なんて答えたの。」

「考えますって言った。」

「そっか。どうせ『大変なこと』が起きたらヒーローにはならなきゃだもんな。」

「私は、もう少し高校生でいたい。」

「うん。」

「だけど、私が今すぐヒーローになることで救える人がいるかもしれない。私がそれを拒否することは、その人たちを見捨てることと同じなのかも。」

僕は何も言えなかった。沖野がそこまで考えているとは思ってもみなかった。自分の将来なんて小さなものよりもっと大きなものを見ているように思えた。僕が自分の中のちっぽけなプライドと対峙していた時、彼女は助けるべき他人を想っていたんだ。僕は自分の小ささと、沖野の人としての大きさを感じた。

「そんなに思い詰めなくて良いと思う。ごめん、無責任だけど、とにかく沖野にはあんまり苦しんでほしくない。」

「ありがと。」

沖野はにっこりと笑って僕を見た。

「実際に『大変なこと』が起こるまでは高校生でいようと思うわ。」

「それがいいよ。」

「なんてったって私は無敵だからね。訓練なんて必要ないのよ。」

ああ、この子は強いなと僕は思った。あんなに小さく見えた彼女の姿はもうない。涙の一つも見せずに、彼女は言い切って見せた。やっぱり沖野は無敵のヒーローだ。

「高校生活、精一杯楽しまなきゃね!」

「おう。」

沖野は立ち上がって大きく伸びをした。太陽はさらに傾き、彼女の影はさらに長くなって、その代わりにいくらか境界が曖昧になっていた。僕も立ち上がった。

「沖野は、ちゃんとヒーローだよ。」

沖野は少し驚いたような顔をした。

「当たり前でしょ。」

彼女は胸を張って答えた。彼女は僕には眩し過ぎた。高校を卒業した後大学に行っている場合ではないのではないかという焦りが僕の中に生まれるのを感じた。

「じゃ、また明日。」

僕たちは別々の道を歩いた。少しばかり元気そうにしていたとはいえ、沖野の精神は不安定な状態に見えた。そんな不安定な沖野を一人にしていいのか、僕には分からなかった。どちらかというと、彼女を一人にはしたくなかった。でも、僕にとっては、僕が彼女の側にいる理由を見つける方が難しかった。なんて言えばいいんだろう。「ほっとけない」って?一体僕は彼女の何だと言うんだ。今の僕にはどんな言葉も似合わない気がした。僕には、沖野の隣にいる理由がない。僕はそれが何だか悔しいと思った。その分、今日は少し自炊を頑張ろうと思った。

帰り道の途中でスーパーに寄って食材を買い、家に帰って麻婆豆腐を作った。ご飯が進んでちょうどいい。沖野はもうご飯を食べただろうか。僕はご飯を食べながら、「沖野のためになることは何だろうか」と考えていた。何か沖野のためになることができれば、僕の自己否定も少しは楽になるような気がしたからだ。僕は予言のヒーローが言ったことについて考えてみることにした。

まず、「大変なこと」とは何だろうか。そしてなぜ「無敵のヒーローが必要」なのだろうか。きっと、無敵じゃないと対処できない何かが起こるのだろう。例えば何かこちら側が犠牲を払わないといけないような状況があって、それを無敵という一種のチート能力で踏み倒してやろうということなのではないだろうか。これなら納得がいく。でも、普通そのような役目は高校生ではなくすでにヒーローになっている人が受けるべきだ。高校生を抜擢してまでその役目にする理由があるのだろうか。考えれば考えるほど、きっと沖野は酷い目に遭うのだろうという想像が大きくなっていった。その日は、あまりよく眠れなかった。


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