第一章 無敵の少女
沖野雫が落ちていく。
一瞬、窓の外を真っ逆さまに落ちていく制服の彼女と目が合った気がした。夏の太陽が照らす永遠のような時間の後で、ドンっという音が聞こえた。僕は慌てて教室の窓から身を乗り出して覗き込み、遥か下に彼女を見つけた。彼女はモゾモゾした後、立ち上がって僕を見つけ、笑顔でピースしてみせた。
沖野雫は、無敵だった。
遡ること数十年、世界中で突如特殊能力を持つ人間が確認されるようになった。理屈は全くの不明で未だ研究の途上だが、彼らの能力は本物だった。国や国連は彼らを保護し、紛争や自然災害の対処に当たらせた。世界に平和をもたらす彼らのことを人々は「ヒーロー」と呼んだ。しかしヒーローによって直接的な危機が解決されるようになったことで、その地域での復興にはさらに多くの人手が必要とされるようになった。このような需要から生まれた、復興地域で比較的安全な作業に従事する人のことも、人々は尊敬を込めてヒーローと呼んだ。ヒーローは世界中で人気の職業となり、将来ヒーローになることを夢見る若者も多い。
「何してんだよ。」
僕はエアコンの効いた涼しい教室を出て、夏の暑い校庭まで沖野を迎えに行った。校庭から見上げた彼女に「私の鞄持ってきて」と言われたから、世界一優しい僕はパシられてあげた。彼女は鞄を受け取ると、制服に付いた砂を払いながら答えた。
「無敵ごっこしてたの。」
「楽しいか?」
うん、と彼女は笑った。馬鹿みたいに晴れた空から差す太陽光が校庭を茹だるような暑さにしている。それなのに僕を外に連れ出した張本人は涼しげにポニーテールを揺らしていて、本当に無敵なんだなと嫌でも感じさせられる。僕はため息をついた。無敵のお守りも楽じゃない。彼女が女子高生らしく前髪を整えるのを待ってから、僕らは一緒に帰ることにした。沖野の家まで歩く途中で、僕は気になっていたことを聞いてみた。
「沖野はさ、ヒーロー志望とか出すの?」
「んー、私は能力持ちだから別の書類になるかな。」
「へー。」
「私もまだ詳しいことはよく知らないけど。」
高校生も二年になると、嫌でも卒業後の進路について考えてしまう。僕は大学に進学するのかヒーロー志望を出すのかで迷っていた。別に勉強が好きなわけじゃないけど、大学に行く友達も多いし、それに大学進学した後にヒーローになる道もある。大学卒のヒーローの方が給料もいいし出世もしやすいというのは一般社会と変わらない。ヒーロー協会の幹部は、能力を持ったスーパーヒーローではなく能力のない一般ヒーローがなるのが通例だ。いい大学を出た優秀な一般ヒーローが数多く活躍している。やっぱり大学に行った方がその後の人生は楽になりそうな気がした。もちろん、大学に行ったとしてもヒーローになりたいという意志は固いつもりだ。僕は幼い頃からずっとヒーローに憧れてきた。自分にも能力が開花するのではないかと期待していた十代前半を終えて、そろそろ自分が能力を持たない人間だということを悟る時期になった。そんな僕でもやっぱりヒーローになって人を助けたいという気持ちを持ち続けていた。ただ、いずれはヒーローになるのだと思うと、大学に進学するのは時間稼ぎにしかならない気もしていた。モラトリアムに甘えている人間が立派なヒーローになれるだろうか。ヒーローの専門学校という選択肢もあるけど、それはなんだか違うと思う。ちょっと奇抜な広告で目を惹く専門学校もあるけど、結局ヒーローになった後の仕事はヒーローになってみないと学べないと思う。自分の若さを何に費やすのか、それを決めるには僕は若すぎた。
「お前に聞いても意味ねえかぁ。」
「世界中どんな悩みでも無敵の私が解決してあげよう。」
「宿題も解けねえくせによく言うわ。」
「むう。」
沖野とは高校一年の時に同じクラスになって仲良くなった。きっかけは、やっぱり屋上から落ちてきた沖野を見つけたことだった。彼女は正義感が強くて後先を考えないから、いろんな人とよく諍いを起こす。学校の屋上でいじめの現場に遭遇した彼女は、勇敢にもそれを注意し、それに苛立った先輩に手を出されそうになったところを屋上から落ちることで脱出したらしかった。彼女は無敵なくせに無敵なだけで普通の女の子だ。女子の中ではちょっと背が高い方とはいえ、男子と比べれば身長も低いし力も弱い。百七十センチの僕より少し目線が低いくらいの彼女が不良に立ち向かったと思うと(逃げたとはいえ)、勇気があるなと思う。僕にはできない。というかそもそも僕は屋上に行かない。あの日も今日みたいに教室で読みかけだった本を読み終えた後、学校から家までまっすぐ帰ろうとした時、目の前に女子高生が落ちてきたのだ。視界の外から急にドスンと落ちてきた沖野はしばらく動かなくて、僕は半分パニックになっていた。心臓に悪いからもっとふわっと落ちてきてほしいものだ。無敵だから大丈夫だと安心している今となっては、「親方、空から女の子が!」って言わなかったことを後悔している。生涯でこんなチャンスは二度と巡ってこないだろう。
「私は国から将来はヒーローになるように言われてるから。進路の悩みとは無縁だねー。」
「そっか。能力者はいいなあ。」
「そうでもないよ。」
「能力のない僕なんて、どうせ大したヒーローにはなれないんだ。」
「またそういうこと言う。自己否定は君の悪い癖だよ。」
「はいはい。」
「君にはいいところがたくさんあるんだから。」
「そんなことないよ。」
僕はもう慣れたことのように沖野をあしらった。
「君のお兄さんって、確か能力者だったよね。」
「うん。怪力の能力を持ってるヒーローだよ。」
「せっかくお兄さんがヒーローなんだから色々教えて貰えばいいのに。」
「兄貴は忙しいからいいんだよ。」
「ふーん。」
ゆっくりと歩いていると、太陽が少しずつ傾いていく。沖野の歩幅に合わせて歩くといつもより時間がかかる。彼女は機嫌がいいらしく少し跳ねるような歩き方をしていた。ポニーテールがゆらゆらと揺れる。
「そういえばさ、君も無敵だったりしない?」
「急になんだよ。」
「もしも君も無敵だったらさ、一緒に空から飛び降りたかったなって。」
沖野は時々変なことを言う。無敵だから変なことを言うのか、沖野だから変なことを言うのか。おそらく後者だろう。無敵じゃなくても変なことは言ってたはずだ。そしてもっと痛い目を見ていたはずだ。彼女が無敵でよかった。
「もし僕と一緒に紐なしバンジーしたら君は何かしらの罪に問われるよ。」
「じゃあ君の普通のバンジーの隣で紐なしバンジーするか。」
「一緒に普通のバンジーするのじゃダメなの。」
「それは、なんか恥ずかしい。」
こいつは何を言っているんだ。そもそも僕は空から落ちることにあまり魅力を感じない。なるべく地に足をつけて生きていたい。僕は地面を愛している。愛している割には踏んだり蹴ったりしてばっかりだけど。きっと地面も僕を愛してくれるに違いない。僕らは惹かれあっているのだ(物理的に)。そんなくだらないことを考えていると、突然沖野の雰囲気が変わった。沖野の真剣な声に僕は急に現実に引き戻された。
「あれ、危ない。」
沖野の視線の先を見ると、僕らが歩いている道路の向かい側に伸びている狭い路地で子どもたちがサッカーボールを使って遊んでいた。一見するとただの微笑ましい光景だけど、確かに危険だ。
「ボールが道路に出たら事故になりかねない?」
「その通り。」
「止めなきゃ。」
「そうね。」
沖野は落ち着いた仕草のまま僕を左手で制した。僕はもう右足を踏み出そうとしていた。彼女に制されて僕が足を戻すと、彼女は僕を見て真剣な表情のまま目だけで微笑んだ。
「正義感が強いのはいいけど、車来てるよ?」
道路を見ると、左手から大きなトラックが来ていた。このまま踏み出していたらちょうど轢かれるかどうかというタイミングだった。僕は昔から一つのことに集中すると周りが見えなくなる癖がある。今回も向こう側の少年たちのボールが今にでも道路に出るんじゃないかと思うと思わず周りを確認せずに足を踏み出していた。僕は周囲を確認しなかったことをすぐに反省した。本当のヒーローとは沖野のような人のことを言うのだろう。事前に危険を察知し、自分を含めた全員の安全を図るのが本当の救助だ。僕のは蛮勇に過ぎない。沖野が止めてくれなければミイラ取りがミイラになっていたかもしれない。そんな僕のハッとした顔を見て、沖野は少し表情を緩めた。
「君が事故に遭うのはごめんだか…」
その瞬間、僕はもう一度踏み出した。沖野はまだ微笑んだまま僕の顔を見ている。だけど僕の目には道路に転がったボールを追いかけて道路に飛びだす子どもが映っていた。危ない。トラックに轢かれる。僕に躊躇いはなかった。視界がスローモーションになり、僕の世界から音が消えた。僕は、確かに右足を踏み出した。その瞬間、どこからか「なぜお前はあの子を助けるのか」という声が聞こえた気がした。スローモーションの思考が回転する。昔から正義感は強い方だったけど、この一瞬に迷いなく踏み出した理由は正義感なんかよりももっと根本的な自己否定だったと思う。僕は自分を優しい人だと思いたかったのかもしれない。特別な能力もなく、とりわけ頭がいいわけでもない僕が自分を否定しないでいられるのが優しさだったのだろう。ヒーローになりたかったのも、きっとヒーローになれば自分が優しいことの証明になると思ったからだろうし。そういう意味では、このまま死んでもちゃんと僕の夢は叶ったと言えるのかもしれないな。
踏み込んだ一瞬に僕はここまで頭が回った。頭が回ったというより、いつもの自己否定の癖をなぞっただけだったかもしれない。走馬灯なんか見てる暇はない。僕は子どもから一切目を逸らすことなく、真っ直ぐにトラックが通る一秒前の道路へ飛び込んだ。僕は優しくあるんだ。僕はヒーローになるんだ。心はヒーローとして死ぬんだ。そう決めて腹の底から息を吐いた。
「危ない!」
その瞬間、トラックのブレーキ音が鳴り響いた。迫るトラック、子供の悲鳴、生ぬるい風。全てがスローモーションに思えた。僕はトラックに轢かれそうになっている子どもに近づき、それから、沖野に引っ張られた。
「え?」
沖野は左手で僕を引っ張った後、それを反動にして、トラックの方を見たまま道路に立ちすくむ子どもを右手で突き飛ばした。そして彼女自身はトラックに突き飛ばされた。ドンっという鈍い音が甲高いブレーキ音に混じって聞こえた。沖野の華奢な体はありえない角度に曲がり、やや不恰好に宙を舞った。ほんの少しの時間があって、トラックはスピードをなくした。沖野は結構遠くまで飛ばされて、地面に落ちた。それは綺麗な着地なんてものじゃなく、ただ沖野という物体を地面に叩きつけたかのような着地だった。命の保証なんてあるわけのない着地に見えた。僕は固唾を飲んで沖野だったものを見た。
彼女はしばらく地面に横たわった後、地面にぶつけた腰をさすりながら立ち上がり、それから何事もなかったかのように走って帰ってきて僕の頭をバシンと叩いた。
「危ないじゃん!」
僕はまだ混乱していた。
「何が起きた?」
「なんにも。」
「え、は?」
僕が起きたことを整理するのには少し時間がかかった。そういえば、沖野は無敵だった。路地に座り込んで泣きじゃくる子どもとそれを慰める沖野を見て、僕はやっと事の顛末を理解した。
「ヒーローだ。」
僕は路地へ歩きながら呟いた。僕なんかよりも、ずっとヒーローだ。
「当たり前でしょ。」
沖野は胸を張った。なんだか沖野がすごく頼もしく見えた。自分の能力を正しく使って最善を選んだ。それはヒーローに求められることそのままであり、僕に足りないことだった。心だけではヒーローにはなれない。僕は心だけでもヒーローであろうとした自分を恥じた。結局僕が守ろうとしたのはヒーローになりたかった自分だけだった。ヒーローになりたいという子どもの頃からの憧れや、能力が芽生えなかった悔しさ、ある種の諦め。自分が自覚したくなかったその全部があの一瞬に僕の心を支配した。僕は沖野に命を救われた。彼女は無敵のスーパーヒーローだ。
それから僕らはトラックの運転手と話して警察に事故の説明をした。お金の話は沖野がなんとかするだろうから僕はあまり聞かないようにした。トラックの会社の偉い人が来るのを待ったりその人の長々とした謝罪を聞いたりしていたから、僕らが解放されたのはもうすっかり暗くなってからだった。僕らは一緒に帰ることにした。
「沖野はさ、なんで子どもと僕を助けたの?」
沖野は不思議そうな顔をした。質問の意図がよく分からないというような顔だった。その純粋な表情に、僕の中でドス黒い感情が生まれるのに気づいた。この感情は知っている。嫉妬だ。能力のない人間の、能力者への嫉妬だ。僕は、あの瞬間の自己否定を全部説明してやろうと思った。
「僕は、自分を守るために踏み出したんだ。子どもを助けるためじゃない。僕はヒーローでありたかったんだ。能力のない自分のことを優しい人だと思いたかった。子どもを助けて死ねたら楽だろうなと思ったんだ。」
沖野は少し面食らった顔をした。僕が自虐的になっているのが意外そうだった。沖野は少し俯いて少し考えて、それから顔を上げて明るい声を出した。
「私は、無敵だから助けたの。私は自分が無敵じゃなかったら踏み出せていなかったと思うわ。その点、君はすごいと思うけどね。」
「そっか、ありがと。」
僕は彼女の「慰めよう」という意図を感じて、それにお礼を言った。だけど、納得はしていなかった。
「でもやっぱり、誰かを助けられるのは能力者なんだなって思った。」
「そう?」
「うん。他人より優れていて初めて、他人のことを助けられるんだ。僕みたいに他人より劣ってるかせいぜい同じくらいの人間には他人を救うなんて無理なんだよ。僕は自分のことで精一杯だ。」
「私も、一緒だよ。私も、自分のことで精一杯。」
僕はその言葉に少し苛立った。
「一緒な訳あるか。何の能力もない僕と、無敵の君が、同じなわけない。」
「うーん。その能力主義みたいなのやめた方がいいよ。なんていうか、みっともない。」
「どうせ僕はみっともないよ。」
沖野はやれやれという感じで頭を振った。僕は自分の考えが間違っているとは思わなかった。
「君には君の特別な能力があります。」
「ないよ。」
「あります。」
「なに。」
「君は、優しい。」
僕は頭を振った。
「優しい人なんていくらでもいる。そんなんじゃアイデンティティにならないよ。」
「能力者だってたくさんいます。」
「でも、とにかく違うんだ。優しさじゃ人は助けられない。」
沖野は「んー」と考え込んでしまった。
「僕は、同じ状況があったらまた踏み込むよ。それでもヒーローとして死にたいから。」
「わかった。また助ける。」
沖野は僕と目を合わせようとした。僕はなんだか悔しくて前を向いたまま目を合わせなかった。僕にだって能力があればという気持ちは僕の奥深くに根を張っていた。完璧な能力を持った沖野に、能力が理由で助けられるのは、僕の子どもっぽいプライドに障った。
「じゃ、また明日。」
そんな会話をしていると、沖野の家に着いた。僕の家は沖野の家よりもう少し遠くにある。彼女と別れた後、僕は一人で歩いた。能力も無いくせにヒーローぶる僕は、どうしようもないやつなのかもしれない。心だけではヒーローになれないと理解していながら、それでも心だけヒーローであろうとした。真のヒーローになれるのは心の強い人だと理解していながら、心の弱さから足を踏み出した。能力さえあれば僕だって。僕は三つ上の兄のことを思った。兄は昔から優秀で僕なんかよりもっとすごい人間だった。兄に能力が芽生えたのは、兄が十歳の頃。野球をやっていた兄があまりに速い球を投げるものだから監督が親に言って病院に連れて行ったところ、怪力の能力者であることが判明したらしい。当時小学校低学年だった僕にはあまりわからなかったけど、それからの兄はずっと、僕とは違う道を歩んでいた。ヒーローになるための勉強、ヒーローになるための訓練。能力者は一般人のスポーツの試合に出ることも禁じられていたから、野球もやめて勉強に取り組んでいた。そんな兄を見ているうちに、自然と僕はヒーローを目指していた。僕にだって能力が目覚めるに違いない。そう信じて疑わなかった。でも、僕には能力は目覚めなかった。思春期だった僕は、憧れてしまう兄から逃げるように遠くの高校を受験して一人暮らしを始めた。兄は高校を卒業したあと、順調にヒーローとしてのキャリアを積んでいるはずだ。能力者への憧れは、僕の心の奥に根ざしていた。そんな僕の前に沖野が現れた。憧れ、嫉妬、いろんな感情がごちゃ混ぜになって僕を襲った。初め、沖野は僕の敵だった。でも、沖野は誰よりも僕のことを肯定してくれた。僕の心は、またごちゃ混ぜになった。兄よりも完璧な能力を持つ沖野の横に立つには子どもっぽすぎる心を持て余して、僕は少し泣きそうになった。僕は、沖野の隣に立つような人間じゃないんだ。僕のような人間が彼女の隣にいていい訳がない。沖野が持つ心の強さも、自分自身への自信も、能力も、僕には何もない。そもそも、こんな人間がヒーローになっていいんだろうか。トボトボと帰りながら、僕は自分の将来はどうなるんだろうなんて考えた。自分の家までの道がやけに遠く思えた。親元を離れて二年目、一人暮らしもすっかり慣れたものだ。僕の家はワンルームで、小さいけど僕には十分な広さをしている。部屋の一番奥、窓際にベッドがあって、その手前にカーペットと小さな机、それから地面に置いたテレビがある。その手前には小さなキッチンがあって、玄関を入ってすぐ左にはユニットバスがある。もう二年もお湯を張った浴槽に入っていないんだと思うと、不思議な感じがした。晩御飯はスーパーのお弁当にした。家に帰って小さな机でスマホを見ながらお弁当を食べていたら、能力者の犯罪がニュースになっていた。沖野みたいな奴もいれば正反対の奴もいるんだなと思った。その日は疲れていたからか、よく眠れた。




