第三章 無敵ごっこ
廊下に出ると、パニックになったヒーローたちでごった返していて、多くの人が下の階へ向かって走り回っていた。どうする。彼女はどこだ。僕は必死で頭を回転させた。彼女が居そうな場所。僕はいろんな可能性を考えた。彼女が自分の身を素直にエリティストに渡そうとしたら、きっと多くのヒーローがそれを止めようとするだろう。彼女は何と言っても日本一のヒーローだ。ヒーロー協会のプライドを賭けても、そう易々とエリティストの要求に従うわけにはいかない。そうならば、自分の身をエリティストに渡そうとした彼女が選ぶ方法はなんだろうか。僕は必死で考えた。雲間から太陽が出て、廊下の窓からキラッと僕を照らした。僕は窓の外を見た。
その瞬間。スローモーションで窓の外を落ちていく逆さまの彼女と目が合った。ドキッとした。時間が止まったように、僕らは視線を交わした。それは、懐かしい笑顔だった。あの夏に置いてきたはずの、忘れようもない笑顔だった。僕はつい見惚れて足を止めた。あの夏がこだまする。
「やあ。」
彼女の声がした。あの時と何も変わらない、優しい声だった。
「何してんだよ。」
僕もつい、あの頃のように声をかけた。
「無敵ごっこしてたの。」
「まだやってんのか。」
「うん。」
彼女はふふんと笑った。
「懐かしいね。」
「うん。」
「一緒にかき氷食べたよね。」
「うん、食べた。」
「私はブルーハワイ、君はイチゴだったかな。」
「うん。そうだった。」
「舌の色が変わってて、笑ったのを覚えてる。」
「僕も。忘れない。」
「一緒にレストランも行ったね。」
「うん。」
「私はエビフライ、君はオムライスを頼んだんだっけ。」
「うん。君はエビフライの尻尾まで食べてた。」
「ふふ。君がオムライスを一口くれて、私が『今度はオムライス食べたい』って言ったの覚えてる?」
「覚えてる。」
「結局、行かなかったね。」
「うん。行きたかった。」
「私も。」
今にも頭から落ちていきそうな制服姿の彼女は、宙に浮いたまま、いつものことのように僕と会話した。
「あの夜を覚えてる。」
「うん。僕も。」
「一緒に寝たね。」
「うん。」
「私寝相悪かった?」
「ううん。静かに寝てたよ。」
「私、君に意地悪したね。」
「そうかな。」
「クイズとか言って、君に私の不安を背負わせようとした。」
「うん。」
「私、不安だったの。」
「うん。」
「君ともう一緒にいられないような気がして、不安だった。」
「うん。」
「もっと一緒にいたかった。」
「僕も。もっと一緒にいられると思ってた。」
「意地悪してごめんね。」
「一緒にいるよって答えられなくてごめん。」
彼女は笑った。
「そこはまあ、君らしいってことで。」
僕は苦笑いした。
「ねえ、いつか、違う街で、違う時に出会えたら、今度は一緒にいてくれる?」
「うん。一緒にいよう。」
「嬉しい。」
時は少しずつ動き出し、彼女は少しずつ落ち始めた。
「次の人生では、もっと一緒にいようね。」
「うん。」
太陽が再び雲に隠れ、廊下は少し暗くなった。窓の外を見て立ち止まっていた僕は、廊下を走るヒーローに肩をぶつかられて現実に戻った。
「すいません。」
僕の声は騒音に消された。僕にぶつかったやつは逃げるのに必死で僕を振り返ろうともしなかった。
あれは、幻影だ。僕の思い出が魅せる幻だ。制服を着た彼女はもうこの世界にいない。夢に違いなかった。
でも、そこにはあの夏があった。
「無敵ごっこしてたの。」
無敵ごっこ。きっともう無敵じゃないあいつが今やってることだ。無敵のフリをして、世界を背負っている。バカなやつだ。そんなバカなあいつなら、きっとあそこにいる。
僕は人の流れに逆らって屋上を目指した。この状況でエリティストに自分を渡す方法、それはきっと屋上から飛び降りることだ。彼女がやりそうなことだった。僕は全力で走った。息が切れてうまく息を吸えなかった。それでも、一秒でも早く屋上に辿り着きたくて足を前に出した。死ぬな。死ぬな。僕のために死ぬな。
ついに屋上に辿り着き、バンっと大きな音をさせて扉を開いた。そこには、果たして彼女がいた。僕はかけるべき言葉を悩んで、それから、名前を呼んだ。
「沖野!」
沖野。ずっと避けていた名前だった。呼んでしまえばあの夜が蘇ってきてしまいそうで、無意識に避けていた名前だった。ずっと呼べなかった名前だった。僕の青春が全て詰まった言葉だった。
沖野は驚いたようにこちらを見た。沖野に伝えることを何回も練習したのに、何を伝えようとしていたかなんて、全く頭に浮かばなかった。ただ僕は、頭に浮かんだ言葉を話した。
「沖野、今君が何をしようとしているのか僕にはわかる。やめてくれ。」
沖野は黙ったまま僕を見た。
「今君は死のうとしているんだろう。」
「僕を守るために。」
一瞬の静寂が僕たちを包んだ。
「僕は沖野に死んでほしくないんだ。」
沖野は一度目線を落として、それから呆れたように僕を見た。
「もう沖野じゃないよ。」
え?
「私、もう沖野じゃない。」
そんなことも知らないの?という目で僕を見た。
「私ね、もう家庭があるの。」
沖野は深く息を吸った。それから、大きな声を出した。
「誰が、誰があんたのために死ぬって言うのよ!」
僕の知らない沖野だった。僕はその声に気押されてしまった。
「私は、私の好きな世界を守るために死ぬのよ。」
「今となっては、その世界にあなたはいないわ。」
僕はまた、何も言えずにいた。
「私がヒーローになった後、私が少し忙しくなったら連絡だって返さなくなったくせに。」
沖野は僕を見下すように言った。
「ずっと連絡を待ってた。」
「でも、あなたは連絡さえしなかった。」
そうだ。逃げたのは僕だった。能力を活かして活躍していく彼女の隣に居られる自信がなくて、逃げたんだ。
「一番支えてほしかった時に、逃げたくせに。」
「結局あなたが守りたかったのって、自分だけでしょ。」
僕は俯いた。
「もう私、家庭があるの。家族がいるの。誰があなたのために死ぬのよ。」
「私は、私のために死ぬの。あなたなんか一切関係ない。」
「わかった?」
僕は俯いたまま、声を出そうとして、何も出てこなかった。
「返事もできないのね。」
「まあいいわ。」
沖野は屋上のフェンス際まで歩いて行って、フェンスに手をかけた。
「あ、そうだ。一緒に飛ぶ?」
沖野はそこで初めて笑った。僕は力無く首を横に振った。
「あっそ。」
沖野はフェンスに跨った。
「この十年、私は前に進むことを選んできたわ。あなたが選んだのは前に進むフリ。傷つくのが怖いだけ。自己中心的で何も成長してない。」
「これが私の最後の会話だと思うとなんだか笑えてくるわね。」
「一緒にいられたときは楽しかったよ。」
「じゃあね。」
そう言うと、沖野は躊躇なくその身を空に預けた。
沖野雫が落ちていく。
すぐにドンという音がして、エリティストが撤収するような声がした。
僕は俯いて、そのまま膝をついた。何も、できなかった。何も、言い返せなかった。僕と彼女の差は、十年前よりもはるかに広がっていた。僕には、何もできなかった。その事実が苦しくて、そして何より、目の前にいた沖野が死んでいくところを止められなかった事実が僕にダメージを与えた。
僕が殺したんだ。
僕が、沖野を殺したんだ。それは呪縛となって僕を縛り、身動きを取れなくさせた。僕は蹲って泣いた。嗚咽が止まらなかった。自分の弱さと、この十年を呪った。もっと何かできていたかもしれない。友達として、沖野に声をかけることもできたかもしれない。そんな後悔ばかりが僕を押しつぶして僕は屋上で一人泣いた。
「うああ。」
声にならない声が漏れた。
「うあ、うあ、うあああ。」
僕は膝をついて俯いたまま泣いた。涙が止まらなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。僕の孤独な屋上に足音が聞こえた。
「ようボウズ。」
僕には振り返るだけの元気もなかった。俯いたまま、涙を拭った。
「ダメだったみたいだな。」
新野さんはいつも通りの声でそう言った。
「まあ、全部予想通りだ。」
その声を聞いた途端、僕の中に暗い炎が起きるのを感じた。
「こうなると思ってた。」
その小さな炎は一瞬にして新野さんへの怒りへと変わった。僕は新野さんに顔も向けずに怒鳴った。
「じゃあ、じゃあなんで僕にこんなことをさせたんですか!」
「なんだ、怒ってるのか。」
いつも通りの新野さんの様子が僕の怒りに油を注いだ。僕は立ち上がって振り返り、新野さんの目を見て言った。
「なんで僕を唆したんですか!」
「はあ。」
新野さんはため息をついた。
「お前がこんなに情けないとは、予想外だったな。」
新野さんは残念そうだった。
「俺は選択肢を与えた。お前が選んだんだ。」
「でも、でも。」
「でも、なんだ?俺のせいにしたらお前の気がおさまるのか。それなら好きにすればいい。」
僕は肩で息を吸った。
「情けねえ。」
新野さんは頭をかきながら言った。
「じゃあな。俺がお前と関わることは今後一切ない。」
そう言うと、新野さんは僕に背を向けて屋上から去って行った。
「それから、」
新野さんは特別なんでもないようなことのように続けた。ドアがバタンと音を立てて閉まり、僕はまた一人になった。
時間が経って、日が暮れて、夜になって、警備員が見回りに来て、僕は見つかり、許可証なしで協会本部に侵入したとして懲戒処分を受けた。
僕は、ヒーローをやめることにした。
懲戒処分の出勤停止明けに、上司に退職届を出すために職場へ顔を出すと、後輩が駆け寄ってきてくれた。
「色々あったみたいですね。」
「うん。色々あった。」
「私は、先輩のことを信じてますからね。」
「ありがとう。でも、もういいよ。」
「え?」
「ヒーローをやめるんだ。」
「そうなんですか。」
後輩は残念そうな顔をした。最近いろんな人にこの顔をさせてばかりだなと思った。
「今までありがとう、頑張ってね。」
後輩は俯いてしまった。僕はその頭をポンポンと撫でて先へ進んだ。
僕は上司に退職届を出した。上司も一応引き止めてはくれたけど、僕は断った。




