第三章 海と雫
アラームの音がしてベッドから目を覚ました。仕事を辞めてから少し経った、ような気がする。数日後だったかもしれないし、二週間後だったかもしれない。もしかしたら数ヶ月経っていたのかも。毎日を何もせず過ごしていると、日付の感覚は無くなる。とはいえ、仕事も予定もないのにアラームで起きるのは皮肉なものだ。まだぼーっとする頭で僕は考えた。僕は、ヒーローを辞めた。僕は全てを失った。小さい頃からの夢、そのために頑張った時間、一緒に頑張った仲間との思い出。全部が無駄になった。思い返せば僕の人生は全部、ヒーローになるためのものだった。そして僕はその夢を一度掴んだ。そして自分の手で捨てた。僕が本当に大事にしたかったものはなんだろうか。全部捨てた僕の手にまだ残っているものはなんだろうか。
スマホの通知が鳴った。兄貴だった。僕は兄貴からの電話に出た。
「よう鏡太。仕事辞めたんだって?」
「うん。辞めたよ。」
「そうか、仕事に行かなくてもいい朝ってのは、いいもんだろ。」
「そうだね。」
「仕事に行きたくなる朝が来たら、仕事を始めるといい。」
「そうするよ。」
「実は俺もな、仕事を辞めようかと思ってる。」
「ヒーロー辞めんの?」
「ああ。」
「なんで?兄ちゃんはヒーローやってくれよ。僕の分までさ。」
「なんで俺がお前の分背負わなきゃいけねーんだよ。俺には俺の人生がある。」
「そうだけど。でもなんで辞めるんだよ。」
「医者に言われたんだ。」
「なんて。」
「俺がジジイになるまで、体調は安定しないだろうって。」
「そっか、大変なんだな。」
「おう、だからヒーローは終いだ。とても肉体労働できる体じゃねえ。」
兄貴はなんでもなさそうに言った。あれだけ憧れていたヒーローを辞めることを、兄貴はなんとも思っていないのだろうか。
「兄ちゃんはさ、僕らが小さい頃からヒーローになるための生活をしてきたじゃん。それがこんな形で終わることに不満とか後悔とか、ないの?」
僕は、自分自身への答えとして、それを聞きたかったのかもしれない。僕は後悔しているのだろうか。兄貴は少し考えて、喋り始めた。
「確かに、ヒーローになるのは夢だった。能力者だと診断されてからは、より現実的に目標になった。そのためにたくさんのものを捧げてきたのも事実だ。でもな、大人っていうのは、自分に与えられた現実に向き合わなきゃいけねえんだ。夢や目標じゃ飯は食えねえ。俺は自分の体に向き合って生きていくつもりだ。」
僕はその答えに満足しなかった。兄貴の答えはヒーローを諦める理由であって、「不満や後悔があるか」という僕の問いには答えていないように思えたからだ。
「不満とか、後悔とかないの。」
「不満や後悔を言ってもしょうがねえって話だ。俺は大人だ。前を向いて生きるしかないってことくらいわかってるさ。」
「不満とか、後悔とか、ないの。」
「んー。」
不満も後悔も、全部自然と出てくるものだ。それが本当に出てこないのか、出さないようにしているのか、僕は知りたかった。
「お前は昔からそうだ。聞かれたくないことばかり聞きたがる。」
「不満とか、後悔とか、あるでしょ。」
「あるだろ、そりゃ。」
僕はその答えに満足した。兄貴は語り出した。
「俺は、俺が悪いことをしたからヒーローを辞めるんじゃねえ。ただ、たまたま運が悪くて世界で初めて女になっちまった。そういう意味では後悔はねえかな。あるとしたら不満だ。」
「うん。」
「なんで俺が。そう考えて眠れなかった夜も多い。でもこの不満をぶつける相手もいねえ。だって誰も悪くねえからな。だから俺は飲み込むことにしたんだ。」
「大人だね。」
「ああ。でもな、俺はタイミングが良かったのかもしれないとも思うんだ。」
「なんで?」
「俺は日本一のヒーローになるという夢を持っていた。その夢が絶たれたと知った頃にちょうど女になったからな。夢を諦めるちょうどいい理由ができたってわけだ。」
「ちょうどいい。」
「そうだ。ちょうどよかった。自分への言い訳になる。俺は女になったから仕方がない。女になっていなければワンチャンあったかもな。ってな。」
「それで兄ちゃんは満足なの。」
「満足するしかねえんだよ。」
「そんなのって虚しくない?」
「お前は嫌なことばっかり言うよな。」
「ごめん。」
でも、僕は兄貴の言葉が聞きたかった。夢を諦めた人間の、これからを生きようとしている人間の言葉が、聞きたかった。
「大人は無責任に『大きな夢を持て』と言う。身の丈に合わない大きな夢がいずれ運んでくるのは、『その夢は身の丈に合わない』という事実だけだ。」
身の丈の合わない夢は、自分を苦しめるだけだ。憧れた時間が、努力した思い出が、全部僕を苦しめる。
「夢も目標も、幸せを運んでは来ない。未来の中に幸せはない。」
夢破れた青年の言葉は、重かった。
「幸せは、今目の前にある現実の中だけにあるんだ。」
僕は、かつて同じようなことを言った人の顔を思い出した。懐かしい気持ちがした。
「俺は、幸せになることにしたんだ。」
「そっか。」
兄貴とはしばらく話して、電話を切った。
ただなんとなく時間が過ぎて、お昼ご飯を食べたら日が暮れた。テレビをつけるとニュースをしていて、マシアハのリーダーが自首をしたと報道されていた。
「この世界には、もう生きていてほしい人も死んでほしい人もいないので。」
彼女はそう説明したらしい。僕には、その気持ちがわからなかった。生きていてほしい人なんてたくさんいる。兄貴も、両親も生きていてほしい。彼女には、そういう存在がいないのだろうか。それはあまりにも寂しいように思えた。でも、彼女が沖野の命を奪ったのも確かだ。僕は彼女の自首に少し安堵した。
それから、僕はベッドに寝転んだまま考え事をした。僕があんなに憧れたヒーローを捨ててまで守ろうとしたものはなんだろうか。結局、僕はまた自分自身を守ろうとしているだけなのだろうか。沖野に、ああもう沖野じゃないんだっけ、あいつに言われた通りだ。僕はいつも、苦しいことから逃げているだけ、目を背けているだけだ。逃げているだけの人間が生きていていいんだろうか。その時、インターホンが鳴った。こんな人間に、まだ声をかけてくれる人がいるんだと思いながらドアを開けた。そこには、目を真っ赤に腫らした後輩がいた。
「先輩。」
後輩はぐすんと涙を拭った。
「とりあえず部屋上がるか。」
後輩を部屋に上げて僕はティッシュを差し出した。
「すみません、迷惑だってのはわかってるんですけど、もう一度先輩に会いたくて、私、先輩がヒーロー辞めるなんて思ってなくて、勝手に来たら迷惑だってのはわかってるんですけど、だって私彼女でもないのに、すみません、でもどうしても先輩の声が聞きたくて、先輩がまだ生きてるかとか不安で、すみません、すみません。」
要領の得ない後輩の話を聞きながら、僕は自分がいかに幸せ者なのかを理解した。
「迷惑じゃないよ、ありがとう。」
僕は後輩の背中を撫でた。
「優しく、しないでください。」
「ごめん。」
僕は撫でる手を止めなかった。
「急にヒーローを辞めてごめんね。」
「私本当にびっくりして、話したいこととか伝えたいこととかいっぱいあったのに、何にも言えないままお別れになっちゃって、悲しかったんです。」
「ごめん。」
「すみません、先輩に謝って欲しくて来たわけじゃないんです。ごめんなさい。」
僕は黙った。謝る以外の言葉を知らなかった。後輩はティッシュを取って涙を拭って、深呼吸をした。
「今日、泊まっていってもいいですか?」
「いいの?」
「私が聞いてるんです。」
僕は迷った。後輩との関係は、僕がヒーローを辞めた時に終わったものだと思っていた。職もないお金もない人間に価値はないだろうと思ったからだ。それでも後輩は今、来てくれた。僕から連絡を取ろうともしなかったのに。僕はまた、ずるいことをしているような気分になった。
「いいよ、泊まっていって。」
「ありがとうございます。」
「こちらこそだよ。」
僕は、ずるくない方法を考えた。でも、職も金もない今の僕から言い出すのは、難しかった。その間に後輩はティッシュをまとめてゴミ箱に捨てていた。
「もう泣きませんから。」
「泣かせてごめんね。」
「謝らないでって言ったのに。あ、そーだ先輩、今日はちゃんとご飯食べました?」
「昼にカップ麺を。」
「ダメですねー。晩御飯は?」
「食べてないよ。」
「じゃあ私が作ります。」
後輩は笑顔だった。まだ目は腫れていたけど、可愛かった。
「どうせ冷蔵庫にも碌なもの無いと思うんで買い出し行きましょうか。」
「いいの?」
「いいに決まってます。」
僕は立たされた。鍵を持って一緒に部屋を出て、外に出た。外は夏の終わりに包まれていて、まだ暑いアスファルトを踏み締めて歩いた。空は暗く、生暖かい風が吹いた。
「なんでこんなにしてくれるの?」
一緒に歩きながら、僕は素直に思ったことを聞いた。
「先輩って馬鹿なんですか?」
後輩は笑って聞いた。
「ごめん、付き合おう。」
「はーい。」
僕らは顔を見合わせて笑った。
「はーあ、職のない男に捕まっちゃった。」
「頑張るよ。」
「頑張らなくていいです。休んでください。」
後輩から手を繋がれた。僕らはゆっくり近くのスーパーまで歩いた。
「そうだ、私のこと名前で呼んでくれたことないですよね。」
「あー、うん。」
「呼んでください。」
「呼ぶよ。」
「今。」
僕は少し躊躇って、それから声に出した。
「海。」
「はーい。」
名前を呼ぶのは、避けていた。大切な人になってしまったら、また失ってしまうような気がしたからだ。
「私、自分の名前好きなんです。」
「そうなんだ。」
「海って、あと一滴雫が落ちたら、水平線の縁から溢れちゃうんですよ。幸せで満たされた名前なんです。」
「そっか。いい名前だね。」
あれから、無敵のヒーローの話は聞かない。
誰も敵わない無敵のヒーロー。それを殺したのは僕だった。
だけどそれを知っているのは、僕と新野さんだけ。
誰も知らない無敵のヒーロー殺害事件。
無敵のヒーローは、協会本部の屋上から飛び降りたとき、地面に衝突して死んだらしい。




