第三章 無敵は死刑
彼女が出て行った後、僕はキッチンに行き、コップ一杯の水を飲んで煙草に火をつけた。煙草を吸っていると、少し頭がスッキリしたような気がした。
ピコン、とどこかでスマホが鳴った。スマホをどこに置いていたかすぐに思い出せなかった僕は、煙草をひと吸いして、それから枕元の充電器に差したままだった事を思い出した。煙草の火を消して灰皿を置き、少し歩いてベッドに座り、スマホを取り上げた。スマホの画面を見ると、それは新野さんからだった。
「自分からは連絡しねえんじゃなかったのかよ。」
僕は悪態をつき、まだ少しぼんやりとする頭でそのメッセージを開いた。
「日時が決まった。明日の正午、無敵は死ぬ。」
僕は来訪者を待った。昼頃になって、玄関のチャイムが鳴った。
「はい。」
「新野だ。」
「どうぞ。」
新野さんは家に入ると靴を脱ぎ、ゆっくりと部屋まで歩いてきた。
「座るぞ。」
新野さんはカーペットの上に胡座をかいて座ると、ゆっくりと息を吸って話し始めた。
「さて、早速だが、無敵の話をするとしよう。」
「はい。」
僕は結局あの後すぐに、「どういう事ですか」と新野さんに連絡を送っていた。あのかつて憧れたヒーローの死が急速に現実感を持って現れた事実に僕は焦燥し、気づけばただ返信を待っていた。目の前の幸せに縋った罰だろうか。いや、そんなことは。新野さんからはすぐに「話せば長い。今日お前の家に行って話す。」と返信がきた。僕は新野さんの来訪を今か今かと待ち構えていた。
「今、無敵はヒーローのアイコンになっているという話はしたな。」
「はい。」
「それをよく思わない奴らがヒーロー協会の中にいる。あんなひよっこヒーローが協会の象徴だなんてありえない、とな。」
「なんとなく理解できます。」
「ああ、そして奴らはあろうことか犯罪者集団と手を組もうとしている。」
「犯罪者集団?」
「能力者を集めた犯罪者集団、通称エリティストだ。」
「エリティスト。エリート主義者、選民思想ですか。」
「そうだ。彼らは能力者のみの世界を作ろうとしている。彼らは能力者をエリートと呼び、エリートのエリートによるエリートのための世界を標榜して活動している。」
「彼らの望む世界というのは?」
「能力のない奴らの皆殺しだ。奴らは特に能力のないヒーローに対して強い憎悪を抱いている。」
「それが一体なぜ彼女と関わってくるんですか。」
「協会の奴らが暗躍して、「無敵をエリティストに渡す代わりにヒーロー協会を守ってくれないか」と交渉しているらしいんだ。エリティストにとってみれば無敵は最強の能力を持つ人間、いわばエリートの中のエリートだ。悪い話ではないとしているんだろう。」
「そんなことがあったんですか。」
「そして無敵はその話を飲もうとしているらしい。能力のないヒーローのために、お前のために死のうとしているんだ。」
「なるほど。そういう話でしたか。」
僕の知らない世界の話だけど、理解はできる。でも、一つ疑問が湧いた。
「明日死ぬ、というのは?」
「ああ、死ぬというのは少し語弊があったかもしれない。」
「嘘ついたんですね?」
「嘘じゃない。エリティストに渡された無敵がどんな扱いを受けるかは想像したくもないだろう。」
「それは、そうです。」
「昔言ったな。無敵だからこそ、死ぬより辛いことになるかもしれない、と。」
「確かに。」
「だから、無敵を説得して欲しい。」
「無抵抗に引き渡されるのをやめろと。そう説得して欲しいんですね。」
「そうだ。」
「その場合、ヒーロー協会はどうなるんですか?」
「んー、さあな。」
「タダではすみませんよね。」
「まあ十中八九、戦争だろうな。」
僕はとんでもないことに首を突っ込んでしまった事を自覚した。一端の一般ヒーローが関わってはいけない領域だった。僕は新野さんに連絡を返してしまったことを後悔し始めていた。
「後悔してるか、ボウズ。」
「ええ、少し。」
「いいじゃないか、お前が決められるんだ。無敵を殺すのか、自分が殺されるのか。」
「どこがいいんですか。」
「普通のヒーローには選択する権利すらないんだ。喜べ。」
僕は唸った。僕は、選べるんだ。自分の死と彼女の死を天秤にかけろと、新野さんは言っている。それと、あと後輩の命も。
「僕が説得しても彼女が意見を変えるとは限りませんよ。」
「その時はその時だ。俺は、お前が行動したことに意味があると思う。」
「まだ疑問があります。」
「なんだ。」
「どうして新野さんは彼女をエリティストに渡すことに反対してるんですか?」
「いや、俺は無敵を渡すことに納得も反対もしていない。どっちでもいい。」
「どっちでもいいって、だって戦争になるかもしれないんですよ。」
「どっちでもいいんだ。ヒーローとして死ねれば俺の人生には何の後悔もない。俺の他に何人死のうが、俺には関係ない。」
新野さんは普通のことのように言った。
「ただ、俺は思ったんだ。選ぶ権利のある人間が無敵以外にもう一人いる、とな。」
「それが僕、ですか。」
「そうだ。」
「そういうば昔、正しいことをしろ、と言ったな。覚えてるか。」
「はい。」
「正確には、『自分にとって正しいことをしろ』と言いたかったんだ。」
「はい?」
「正しいことは、人によって異なる。エリティストだって、自分にとって正しいことをしてる。俺には、それを否定できない。俺はそんな偉い人間じゃない。俺にとって正しいことは、選ぶ権利のある奴に、その権利を正しく届けることだった。」
「正しい、こと。」
「そうだ。お前にとって正しいことはなんだ。」
「自分のために無敵を殺すことか?」
「それとも、無敵のために自分を殺すことか?」
「お前が選ぶんだ。」
「お前が、殺すんだ。」
僕は俯いた。頭の中にいろんな意見が渦巻いて、そのどれもが言葉になる前に霧散していった。
「殺すのは、エリティストです。」
僕はそれだけ、口に出した。
「そうだな。それも一つの真実だ。」
新野さんは頷いた。
「さあ、どっちだ。」
「説得するのか、しないのか。」
「選べ、時間はないぞ。」
「説得は、しません。」
新野さんは、少し驚いたような顔をした.
「しないのか。」
「しません。」
目の前にある幸せの味を知ってしまった僕にとっては、妥当な選択だった。過去と今、どちらを大事にするのかと言われれば、それは今だ。今はやがて未来になる。未来こそ、僕が生きる場所だ。確かに過去は、あの思い出は、僕にとって大切なものだ。彼女は、確かに僕の中で生きている。でも、それでも、それは過去に閉じ込めておけるものだと思った。
「なぜだ。」
「僕は前に進むと決めたんです。あの事件から。」
「事件?」
僕はやってしまったと思った。口が滑った。
「事件ってなんだ。」
「色々あったんですよ、昔。」
「聞かせろ。」
「嫌です。」
「聞かせろ。」
「嫌です。」
あの事件から、僕は彼女のことを忘れることにした。覚えているのが苦しかったからだ。今でも僕にとって大切な人だと知ることがどうしようもなく辛かったからだ。
「そうか。まあ想像はつく。あれだろ、無敵の熱愛報道。」
僕は言葉に詰まった。
「正解というわけか。はあ、なっさけねえ男だな。」
僕は何も言えずにいた。
「好きだった女に熱愛報道が出た。それも真偽は不確かだったはずだ。それでしょげて自分には関係ないとか言ってたんだろ。」
新野さんは、グッと距離を詰めて僕の目を見た。
「じゃあもう、友情も無くなったんだな。」
僕は言葉に詰まった。
「恋愛がなくなったら、友情もなくなるんだな。」
僕はもう泣きそうだった。
「ふーんそうかい、勉強になるねえ。」
新野さんは立ち上がった。
「わかったよ。それがお前の選択なんだな。恋愛がなくなったら友情もなし、よって無敵は死刑。そういうことかよ。」
「ちょっと待ってください。少しの間考えさせてください。」
「時間がないって言ってるだろ。取引が行われるのは明日の正午だ。」
「三十分ほど、近くのカフェで時間を潰してもらえませんか。一人になって考えたいんです。」
「三十分な。わかった。そしたら答えを聞く。」
新野さんは玄関へ行き、靴を履いてドアを開けた。
「そもそも、なんで新野さんはそんなにいろんなことに詳しいんですか?」
「俺は偵察のプロ、瞬間移動のヒーローだ。」
ドアがバタンと閉まった。僕は一人になった。
僕は、考えた。本当は思い出したくもなかった。あの事件、彼女の熱愛報道とともに、僕の青春は終わった。あれは僕がヒーローになって一年目のことだった。僕が彼女と一緒のベッドで時を過ごしたあの夜からずっと、僕はそこに取り残されていた。連絡の取れなくなった彼女がどんどん有名になっていき、人気者になっていく様子を僕は完全な部外者として眺めた。僕の隣にいたはずの彼女は、もう僕の隣にはいなくなっていた。僕はその事実を受け止めきれずに数年を過ごした。あの日に取り残された僕の青春は、幕を引くタイミングを完全に失っていた。そこに事件が起きた。彼女の熱愛報道だ。すでに有名人となっていた彼女は、同じく有名人のイケメン俳優との熱愛を報じられた。彼女の報道を丁寧に追っていた僕は、すぐにその報道を知り、衝撃を受けた。その時僕の青春は完全に粉々に砕けた。僕にはそのイケメン俳優に勝てるところなんてない。その事実が僕を突き刺した。僕にとって彼女は特別だった。でも、彼女にとって僕は特別なんかじゃなかった。その歪な非対称性が現実として僕を押し潰そうとした。きっとこれからもずっと、僕にとって彼女は特別なはずだった。僕は悩んだ。苦しみから逃げようといろんなことを考えた。あの時何か伝えていれば、何か変わったのだろうか。もしかしたら有名になった後も忙しい合間を縫って僕と会ってくれたりしたのだろうか。そんな想像は虚しいだけだ。僕は前を向くことを決断した。忘れる。忘れるんだ。彼女とのことは、全部。前に進むんだ。そう決めた。
それからは、終わっていたはずの青春を追いかけて目の前の人を蔑ろにすることをやめることにした。目の前にいない彼女の影を求めて生きることをやめたんだ。もう二度と、誰も泣かせたくはなかった。出会う全ての人に真摯に向き合い、ちゃんとその人のことを考える。そういう当たり前のことができるようになったのは、この頃だった。でも時々、彼女の活躍やゴシップなんかがテレビで流れる度に、僕の心は痛んだ。だから、テレビを見るのもやめた。もう、彼女とは関わらない。元より関わりようがないのかもしれないけど、メディアから彼女の名前を聞くのでさえ、僕は嫌がるようになった。完全な拒絶だった。僕はしばらく、彼女のことを忘れて生きていくことに成功さえした。その間にいろんな人に出会い、別れた。どの別れも、彼女とのものに比べると些細なことだった。でも、こうして比べてしまうことさえも、本当は悪いことなのだと自覚していた。誰も、彼女には敵わない。その事実だけが浮き彫りになる中、僕はさらに彼女のことを忘れようと努めた。好きだった子にそれを伝えもせず別れたというだけ。よくある青春の、よくある終わり方だ。そんな風に思おうとした。彼女のことは忘れる。それだけのことが、やけに難しかった。
そして昨日、僕は大きな一歩を踏み出したはずだった。目の前にある幸せを、掴むのだと決めたはずだった。その幸せは具体的な形として今朝までの僕を包み込んでくれていたはずだった。でも、揺れた。彼女の話を新野さんが持ってきた時、僕は揺れた。その揺れは、僕が目の前の幸せに逃げようとしていただけだということを突きつけた。僕は何も変われていない。あの頃のまま、目の前の幸せに逃げたんだ。大切な人は、大切なままだった。
新野さんは彼女との過去の繋がりを活かして説得しろと言った。あまりに動揺してしまって、僕は未だに少しも彼女のことを忘れられていないんだと知った。彼女のことを思い出すと苦しかった。この苦しみからは、もう一生逃げると誓ったはずだった。前を向くんだと、そう決めていたはずだった。でも、彼女の死が目の前に迫っているという現実を突きつけられた時、僕は思わず新野さんに連絡してしまっていた。なんでだろうと、自分でも不思議に思った。でも、その答えをさっき、新野さんに突きつけられた気がした。そうだ。僕らは恋愛関係じゃなく、友人関係で繋がっていた。友情が、確かにそこにはあったはずだった。「恋愛がなくなったら友情もなし、よって無敵は死刑。」その言葉が響いた。
友達として、僕は決断しなくてはいけない。
友達を、そのまま死なせるわけにはいかない。そう思った。
同じことをぐるぐると考えていると、玄関のチャイムが鳴った。
「新野だ。決まったな。」
「はい。」
「どうするんだ。」
「説得します。」
「そうか。」
この時の新野さんはどんな顔をしていたんだろう。僕には知る由もなかった。
「じゃあまずは、俺を家に上げろ。」
僕は慌ててドアを開けた。
「作戦を練ろう。」
新野さんはカーペットに座るとそう言った。
「作戦、ですか。」
「無敵は多忙だ。お前のような一般ヒーローが急に会おうと思って会える存在ではない。」
「確かに。」
「だが、だ。」
新野さんは少し得意げな顔をした。
「実は明日の午前十時に、俺は協会本部で無敵とミーティングをする予定を入れておいた。」
「準備がいいですね。」
「プロだからな。」
新野さんはふっと鼻で笑った。
「そこでお前が説得しろ。事前にお前が来ることなんか伝えないから、きっといつも通りの様子で来るはずだ。まあ、無敵が死ぬ二時間前にいつも通りでいられるかは、わからないがな。」
「死なせません。」
「そうか、じゃあどう伝えるか考えるんだな。」
「はい。」
「俺はどうやって下っ端のお前を本部まで入れるかを考えておく。」
そう言うと新野さんは立ち上がった。
「作戦を練るというのは?」
僕は「もう帰るの?」という気持ちで聞いた。
「なんだ、お前の説得の添削でもしてもらいたいのか。」
「いえ、そういうわけでは。」
「じゃあいいな、俺は帰る。明日の朝九時にここに来る。それまでに準備しておけ。」
「はい。」
新野さんはそのまま帰ってしまった。僕はまた一人になって、彼女になんて伝えようか考えた。彼女は、能力のないヒーローを守るために、その身をテロリストに預けようとしている。彼女なりに色々考えた結果のことに違いなかった。そんなことをしてほしくないなんて、僕のわがままをそのまま言ったところで彼女には響かないだろう。理詰めで行くか、感情論で行くか。感情論だろうなと、僕は思った。多くの能力のない人間を守るために死ぬ。それを決めた彼女の心を動かせるのは、きっと僕しかいない。僕のような人間を守るために、彼女は死のうとしている。その当事者である僕こそが、彼女の考えを変えられるはずだ。
それからは、彼女に伝えるべき言葉を探しては推敲し、結局、喋って一分程度の量にまとめた。明日の午前、協会本部の会議室で、僕は伝える。あの夜は、きっと彼女にとっても特別であったはずだ。




