第三章 変異型の能力
そして金曜になった。今日の予定は、帰省だ。新幹線に乗って実家に帰る。僕はスマホのアラームを止めてベッドから身を起こした。別に緊張するということもないけど、準備はしなきゃいけない。スーツケースにあらかじめ詰めていた荷物を確認して、僕は家を出た。最寄り駅から電車に乗って、新幹線に乗り換えた。新幹線はグリーン車を選ぶほどリッチじゃないけど自由席を選ぶほどケチでもない。指定席に悠々と座った。僕の席は窓側で、窓の外には慌ただしい駅のホームが映っていた。何を言っているか聞こうとも思わないアナウンスが流れて、僕を乗せた新幹線は静かに動き始めた。兄貴に、近づいていく。
兄貴は僕の憧れだった。高校生になるまで、というかあいつに出会うまで僕の中でヒーローといえば兄貴のことだった。兄貴はかっこいい、僕だけのヒーローだった。兄貴との思い出はたくさんある。小学校三年生の夏休み、僕は親に内緒で隣町まで自転車で出かけた。それは僕にとっては大冒険だった。両親に車で連れられてきたことは何度もあったけど、自分の足で知らない小道を進むのは背徳感があった。僕は思い切り自転車を漕いだ。夏の日差しがジリジリと僕を焼く中、僕は完全に知らないところに来てしまった。焦りと、それでも僕のワクワクは止まらなかった。知らない道を、自転車から降りて歩く。それはまるで自分が大人になったかのような自由を感じさせた。大きな道に出ればきっと帰り道もわかるはずだと、僕は路地を歩いた。駅に行こう。駅に行けば知っている道が僕を待っている。途中スーパーを見つけて、喉が渇いていたけどジュースを買うお金は持ってきていなかった。僕はしばらく歩いた。太陽はゆっくりと傾いていった。空がすっかり赤くなった頃、僕の心にあった焦りは大きくなっていた。知らない道、知らない街。携帯なんて持っていない僕は途方に暮れた。足が痛くて、僕は道端に自転車を停めて、歩道と車道の間の飛び出たコンクリートに座った。それを縁石と呼ぶことは、当時は知らなかった。このまま一人なのかなと、不安になった。親に黙って冒険に出た自分への罰なのだと思った。太陽はさらに傾き、次第に暗い青が空を塗りつぶし始めた。僕は泣いていた。痛い足を引き摺りながら自転車を押した。駅は、まだ見つからなかった。トボトボと歩いていると、ファーンという音が聞こえた。電車だ。僕は音の方へ歩いた。線路がある。ということは、駅もある。足は痛かったけど、僕は駅まで歩いた。駅に着くと、もう空は真っ暗になっていて、今から帰ったら絶対に怒られると思った。駅には、兄貴がいて、僕を待っていた。兄貴を見た途端、僕は安心してしまって涙が止まらなくなった。
「お前なら駅に来ると思った。」
兄貴は得意げな顔をした。
「こんな時間に何してるの。」
「お前を探しにきたんだろうが。」
「こんな時間に外にいたらお兄ちゃんも怒られちゃうよ。」
「お前が無事で良かった。」
会話にならない会話をしながら、僕らは笑った。
「お前、自転車乗れるよな。」
「うん。」
「じゃあ、帰るぞ。」
兄貴は自転車に乗って僕を置いていくように漕いで行った。僕はそれを慌てて追いかけた。空は暗かったけど、僕にはついていくべき光が見えていた。きっとこの光は僕を導いてくれると思った。あの輝いている兄貴を追いかけて行けば、そこに僕の行くべき道があるんだと思った。家に帰ると、お母さんが僕らを叱った。二人で正座をして謝った。僕は泣きながら説明して、兄貴は悪くないと言った。お母さんはわかってくれたようだったけど、こんなことはしないようにと言った。僕らは「はい」と返事をした。兄貴はヒーローだと思った。困っている人の前に颯爽と現れ、一緒にいてくれる。それがどんなに温かいことか、僕は子どもながらに理解した。
思い返してみれば、兄貴をヒーローたらしめていたのは、能力なんかじゃなかったのかもしれない。兄貴は僕が苦しい時に一緒にいてくれた。一緒に叱られてくれた。そういうところが僕のヒーローである理由だった。僕は兄貴が大好きだった。兄貴が能力に目覚めて、ヒーローになるための人生を歩み始めてからも、ずっと、ずっと大好きだった。僕が兄貴のことが好きだったのは、能力があったからなんかじゃない。能力なんて、ちっぽけなものに思えた。
車窓に映る景色は次第に緑の量が増え、田舎の風景に変わってきていた。少し腹が減った。兄貴に会うのがもっと楽しみになった。それと同時に、少し申し訳なさも感じた。
僕は、兄貴が辛い時に一緒にいてあげられなかった。兄貴がヒーローになることに挫折して実家に帰ってから、僕は一度も実家に帰らなかった。今回兄貴に「会いたい」と言われるまで、それも母から言われるまで、僕は兄貴のことを顧みようともしなかった。それは、自分も忙しかったとか、能力を活かしてヒーローとして活躍する兄貴が眩しくて見ていられなかったとか、いろんな言い訳があるけど、そのどれも、兄貴に直接言えるような言い訳じゃなかった。兄貴は、怒っていないだろうか。今回、それでも「会いたい」と言ってくれたことに、僕は戸惑いながらも嬉しさを感じていた。僕はもう、かつてほど能力に嫉妬を感じることは無くなっていた。能力のない自分を受け入れる準備はできていた。能力を持った兄貴と、もう一度まっすぐ話せたら、あの頃に戻れたら、きっと僕は前に進めるはずだ。
新幹線が停車した。僕は荷物を手に持ち、新幹線を降りた。懐かしいホームだった。僕が田舎を出たのが高校生になった時。あの時もこのホームから出発したんだ。電車を乗り換えて、あと実家まで数駅。懐かしい気持ちが大きくなってきた。この電車もよく乗ったな。
午後二時、僕は電車を降りて駅を出て、僕は家族を探した。母からのメッセージで、「みんなで車で迎えに行くから待ってて」ときていたからだ。みんな元気かな。家族を探していると、長髪の女の人に声をかけられた。
「鏡太。」
「え?」
知らない人だ。綺麗な女の人だけど、そんなことより第一印象は、おっぱいが大きい。すごいスタイルの女の人を前に、僕は挙動不審になった。
「きょーた。」
「あのーどちら様でしょうか。」
僕が怪訝そうな顔をすると、その人はぷっと吹き出した。
「そっか、お前知らねーのか。」
僕より少し背の小さいその人は、笑顔で言った。
「俺だよ、颯太だよ。」
え、え、え。
「兄貴!?」
「まさかあんたそんなことまで知らないとはねえ。」
車に乗ると、母ちゃんが呆れたように言った。
「言われてないんだから知るわけないだろ。」
「言ってなかったかしらね。」
言ってたら忘れるわけないだろ。兄貴が女の子になったなんて。
「こいつ俺見て最初に胸見てたぜ。」
兄貴は笑いながら言った。
「見るだろ。」
「何開き直ってんだよ。」
まさか兄貴とは思わなかったけど。
「これ、いつから?」
「帰ってきた時にはこうだったわね。」
「ああ、女になってから仕事休んだからな。」
「あの頃は髪も短くて女の子って感じじゃなかったけどねえ。今じゃもうすっかり女の子だけど。」
「適応ってやつだ。」
僕たち三人の会話をよそに、父は無言で運転している。うるさい母ちゃんと結婚してから、さらに寡黙になったらしい。
「兄貴結構元気なんだな。」
「五年も経てば少しは元気にもなるだろ。」
「家に帰ってきた時は酷かったんだから。」
「あの時は死んでたな。」
「もうほんと部屋から出てこないし困ってたんだから。」
「今でもまだ本調子じゃないけどな。」
「でも元気そうだよ。」
「鏡太が来るっていうからよ。」
「待ってたぜ。」
僕らを乗せた車は田舎道を走っていった。
実家に着くと、僕らはダイニングテーブルに集まった。
「鏡太、ご飯は?」
「昼は食べてない。」
「残りでよかったらあるけど。」
「ちょうだい。」
母ちゃんがご飯をよそってくれる間、僕は兄貴に質問した。
「いつそうなったの。」
「んー、この家に帰ったのが五年前?だからそのちょっと前だな。」
「ある日突然?」
「そうだ。朝起きたらこうなってた。」
「医者には行ったの?」
「そりゃな。でもこんなの見たことないって言われて日本で一番でけー病院に回されたぜ。」
「そうだよな。それで、なんて言われたの。」
「能力。」
「能力?」
「変異型の能力の発現だろうってさ。昔あっただろ、人間が化け物になったって事件。なんか高校生ヒーローだとかがすぐ鎮圧したやつ。あの類じゃないかって話だった。あいつは運悪く化け物になった。俺は運が良くて女になった。」
あの事件。懐かしい気持ちと、忘れようとしていた気持ちが蘇ってきた。そうか、兄貴も化け物になっていたかもしれなかったのか。
「乳の化け物になったけどな。ハハ。」
「ほんと胸でかいよな。」
「後で揉ませてやろうか?」
「やめとくよ。」
兄貴は笑いながら胸を寄せる仕草をした。僕は本能的にそれを覗き込みそうになって、すぐに目を逸らした。
「どーてーかよ。」
「いただきます。」
僕は無視した。お味噌汁を飲みながら、僕はまた質問をした。
「それで、ヒーローを休んでるの?」
「んー、まあ直接的な原因は女になったことかな。」
「母ちゃんからヒーローに挫折した、みたいなことは聞いてたんだけど。」
「あー、そうだな。俺は日本一のヒーローになることを夢見てこの家を飛び出した。当たり前だが、ヒーローにはいっぱい能力者がいた。田舎じゃ能力者だってだけでチヤホヤされたけど、そんな世界じゃない。」
「そうだね。」
「俺は怪力の能力者だった。でも、怪力の能力者はたくさんいたんだ。能力を持っているのに、能力以外の部分で勝負しないといけない。そういう場所だった。」
「うん。」
「俺は、端的に言って馬鹿だった。おつむが足りなかった。数字にも弱かったし、知識も足りなかった。俺の仕事は次第に災害現場に出ることばかりになった。いいか、確かに現場に出てるやつはヒーローっぽい。みんながニュースとかでよく見るのはそういうヒーロー像だ。俺もそう思ってたから仕事には一生懸命取り組んだ。」
「うん。」
逆に現場に出させてもらえないのが僕だ。何の能力もないし、現場を統率するほどの力もないから事務仕事ばかりしている。
「だがな、俺はある日聞いてしまったんだ。俺は、どうやら『出世コース』というものから外れたらしい、とな。」
「うん。」
「目の前が真っ暗になったよ。俺の日本一のヒーローになるという夢は閉ざされてしまったのかと思った。このまま働き続けても、怪力の力を生かして災害現場で働き続けるのがせいぜいで、歳をとって怪力が使えなくなったら俺は若い別の怪力の能力者に取って代わられる。その時に災害現場での経験を活かして上のポジションに就けるかどうか。その程度のキャリアになるんだ。」
「うん。」
「日本一のヒーローには、なれない。」
僕は兄貴の気持ちを想像した。日本一のヒーローになれないかもしれない。いやきっとなれない。それがわかっていながら何十年も働くのは、苦しいはずだった。いつだってそうだ。あんなに輝いていた夢が、自分をここまで連れてきてくれた夢が、自分を苦しめる。
「そんな時に俺は女になった。」
「うん。」
「お前、知ってるか?女の怪力の能力者って、単純に能力者として見れば、男の怪力の下位互換なんだぜ。」
そっかあ。世界がどれだけ男女平等を叫んでも、身体的な特徴という性の違いは必ず存在する。女性としては怪力でも、男性には劣ってしまう。それは社会に蔓延る能力のグロテスクな部分に思えた。
「まあ、女になるってのは世界的に見ても珍しい能力の発現ってことで、俺は仕事を休んで様子を見るように言われたんだ。」
「うん。」
「今では国から補助金もらいながら実家でのんびりさ。」
「そっかあ。」
兄貴の人生も大変なんだなと思った。僕が知らない間に兄貴も苦労してきたんだなと思った。僕はこんなことも知らなかったんだ。
「ごちそうさまでした。」
僕らは各自自分の部屋に戻った。兄貴は疲れたから寝ると言っていた。僕は、久しぶりに自分の部屋の掃除でもするかと思った。自分の部屋に行くと、少し埃っぽいながらも僕の記憶通りの部屋が僕を待ってくれていた。ベッドにはちゃんと綺麗に布団が敷かれていて、母ちゃんが準備してくれたんだろうなと思った。僕は勉強机に座ってみた。椅子が小さい。僕はここでの日々を思い出した。兄貴とキャッチボールをしたグローブも棚にしまってある。兄貴の球は早かったな。兄貴が能力者だとわかってからは、野球もやめちゃったからずっとそのままにしてある。兄貴と能力は切っても切れないものだと思っていた。兄貴があんなに輝いて見えるのは、きっと能力者だからだと思っていた。そうじゃない。兄貴は兄貴らしさで輝いていた。引き出しを開けると、僕と兄貴の写真があった。兄貴は僕より背が高かった。その大きな背中をずっと追いかけてきた。途中で嫌になって家を出たけど、それでも僕の中には兄貴の背中が輝いて見えていた。兄貴は、あの小さくなった背中はもう一度僕を導いてくれるのだろうか。いや、きっとそんなことはないだろう。兄貴は自分の道を探すので精一杯のはずだ。僕も、自分で自分の道を見つけなくてはいけない。
うまくいかないのを能力のせいにして、自分らしい道を探すのをサボるのは、もうやめる。
スマホを見るとメッセージが届いていた。学習机に肘を置き内容を確認する。後輩からだった。
「別に急用とかじゃないんですけど、久しぶりの実家はどうですか?」
「兄貴が女になってた。」
僕はそれだけ打って、自分でふっと笑った。こんなおかしなことを受け入れている自分がいる。世界って不思議なものだ。
「えええ。そんなことあるんですね。」
すぐ返信が来た。
「仕事しなさい。」
「先輩のいない仕事はちょっとつまんないです。」
それから僕は実家での時間をゆっくりと過ごし、兄貴のおっぱいをちょっと揉ませてもらい、家に帰ることになった。駅までみんなに送ってもらい、別れの挨拶をした。
「またいつでも帰ってくるのよ。」
「うん。」
「どうせ十年後とかになるわね。お母さんたちもいつまで生きてるかわかんないのよ。」
「また来るよ。」
「俺のおっぱい揉みに来るもんな。」
「兄貴はいつまで実家にいるの。」
「ホルモンバランスが落ち着いたらまたヒーローになる。」
「そっか、今のままじゃ体調崩してばっかだもんな。」
「お前もいいヒーローになれよ。」
「兄貴もな。」
「鏡太。颯太。」
無口な父が珍しく口を開いた。
「兄弟助け合って生きていきなさい。」
「はーい。」
僕らは最後にハイタッチをした。
「じゃあね。」
手を振って僕は改札を通った。明日から、また仕事だ。




