第三章 冷たい息子
僕がどんなに悩んでいようが、月日というのは皆に平等に流れる。また月曜が来て、僕は職場へ向かった。その日は朝から雨で、僕は傘を持って最寄駅へと向かった。そういえばあの日もこんな雨だったなと、思い出した。新野さんに初めて会った日、あの日も、こんな雨だった。新野さんは、なんて言ってたんだっけ。放課後の公園で彼女に会うなと言われたことだけは、鮮明に覚えているけれど、他に何を言っていたかはあまり覚えていない。ああ、そういえば、講演会があったんだっけ。能力のある人間の心得とか喋ってた気がする。
「正しく生きろ。」
急に、新野さんの声が僕の頭に流れた。そうだ。そんなことを言っていた。正しく、正しくか。どうやったら正しく生きられるんだろう。それだけでも新野さんに聞いてみたいような気がした。僕は電車を待った。
会社に着くと、後輩が駆け寄ってきた。
「一昨日はご馳走様でした。」
「楽しかったよ。また行こう。」
どの口で。
「はい!また行きたい場所ピックアップしておきますね。」
「ありがと。」
僕は自分の席に着いた。ああ、だめだ。後輩のことをちゃんと見ていられなかった。寝ても覚めても「彼女」のことばかり。新野さんが来てからずっとそうだ。厄介なものを連れてきたな。
それからの一週間、僕はずっと上の空だった。何をするにも彼女と新野さんのことが頭をめぐり、「お前が殺したんだ」という声がこだまして聞こえた。仕事でも小さなミスを繰り返し、後輩にも心配されてしまった。自分らしくない。そう思いながら、自分らしさってなんだろう、なんて変な考え事まで始めてしまう。僕は、彼女を殺したいのだろうか。
上司に申請した有給は無事に通った。母にそのことを連絡すると、「あんたのことだから帰ってくるのも半年後じゃないかって心配だった」などと言われた。心外だ。まあ確かにもう何年も帰っていないけど、それでもあの場所は僕の実家だ。帰る時は帰る。
木曜、仕事帰りに僕は新幹線の切符を取りに普段とは違う駅に向かった。職場の最寄駅、いつもと同じ駅、いつもとは違うホームで僕は電車を待った。
「あれ、先輩?」
後輩が声をかけてきた。
「家こっちじゃないですよね?」
「うん。」
後輩はパタパタと走って近寄ってきた。
「明日の新幹線の切符を取りに行くんだ。」
後輩は頭の上にハテナを浮かべた。わかりやすい。
「明日どっか行かれるんですか?」
「うん、有給を取って帰省するんだ。」
「へー、そうなんですね。」
電車が来るまであと少し。駅のホームにはまばらに人がいた。
「こんなこと聞いていいのかな、あの、ご家族に何かあったとかですか?」
「いや、そんな大きなことじゃないよ。母親から『帰ってこい』って言われたんだ。」
「そうなんですね。よかった。ご家族とは仲良いんですか?」
難しい質問だと思った。
「んー、悪くはないと思ってる。」
「悪そう。」
僕は笑った。
「なんでだよ。」
「だって先輩から家族の話とか聞いたことないですもん。」
「まあ確かに話したことないかもな。」
「そうだ、これも話したくてリストにまとめてたんですよ。」
電車が来た。帰りの電車にはたくさんの人が乗っていて、僕たちは鞄を胸の前に抱えて乗り込んだ。
「人多いね。」
「そうですね。」
「それで、何を聞きたかったの。」
「んー、えっと、順番に話しますね。」
後輩は視線を上の方にやって考えていた。
「あの、私先輩の夢を見たんですよ。」
「へえ。」
「いつだっけ、そこそこ前の話なんですけど、今でもはっきり覚えてる夢があって。先輩がビルの屋上で女の子を助けるって夢なんですよ。どこかはわからないんですけど、ビルの屋上に女の子がいて、その女の子が飛び降りようとするんですけど、そこに先輩が現れてカッコよく止めるって夢なんです。」
「変な夢だな。」
「そうですか?あまりに鮮明だったんで、本当にあったことなんじゃないかって思ってたんですよ。」
「んー、心当たりないな。」
「ないですか?飛び降りる女の子を止めたこと。」
飛び降りる女の子か。止めたことは、ないか。
「ないな。」
「そうですか。それで私色々調べたんですよ。飛び降りの夢って、過去との決別とかを意味するらしくて、だから先輩に何か忘れたい過去とかあるんじゃないかなって思ってたんですよ。」
「んー、なるほど?」
「忘れたい過去とかありますか?」
ある。あるけど、ない。言えない。
「夢占いみたいなのってさ、普通自分のことを占うんじゃない?」
後輩は頭の上にハテナを浮かべた。僕にも見えるでっかいハテナ。特別な能力なんてなくても見える。
「夢っていうのはさ、その夢を見た本人の内面を映すことはあっても、他人の内面を映すことはないんじゃない?」
「あー、確かに。」
後輩はもう少し考えていた。
「そうかもしれないですね。私の考えすぎだったかもです。」
後輩は握っていた吊り革を左手に持ち替えながら言った。
「家族の話とはどう繋がるんだ?」
僕は思ったことを素直に質問してみた。電車に乗る前は家族の話をしていたはずだった。
「あーえっと、先輩の決別したい過去ってなんだろうとか考えてたんですよ。」
「うん。」
「もしかしたらご家族のことなのかなって邪推しちゃってました。」
「なるほど。」
家族のことは、別に忘れたくない。兄貴も、両親も、好きだ。
「よく帰省されるんですか?」
「いや、あんまりしない。」
「いつぶりですか?」
「もう七年とかになるかな。」
「えー!」
後輩は大きな声を出した後、電車の中だと気付いたのか口元を抑えた。
「そんなに帰ってないんですか。」
「うん。そうだね。」
「それは家族と仲悪いですよ。」
「悪いのかなあ。」
「冷たい息子ですね。」
「それ母ちゃんにも言われたよ。」
僕はハハと自虐的に笑った。おじさんみたいな笑い方だなと思った。
「今回はなんで帰ってこいと指令があったんですか?」
「兄貴が会いたがってるって。」
「お兄さんがいらっしゃるんですね。」
そこからか。確かに後輩には何も喋っていなかった。
「そう、兄貴もヒーローなんだよ。」
「兄弟揃ってヒーローってなんかいいですね。」
「そうだな。まあでも今は兄貴は休んでるけど。」
「そうなんですか、ご実家にいらっしゃるんですか?」
「うん。兄貴は実家にいるよ。会いにいくんだ。」
「いいですね、七年ぶりの再会楽しんできてください。」
話しにくい話題をうまく避けながら適度に踏み込んできてくれる、こういう人のことをコミュ力があると言うんだろうなと、僕は考えたりした。
「じゃ、私はここで。」
電車が駅に着いた。後輩は右手をビシッとわざとらしく上げて「それでは」と言った。僕も片手を挙げて返事をした。人混みに溶けていくように、後輩はいなくなった。
僕はふうっと一息ついた。あと一駅、僕はこの大都会を巡る大動脈に乗っていく。明日帰る田舎はきっと呼吸がしやすいだろうなと、僕は思った。僕は毛細血管行きのチケットを取りに行った。




