第三章 憧れのヒーロー
僕は後輩との約束の時間ぴったりに向かった。待ち合わせしていた場所には後輩が立っていて、僕を見つけると笑顔で駆け寄ってきた。
「おはよう。」
「おはよーございます。せっかくの休みに呼び出しちゃってすみません。」
「いや、それは別にいいよ。」
「そーですか、なんだか顔がお疲れだったので。」
「それは別件だ。今朝来客があってな。」
「あら、急がせちゃいました?」
「いや、すぐに追い出したから関係ないよ。」
彼女はふふっと笑った。よく気の付くいい子だなと思った。
「そんなに私に会いたかったんですか〜?」
彼女はニヤニヤして僕を見た。揶揄われてるな、と思った。僕はその仕返しをしようと思って、真顔で彼女の目を見て、真っ直ぐに言った。
「うん。とってもね。」
彼女は顔を赤くして黙ってしまった。先輩を揶揄おうなんて十年早い。
僕たちは会話を楽しみながら、彼女が決めていたお店へ向かった。
「ここのパスタ本当に美味しいんですよ〜。」
「へえ、楽しみだな。」
「後悔はさせませんよ。」
彼女はにこっと笑った。それは健康的で魅力的な笑みだった。僕はその笑みに、かつてのあのヒーローの姿を重ねた。そしてすぐに、そんな自分が嫌になった。前に進むと決めたのに。
「よく来るの?」
「はい、よく一人で来てるんですよ。」
「へえ、何食べるの。」
「ペペロンチーノなんですけど、今日はちょっとやめときますね。口臭いって思われたくないんで。」
「そっか。じゃあいつかペペロンチーノ食べに来よう。」
そう言うと、彼女は黙ってしまった。僕たちはそのままお店に入った。店内は落ち着いた雰囲気の小洒落た洋食屋という感じで、僕はすごく好きだった。
「雰囲気いいね。」
「ですよね!」
「うん、好きだ。」
僕たちはそれぞれの注文をした。会話はそれなりに盛り上がった。好きな音楽の話が一番盛り上がった。よく聞くアーティストがたまたま一緒で、好きな曲を言い合って楽しんだ。
「ハヤブサとか良くないですか?」
「あーわかる。いいよね。」
「うんうん。周りにわかってくれる人あんまりいないんでめっちゃ嬉しいです。」
「あーほんと?僕たまにライブとか行くよ。」
「え、本当ですか?私ライブ行ったことなくて、でも行きたいって思ってたんですよ。」
「じゃあ今度行く?」
「いいんですか?え、行きます行きます。」
「じゃあ決まりね。チケット取れたらだけど。」
「やったあ。ありがとうございます。」
楽しい会話、楽しいデート。それなのに、なぜか僕の心は晴れなかった。新野さんの話が僕の心にチラついた。
「私、先輩と話したいこといっぱいあるんですけど、こうやって対面すると緊張しちゃって何話していいかわかんなくなっちゃうんですよ。」
「時間はいっぱいあるんだし、ゆっくりでいいよ。」
「ありがとーございます。えへ、先輩優しいですね。」
「どういたしまして。」
「それで、こういう時のために昨日、先輩と話したいことをリストにまとめてきたんですよ。」
「へえ、真面目だね。なんでも話すよ。」
「じゃあ行きますね、ちょっと面接みたいな質問ですけど、先輩はどうしてヒーローになったんですか?」
にこっと笑って尋ねる後輩、その笑顔は可愛かった。話も盛り上がっている。順調そのもの。
「うーん、どうしてだったかな。」
「憧れのヒーローがいたとか?」
「そうだね、憧れのヒーローがいたんだ。」
僕の心は、かつて憧れた、あのヒーローのことでいっぱいだった。
後輩とのデートは夕方に終わった。僕は家に帰りながら考えた。僕はなぜ、あれから十年が経とうとしている今でさえ、彼女のことを思い出してしまうのだろう。思い出すだけならまだいい。今目の前にいる女性にさえ、その姿を重ねてしまう。それがどんなに失礼なことかは、理解しているはずだった。自分で自分が理解できない。あの事件以降、彼女のことを思い出すのはやめると、そう決めたはずだったのに。僕は未だにあの夏に囚われているのだろうか。あの、人生で一番眩しかった夏に。
それからは、僕の頭の中にはずっと彼女と新野さんのことが巡った。僕は、どうすべきなのだろうか。もしこのまま彼女が死んだら、僕はどう思うのだろう。僕は彼女に死んでほしくないのだろうか。それすらもわからなくなって、ずっと、ずっと悩んでいた。新野さんに連絡を取ってみるべきだろうか。いや、でも僕は。数年前に起きたあの事件から前に進むと決めたんだ。新野さんには、連絡しない。僕には、関係のない話だ。
家に帰ると、洗っていなかった食器が僕を待ってくれていた。僕は少し休憩をしてから家事を済ませることにした。ソファーに座り、テレビをつけた。なるべく何の内容もないものが見たかった。僕は新野さんの言葉を未だに反芻していた。
「お前が殺したんだ。」
その言葉が僕の胸を刺していた。その時、スマホが鳴った。電話だった。僕は電話に出た。
「もしもし。」
「もしもし、鏡太?」
相手は、母親だった。
「何、どうかした?」
「何って何よ電話の一つもよこさずに。久しぶりくらい言いなさいよ。」
「久しぶり。」
「はあ。あんたはいつもそうね、冷たい息子だわ。」
「用件は?」
「息子にこうも冷たくされると電話をかけた甲斐もないわね。」
「用件は?」
「はあ。あんた少しくらい私の話も聞きなさいよ。」
「だから聞くって。なんで電話かけてきたの。」
母は「はあ」とため息をついて話し出した。
「あんた、近いうちに一回家に帰ってこない?」
「なんで。」
「颯太が会いたがってるわ。」
兄貴か。
「なんで。」
「色々あったのよ。」
「そうか。」
兄貴。僕の憧れたもう一人のヒーロー。僕にヒーローを目指すきっかけをくれた人。兄貴が、僕に会いたがっている。それならば。
「わかったよ。近いうちに帰る。休みを調整するからまた連絡する。」
「早く連絡するのよ。こっちだって暇じゃないんだから。」
「わかってる。」
「第一ね、私が言い出さなきゃ何年も帰ってこないってどういうことよ。育ててもらった恩とかないわけ?」
「じゃあまた連絡する。」
「ちょっと切らないでよ。少しくらい話させなさいよ。何年振りの会話だと思ってるの。」
「二年くらい?」
「『二年くらい?』じゃないわよ。何の連絡もせずにどういうつもりなの。あんた元気でやってるの。」
「うん、元気だよ。」
「そう。ご飯は食べてる?」
「食べてるよ。」
「そう。それならいいんだけど。『お母さんは?』くらい言いなさいよ。私のことはどうでもいいわけ?」
「お母さんは?」
「お母さんも元気よ。お父さんも元気だわ。」
「よかった。」
「お父さんったら最近イビキがうるさくて大変なのよ。」
「そっか。」
「睡眠時無呼吸症候群っていうの?あれじゃないかって怖くて病院行きなさいっていうんだけど聞かないのよ。」
「うんうん。」
母の話は長い。僕はどうして母に連絡しなくなったかを思い出した。母の話はしばらく続いた。僕は適当に相槌を打っておいた。話がどれだけ長引こうが、後の予定もない。
「兄貴は元気?」
僕は気になっていたことを聞いた。
「颯太ね、うーん、一時期を思えば元気になった方だと思うわ。」
「そっか、最近何してる?」
「颯太?」
「うん。」
「颯太は、うーんそうね、あ、最近なんか小説を書いてるらしいわ。」
「へー、兄貴が小説か。」
「病院の先生の勧めで日記書いてたらしいの。それが最近少し元気になってきたから小説に取り組んでるらしいわ。」
「へー、いいじゃん。一緒に飯食ってる?」
「時々ね。普段は夜中に起きてきて食べてるらしいわ。」
「そっか。」
「あんた何も知らないのね。」
「そうだね。」
少し胸が痛んだ。
「帰ってきたらゆっくり話しなさい。」
「うん。そうする。」
「そういえば、あんたもういい歳じゃない。結婚とか考えてるの?」
「考えてない。」
「そんなのでどうするの。しっかりしなさいよ。」
「あーはいはい。」
「『あーはいはい』じゃないわよ。」
また母のターンだ。僕は長くなることを覚悟した。実際、母のターンは長かった。僕の適当な相槌に向かってずっと喋っていた。電話代がかかるなあ。もういいかな。僕はそう思って電話を終わらせにかかった。
「じゃあまた帰る日程決まったら電話するよ。」
「何よもう電話切ろうとしてるの?」
「そうだよ。もう三十分は話してるよ。」
「あんた二年振りなんだからそのくらい話させなさいよ。」
「電話代すごくなるよ。」
「それもそうね。また電話ちょうだい。」
「うん。」
「本当はこまめに連絡して欲しいけど、まああんたに言っても無理な話よね。」
「そうだね。」
「じゃあまた連絡するのよ。」
「うん。じゃあね。」
「はいはい。」
長かった。僕は電話を切って一息ついた。母の話はびっくりするほど長い。僕は二年振りにその会話を浴びて懐かしい気持ち半分、鬱陶しい気持ち半分になった。高校で家を出てから家を出てからもう十年近くなる。母との会話はこの頻度で十分だと思った。冷たい奴だと、誰かがそう言うだろうか。まあいい、これが僕たちの家族の形だ。誰に言われる筋合いもない。
僕はいつ実家に帰ろうかと脳内で予定を組み始めた。実家は田舎にあって、帰るのには数時間かかる。日帰りも可能なのかもしれないけど、考えたくなかった。もう少し実家にいたい。兄貴に、会いたい。来週の金曜に有給を取って、三連休を作って帰ろうか。そんな考えが浮かんだ。幸い、来週の土日に予定は入っていない。月曜日に職場に行って有給を申請して、それから母には知らせよう。
それからは、僕がかつて憧れた二人のヒーローの後ろ姿が僕の頭の中でぐるぐると回った。兄貴はもう何年もの間、実家に帰って静かに暮らしている。日本一のヒーローになるんだと息巻いていた、あの眩しい兄貴の背中を、僕はもう一度見たいと思った。そしたら、僕ももう一度輝けるような気がした。




