第三章 正しい道
この涙の温度は知っている。
夏に涙を流すと、自分の涙が生暖かくて気持ち悪い。頬を伝うその温度は多少エアコンで冷やされていて、通った跡が少しひんやりとした。口に入った涙は、ただ塩っぽい味だけを届けた。いや、少し苦かった。
「え、もしかして泣いてます?」
隣の彼女が笑った。
「え、うそ、僕泣いてる?」
ちょっとおどけてみた。
「んー?」
彼女は笑ったまま僕の顔をまじまじと見た。
「よく見えないんでちゃんとこっち見てください。」
僕は左隣に座る彼女の方を見た。彼女は僕の目を覗き込んだ。綺麗な目だった。
「泣いてますね。」
彼女はプッと吹き出した。
「こんなので泣いてるんですか?涙腺緩すぎますって。」
彼女は僕の腕を軽く叩きながら笑った。自宅のソファー、夜の十一時、二人きり。暗い部屋で僕らは映画を見ていた。
「おじさん過ぎますよ。」
そうかもしれない。僕は確かに泣いていた。でも、こんなつまらない映画を見て泣いていたわけではないことを、僕は言っておきたい。僕は、もっと大事なことで泣いていた。
「いやほんとに、泣くとこありました?」
彼女はケタケタと笑っていた。お腹を抱えて、僕の肩に体重を預けながら涙を拭った。
「あーあ、私まで涙出てきちゃった。」
「笑いすぎ。」
「だって面白かったんですもん。」
「映画はつまんなかったけどな。」
「うん。つまんなかった。」
「だな。」
僕は少し笑った。彼女は僕の肩に両手を添えて体重を預けたまま、ゆっくりと座り直し、僕の肩に頭を載せた。
「ねえ、先輩。」
「なんだ。」
僕はテレビの画面を見たまま答えた。
「私、ほんとにこの映画を最後まで見るって思いませんでした。」
僕は黙った。
「ふふ、先輩って奥手なんですか?」
彼女の右手はいつの間にか肩を離れ、僕の腰に添えられていた。
「そうかもな。」
僕は肩に乗せられた彼女の頭を撫でた。彼女は頭を持ち上げた。僕は彼女の方を見てその首に手を回した。至近距離で目が合う。彼女は額を合わせた。彼女の目に、唇に、視線が吸い寄せられる。彼女は唇だけを動かして微かにこう囁いた。
「うそつき。」
「働き過ぎですよ。」
僕は後輩に声をかけられて我に帰った。物思いに耽っていたようだ。断じて働いていたわけではない。
「ちょっと昔を思い出してたんだ」
「そーですか。心配して損しました。」
「心配して得したことないだろ。」
「ふふ、確かに。ちなみに、何を思い出してたんですか?」
「大したことじゃないよ。」
「そーですか。」
僕はうん、と微笑んでみた。彼女は、それ以上の追求をするつもりはなさそうだった。
「世間ではヒーローヒーローって言いますけど、実際はこんな事務作業ばっかりで嫌になっちゃいますね。」
「まあね。でも現場に出てる人だけがヒーローじゃないって大人っぽい事実だよな。」
「そうですね。」
結局ヒーローになっても、僕が実際の現場に出ることはなかった。
「そういえばなんですけど、今度の土曜って空いてます?」
「んーと、うん、空いてるよ。」
「じゃあ、ご飯でも食べに行きませんか?」
デートの誘いか。僕は一瞬、答えを迷った。
「いいよ。」
「じゃあまた詳しい日程は後で連絡しますね。」
「うん。」
彼女は跳ねるようにして自分の机に戻っていった。僕は時計を見て、そろそろ帰ることにした。家でもできる仕事が少しだけ残っていた。
会社から家に帰ると、もう十年は住んでいる誰もいない部屋が僕を迎えてくれた。
「ただいま。」
僕は一人ポツリと声を出した。今日の晩飯もスーパーの弁当だ。今日も頑張ったんだけどな。ヒーロー協会に入ってからもう五年くらい同じ生活をしている。そこそこの大学からそこそこのヒーローになった僕には、そこそこの人生しか用意されていない。
「当たり前か。」
僕の独り言は宙に浮かんで消えた。僕はテレビをつけた。
「今日のゲストは、無敵のヒーローのこの方です!」
僕はそれだけ聞くとすぐにテレビを消した。その言葉は聞きたくない。久しぶりに聞いた言葉だった。無敵のヒーロー。僕は無音のままご飯を食べ、残っていた仕事を終わらせ、シャワーを浴びて、やっと眠りについた。
久しぶりに、不思議な夢を見た。真っ白な世界に、雫が浮かんでいる。いわゆる雫型と言うのだろうか、その雫は上側が尖っていて下側が膨らんでいる、特有の形をしていた。その形からただ浮いているのではなく落ちている途中なのだと分かった。その雫が、ずっと僕と同じ目線にあった。僕も雫と同じ速度で落ちていっているのだと、僕は夢の中で理解した。自分自身の姿を見ることはできない。ただ、落ちていく。雫が形を変えたと思った瞬間、僕も地面にぶつかった。
「ってぇ。」
僕は右手の痛みとともに目を覚ました。どうやら寝ている間に無意識にベッド脇の壁を殴っていたようだった。時計を見ると朝の五時半で、隣の部屋の人に申し訳なく思った。僕は上体を起こして右手の甲をさすった。見ていたのは、もう随分前に忘れていたはずの夢だった。昨日いろんなことを思い出してしまったのが原因だろう。僕はベッドから立ち上がってキッチンに行き、コップ一杯の水を飲んで煙草に火をつけた。ああ、今日も仕事だ。
早起きしてしまったから、仕事に行く前に外を少し散歩することにした。僕は公園まで歩いた。その公園には、はるか昔に彼女と座ったベンチがあった。僕はそのベンチに腰掛けた。
「懐いな。」
僕はボソっと呟いて座り直した。僕は、正しいことをしただろうか。昔を思い出すとそんな問いが僕の中に生まれた。きっと、正しくはなかった。けれど、当時の僕にできる精一杯だった。そう思わないと、僕の毎日はすぐにでも瓦解してしまう気がした。あれから、いろんなことがあった。いろんな人と出会い、別れ、そして僕は前に進むことを選んだ。僕は、ちゃんと前に進めているだろうか。過去に囚われてはいないだろうか。彼女が正式にヒーローになってから数年後のあの事件を、僕は思い出した。少し嫌な気持ちになって、僕は頭を振った。いいんだ。また、前に進もう。僕は立ち上がって家に帰った。パンを腹に入れて、それから会社に出た。僕は、正しい道を選んだんだ。
それから数日が経って土曜になった。後輩とランチの約束をしていた僕は、ベッドに寝たままアラームを止めてあくびをした。僕は左手で涙を拭い、上体を起こして時計を見た。八時だ。よし、起きるか。
とりあえず僕はシャワーを浴びた。それからパンを腹に入れて歯磨きをして、髭を剃った。うん、いつも通りの朝。それでも職場に行かなくてもいいというのは素晴らしいことだ。僕は家を出るまでもう少しの時間を満喫することにした。煙草に火をつけ、換気扇の側でゆっくりと煙を吸った。このゆったりと流れる時間が好きだ。するとその時、玄関のチャイムが鳴った。僕はインターホンに出た。
「久しぶりだな、ボウズ。」
遥か昔に聞いたことのある低い声だった。僕は一応名前を聞いた。
「どちら様でしょうか。」
「ああ、すまない。」
男は素直に謝った。それから、こう告げた。
「ヒーローだ。」
僕は急に家を訪れた瞬間移動のヒーローを家に上げた。急用があるとのことだった。
「それで、急用というのは…?」
「何から話したもんか。えっとだな、その、うーん。」
向こうから来たくせに歯切れの悪い男に、僕は少し苛立った。それから、男は少し踏ん切りをつけたように話し始めた。
「その、言いにくいんだが、」
男は僕の目を見た。僕も、男の目を見た。
「無敵を、止めてくれ。」
「どういうことですか?」
僕は男に聞いた。男は説明を始めた。
「ヒーローの歴史について知ってるか。」
「ええ、少しは。」
「世界で初めてヒーロー協会が生まれたのはどこの国だ?」
「日本です。」
「正解だ。」
男は頷いた。
「特殊能力を持つ人間が現れるようになってから、アメリカなど他の国は軍の特殊部隊として彼らを囲い始めた。しかし日本では人間を兵器として扱う態度に国民から疑問が出て、国は軍とは別の組織としてヒーロー協会を作ったんだ。」
「そうですね。」
「ちなみにその時、多様性の波に飲まれてヒーローとヒロインの区別は正式になくなった。そして武力行使に当たらない全ての能力を使うことが許されたヒーロー協会は急激に国内で力を持つようになり、それを良く思わない奴らも大勢いた。」
「なるほど。」
「ちょうどその時に少女の殺害事件が起きた。加害者は能力者だった。世論を味方にした奴らはヒーロー協会を抑えにかかった。結局裁判は最高裁までもつれ、能力者の日常的な能力の使用は一定程度までに限られることになった。それと同時にヒーロー協会が政治や経済に介入することも違法とされるようになったんだ。」
男は真剣な顔で続けた。僕も真剣な顔をしてみた。
「その頃海外でもヒーロー協会が作られるようになり、各国は日本を真似して制度を作った。そして国連でもヒーロー協会が作られたんだ。」
「今回の話とのつながりが見えないですけど。」
「まあ聞け。」
僕の「話が長い」という言外の文句は一蹴された。
「ヒーロー協会は今や巨大な組織だ。無敵は、そのアイコンになった。羨望や憎悪を一手に引き受ける存在になったんだ。お前もわかるだろ。」
「想像はつきます。」
「最近能力者の犯罪が増えてきている。それに対抗するため、無敵は以前にも増して活動している。このままでは危険だ。彼女を止めてくれ。」
「なぜ危険なんです?」
「話すと長くなる。とにかく、無敵に活動を自粛するように伝えてほしい。」
「今更僕に、沖野に説教しろと言うんですか。」
「頼む、お前のツレだろ。」
「お断りします。」
「僕に今更彼女に会えなんて言わないでください」
随分前に、無敵とは会うなと自分から言ったくせに。今更、もう遅い。僕は力ずくで男を追い出そうとした。男は僕に抵抗しながら言った。
「このままだと、無敵は死ぬ。それを見殺しにするのか。」
「僕には関係ない話だと言っているでしょう。」
「関係ないわけあるか。無敵はお前のツレだろう。」
「いいんです。それはもう過去の話です。」
男は僕に抵抗しながら、でも本気では抵抗をしなかった。きっと諦め半分でここを訪れたのだろうと、僕は理解した。ややあって、僕は男を玄関まで押し戻した。
「いいんだな。無敵は死ぬ。お前が殺したんだ。」
「そこまで言わなくてもいいじゃないですか。」
「そう思うなら俺の話を聞け。」
「結構です。」
「んー?」
男は僕の目を見た。
「なんでだ?」
男は心底わからないというような顔をした。
「なんで、無敵のことをそんなにも避けようとするんだ。」
僕はどう伝えようか悩んで、でも、本当のことを伝えるのはプライドが許さなかった。
「僕は、前に進むと決めたんです。」
僕は男の目を見た。
「邪魔を、しないでください。」
男はため息をついて、それから力なくポケットに手を突っ込んだ。
「わかった。こういうのはどうだ。」
「なんですか。」
「俺と連絡先だけ交換しろ。連絡するもしないもお前の自由だ。俺から連絡することはないと誓う。どうだ。」
「それであなたが帰ってくれるのなら、構いません。」
「そうか、そうか。」
男はポケットからスマホを取り出した。僕もスマホを取り出し、連絡先を交換した。
「新野さん。」
「そうだ。俺のことはそう呼べ。まあ、呼ぶ機会があれば、だがな。」
新野さんは大人しく靴を履いた。僕はそれを見守った。玄関のドアを開け、新野さんが振り返った。
「じゃあな、ボウズ。お前が殺したんだ。」
「さようなら。」
ドアがバタンと閉まった。僕は一人になった。




