第9話 天は全てを見通し正しき者を救う 後編
最高責任者である老司祭、グレゴリウス14世は深くため息をつき、礼拝堂から奥の部屋に戻った。
そして奥の部屋でへたり込むように座っているハンナに穏やかな笑みを見せた。
「もう大丈夫ですよ、ハンナ。」
全てを包み込むような慈悲深きグレゴリウス14世に優しさに、ハンナは涙を拭いながら、これまでのいきさつを詳しく話し始めた。
シニストラがクレセント伯爵家を我が物としたこと、生まれたばかりの赤ん坊を「次の婚姻のコマ」として利用しようと企んでいること、そして、追っ手に終われ、母マーサが命がけで自分たちを逃がしてくれたこと。
話し終える頃には、赤ん坊が空腹からか、かすかにふにゃふにゃと泣き声を上げ始めた。
幸いにも、馬車を襲撃された際、ハンナは己の荷物をすべて捨ててでも、赤ん坊のための非常食――糖水を詰めた小さな水筒と、数枚のおしめだけを入れた手提げカバンだけは死守していた。サントゥスに辿り着くまでの間、それを少しずつ布に含ませて吸わせることで、なんとかこの小さな命を繋ぎとめてきたのだ。
だが、それもとうに底を突いている。ハンナはすぐさま手提げカバンからそれを取り出すと、残った僅かな糖水を赤子の口に含ませた。
それを見たグレゴリウス14世は、傍らに控える若い下級聖職者のニコラを振り返る。
「ニコラよ、直ちに街へ走りなさい。裏通りに住む、先月子供を産んだばかりの信心深い信者の夫婦がいる。事情を話し、この赤子に乳を与えてもらえるようお願いしてくるのだ。シニストラとガイは教会の外で目を光らせて付きまとっているはずだが、サンマルコの表通りで騒ぎは起こせまい」
「はい、グレゴリウス様! すぐに行ってまいります!」
ニコラは深く頷くと、教会の裏口から素早くサントゥスの中心地サンマルコの街にへと駆け出していった。
この『サンマルコ』という街の名は、かつてこの大商業都市の基礎を築き、歴史にその名を刻んだ偉大なる大商人、アルバート・サンマルコ(現ギルド本部評議会メンバーアルベルト・サンマルコの祖先)が興したことに由来する。
国王をも持たぬこの自由な商人の街が、長きにわたり独自の繁栄と絶対的な治安を保ち続けてこられたのは、サンマルコの名に懸けた誇りと、街を統べる厳格な掟があるからに他ならない。
いかに権力を笠に着る貴族であろうとも、この歴史あるサンマルコの表通りで大っぴらな暴力沙汰を起こすなど、到底許されるはずがなかった。それこそが、老司祭の冷徹な計算でもあった。
本来であれば、教会の者を付けてハンナたちを安全な場所まで送り届けてやりたいところだった。しかし、覇王の弾圧以来、落ちぶれていく一方のエルナス光教会にはそこまでの人手はなかった。
ハンナの目指す目的地がトレヴィス山の麓にある「クレミス村」だと聞いたグレゴリウス14世は、だからこそ、村の族長へ手紙を書き、向こうから迎えに来てもらうという選択をした。
教会という聖域に籠城し、クレミス村の迎えを待つのが最も確実で安全な策だったのだ。
司祭は古びた机に向かい、一枚の羊皮紙を広げてインクを走らせ始めた。
かつて村を統べ、ルベルコルスの力を金儲けの道具としてしか見ていなかった強欲な前族長・バルタザールは、数年前にすでにこの世を去っていた。
もしバルタザールが今も族長であったなら、金にもならない、ハンナたちの訴えなど知らん顔で突き放したに違いない。だが、この代替わりこそが、天の配剤であった。
現在のクレミス村の新族長は、アイラの長男、ラシードであった。まだ年が若いこともあり、母親であるアイラが補佐的な立場で裏から彼を支えている。アイラは何より一族の血の結束というものを大事にする人物だ。
グレゴリウス14世は、厳かにペンを走らせた。
『クレミス村の族長、ラシード殿、そしてアイラ殿へ。
かつての族長バルタザールの血を引きつつも、新しき村の未来を背負う御一同に、エルナスの灯火に導かれし命を託す。
ハンナと言う娘から話を聞き及ぶところによると、この子は前伯爵の令嬢だったルカ・クレセントの赤子である。そして父は……ヴォルフ殿の血をうけた赤子とのこと。
伯爵家を継いだ現在のクレセント伯爵がその子を不当な扱いをしており、更に尊厳を傷つけられる恐れあり。クレセント伯爵家から逃げてきたとのこと。
その新伯爵が連れ戻そうと手ぐすねを引いておる。どうか、そちらから密かに迎えの者出し、この者を保護していただけないだろうか――』
手紙を書き終え、美しい蝋で封をしたグレゴリウス14世は、ハンナを安心させるように言った。
「ニコラが戻り次第、この手紙をクレミス村のラシード殿へ届けさせます。迎えが来るまで、お主たちはこの聖域で安全に過ごすがよい」
外には、いつ牙を剥くか分からない、執念深く付きまとうシニストラとガイの影。
だが、中には、落ちぶれてなお智恵と慈愛で自分たちを護り、血脈の絆をクレミス村へと繋いでくれた老司祭グレゴリウス14世の頼もしさ。
クレミス村に着く前に、追っ手がかかったら
エルナス光教会を逃げ場所として選択するように示唆していた自分の母の先見の目にハンナは今更ながら感服していた。
それと同時に母があれからどうなったのか?
それを考えて震えた。
しかし、今は母の安否を気遣い、恐怖に駆られている場合ではない事も悟っていた。
「(しっかりしなければ…)」
今、自分ができる事は、お嬢様をクレミス村に送り届ける事だ。
ハンナは教会の片隅で、マーサの身を案じながらも、遥か緑の深き山の麓のクレミス村からやってくるであろう救いの手を、ただじっと待っていた。
身体中に広がる、焼け付くような激しい痛み。
シニストラたちの情け容赦ない暴力に晒され、あの東の王国の荒野で死を覚悟していたマーサだったが、天はまだ彼女の命を召されてはいなかった。
「つ…あっ」
小さく声を漏らしたマーサが、重い瞼を辛うじて開く。
その瞬間、部屋の扉を開けて入ってきた一人の若い女が、ベッドの上のマーサと目が合うなり息を呑んだ。女中は持っていた水差しを慌ててテーブルへ置くと、顔を輝かせる。
「よかった……! 目を覚まされたのですね。すぐに主へ報告をいたしますので、どうかそのまま動かないで!」
若い女が部屋を飛び出していってから、間もなくのことだった。
コツ、コツ、と静かだが威厳のある足音が近づき、部屋の扉が開かれる。現れたのは、上質な衣服を身にまとった、かなり歳の男であった。その鋭くも温厚な双眸が、ベッドのマーサを見つめる。
「気がついたかね。いや、その様子では、大丈夫も糞もないだろうが……」
「私は、あの……どうして、ここに……」
掠れた声で問いかけようとするマーサを、男は手で制した。
「うむ。あまり喋ると傷に障る。今は、ただ聞いているといい」
主の言葉に代わるように、先ほどの若い女が枕元でそっと微笑みながら、マーサに語りかけた。
「我が御主人様――ウォレス様が、荒野で血を流して倒れていた貴方を、馬車で通りかかった折に拾ってこられたんですよ」
「そうです、か……ありが、とう、ござい……」
マーサは感謝を伝えようと、無理にでも身体を起こそうとした。だが、指先一つにすら、まったく力が入らなかった。
「無理をするんじゃない」
ウォレスは、低く、だが有無を言わせぬ包容力に満ちた声で静かに諭した。
「とてもじゃないが、当分は身体を動かすことなど不可能な大怪我だ。しばらくはここで大人しく養生されるがいい」
「いえ, ですが……このような、見ず知らずの、私、などに……」
見返りを求めぬあまりの慈悲に、マーサが困惑と申し訳なさから瞳を揺らすと、ウォレスは、ふっと豪胆に笑ってみせた。
「なに、多少の『縁』というやつさ。ワシがあの荒野でお前さんを見つけて、拾い上げた。その時点で、お前さんとワシの間には切っても切れぬ縁ができたのだ。遠慮などする必要はない。まずは、その命を長らえさせることだけを考えなさい」
ウォレスの言葉は温かく、そして不思議なほどに絶対的な安心感に満ちていた。
「ハンナ…彼女の世話はお前に任せる。あとは頼んだ」
「はい…ウォレス様」
ハンナと呼ばれた若い女性は頭を下げた。
「(え…ハンナ?)」
ハンナ。それは自分の娘と同じ名前だった。
あまりにも偶然の一致に奇妙な感覚におちいったと同時に、マーサは安らぎを覚えていた。
ウォレスが静かに部屋を出ていくと、ハンナが「さあ、まずは無理をしないで」とベッドの傍らに腰掛けた。
彼女はテーブルから水差しを取ると、そっとマーサの体を支え、乾ききった唇に器を寄せてくれた。
ひんやりとした水が喉を潤していく。マーサは小さく息を吐き、ようやく少しだけ落ち着きを取り戻した。
「……あの、ここは、一体……どこ、なのでしょうか」
掠れた声で問いかけるマーサに、女性は優しく微笑みながら、水差しを置いて答えた。
「ここはサントゥスと東の王国の国境沿いにある、ルベライト商会ですよ。ウォレス様が商用で国境を越える途中で、貴方を見つけられたんです」
「(国境沿い……ルベライト、商会……あぁ神様ありがとうございます)」
遠のいていく意識のなかで、マーサはハンナとお嬢様の無事を祈り、死さえ覚悟した自分がこうして助かった事に感謝しながら、再び静かな眠りへと落ちていった。




