第8話天は全てを見通し正しき者を救う前編
中央都市サントゥスの喧騒を抜けたその場所に、エルナス光教会はひっそりと佇んでいた。
大陸最古の歴史を誇るその教団は、かつては諸侯の崇敬を集めた栄華の象徴であった。しかし、覇王シーザーがこの大陸を統一した折、自らの覇権を確固たるものにするために新興の「ソルサーチ教団」を創設してからは、時代の光は完全に移り変わってしまった。
新たな支配者が自らの宗教を興し、旧来の権威を徹底的に冷遇、弾圧していくのは歴史の常である。国王の庇護と富のすべてをソルサーチ教団に奪われたエルナス光教会は、信者数も激減し、今や中央都市の片隅で、古びた大聖堂の維持すらままならないほどに落ちぶれていた。
馬車を失い、母マーサから託されたすべての荷物も失ったハンナは、ボロボロの衣服のまま、その重い鉄の扉へと滑り込んだ。腕の中には、息を殺すようにして眠る赤ん坊がいた。
「お、おい……どうしたんだ、その格好は」
ひんやりとした静寂が満ちる礼拝堂で、最初にハンナに気づいたのは、古びた修道服を着た若い下級の聖職者だった。
衣服は破れ、足からは血を流し、泥に塗れながらも小さな命を必死に抱きしめているハンナの姿に、青年は息を呑んだ。
「お、お願いです……助けてください。ルカお嬢様のこの子を護って……っ」
ハンナは声を震わせ、涙ながらに必死の訴えを口にした。青年はその切実な眼差しと尋常でない様子にただごとではないと察し、「とにかく、こちらへ!」と、彼女を礼拝堂から奥の部屋へと急ぎ誘った。
青年から報告を受け、静かに姿を現したのは、エルナス光教会の最高責任者である老司祭だった。
ハンナは、温かい白布に包まれた赤子を抱いたまま、なぜ自分がここへ逃げ込むことになったのか、母マーサが命がけで自分たちを逃がしてくれた脱亡計画のいきさつを、震える声で司祭に説明し始めた。
だが――その説明の途中で、聖堂の静寂は無惨に打ち破られた。
「おい、責任者を出せ。我がクレセント伯爵家の不届きなメイドが、我が家の血を引く赤ん坊を誘拐してここに逃げ込んだ。直ちに引き渡してもらおう」
シニストラの怒鳴り声が厳かな礼拝堂に響き渡る。
その声を聞いた、奥の部屋のハンナは恐怖に身体を硬直させ、咄嗟に赤子を庇うように腕を縮めた。
「心配はいりませんよ。」
司祭はそうハンナに声をかけ、そして礼拝堂へと向かおうとした際に、ついてこようとした青年に言った。
「ニコラ、お前もここにいなさい。もし何かあってもここへは誰1人通してはなりませんよ」
「グレゴリウス様。しかし…」
「私の言葉は神の命令だと思って従いなさい。いいですね?」
そう言い残すと、司祭は1人礼拝堂に向かった。
司祭の顔を見るなり、シニストラは残された家族の面倒を引き受ける「後見人」として、もっともらしい言葉を並べ立てた。
だが、長年この街で人間の心の光と闇、術なき者の告解を聞き、魂の在り処を見つめ続けてきた老司祭の目は欺けない。
聖人と悪人は、目が違う。そして、発する言葉の端々に宿る響きが、決定的に違うのだ。
丁重な物言いの裏から透けて見える、シニストラの傲慢で濁った強欲な目と、隠しきれぬ邪悪な言葉の端々。それに対し、ボロボロになりながらも、ただ腕の中の小さな命を護ることだけを求めて引き絞られるハンナの、純粋で必死な眼差し。
どちらが真実で、どちらが天の正義に叶っているかなど、司祭にはそれだけで一目然であった。
「お言葉ですが、伯爵様。我が聖域に駆け込んだ迷える羊を、確たる証拠もなしに罪人として引き渡すわけにはまいりませぬ。この場はお引き取りを」
司祭が毅然と言い放つと、シニストラの目が細められた。応じないと分かると、悪人としての本性がその仮面の下から這い出てくる。
「ほう。一介の古びた教団の司祭の分際で、この私に逆らうか。知っているだろう、国王陛下が信仰を捧げ、法的な庇護を与えているのはソルサーチ教団だけだ。お前たちのような後ろ盾のない落ち目の教会など、私がその気になれば犯罪者隠匿の罪で一瞬で叩き潰せるのだぞ? 明日には兵を差し向け、この街からお前たちの教会ごとすべて消し去ってもいいのだ」
覇王シーザーがソルサーチ教団を創設して以来の、歴史的な教団格差。シニストラは権力を笠に着て、ネチネチと教会の急所を突き、脅しをかけてきた。背後に控えるガイも、無言で司祭を威圧するように一歩前へ出る。
だが、司祭は一歩も引かなかった。落ちぶれてなお、その背中には大陸最古の教団としての譲れないプライドがあった。彼は真っ直ぐにシニストラを睨みつけ、腹の底から響くような声で言い放った。
「天はすべてをお見通しですぞ、クレセント伯爵!」
「何を……っ!」
「たかだか一介の伯爵ごときが、神の代理人たる我らを脅迫するおつもりか? それこそ神への冒涜、叛逆でありますぞ!」
「貴様……!」
「我らを裁けるのは神のみ! 王の法といえども、この聖域を侵すことは許されませぬ! さっさと立ち去られるがよい!」
その怒号は、聖堂の天井に、そして石造りの壁にビリビリと木霊した。
ここで剣を抜けば、それこそ「国家への叛逆」の現行犯となり、自らの破滅を意味する。頭のキレるわけでもない悪党でもそれくらいは分かっていた。シニストラは手が出せない屈辱に顔を般若のように歪め、拳を血がにじむほど強く握りしめた。
「……老いぼれめ!その薄汚れた信仰とやらが、いつまでその命を繋ぎ止められるか、見ものだな」
シニストラは蛇のように冷たい捨て台詞を残し、激しくマントを翻して去っていった。従者のガイも、苦々しげにその後を追う。
ガァン、と再び重い鉄の扉が閉まった。ようやく教会には静寂が戻った。
奥の部屋のハンナは張り詰めていた糸が切れ、床にへたり込んだ。先ほどの若い聖職者も、安堵からか壁に背を預て深く息を吐いた。




