第37話 禁句の領域(前編)
地下書庫から私室に戻ると、部屋には宰相のジュールが待ち構えていたように座っていた。
何の話をしに来たのか、だいたい察していたマリア・ロゼは不快な表情を浮かべたものの、室内に控えていた侍女たちを下がらせた。
これから交わされる話を、他の者に聞かせるわけにはいかなかったからだ。
「ジュール、何か用か。……まあ、何の話をしに来たのか、言わずとも分かるが」
「私が苦言を呈しにきたとお分かりということは、ご自身で何をなさったか、自覚されているということですね」
「まあ、そうだな。だがジュール、今更じゃ。もう午前の閣僚会議で決定した」
国王が倒れたあと、見舞客の対応に追われて、宰相であるジュールは午前の閣僚会議を欠席していた。マリア・ロゼは、まさにその隙を狙ったのである。
「私を欠いた状態で決定を下すなど……無効だとお思いになりませんか」
「他の閣僚は反対しなかったぞ。仮にそこにお前がいたとして、反対したのはせいぜいお前一人だ。だからこそ決定は覆らん」
「宰相である私が反対していれば、それに追従する者もいたはずです。それが分かっていたからこそ、私がいないうちに議論を急がせたのでしょう、マリア・ロゼ様」
「ジュール、お前に聞くが、クレセント伯爵領をヴィクトリアに返還することが、何故そんなに悪いことなのだ」
「前例がございません。一度取り潰した貴族の領地を戻すなど、あってはならないことです」
「そうだな……前例がない。では、父上――いや、国王陛下がクレセント伯爵家を取り潰した本当の理由は何だ。表向きは、シニストラが王家で騒ぎを起こして王宮を血に染める原因を作ったこと、そして彼の借金問題などの素行不良だということになっておるが……それはただの建前だろう?! そんな状態で伯爵家をまるごと取り潰すほうこそ、前例がないはずだ」
そう言われて、流石の宰相も言葉に詰まった。彼自身も、クレセント伯爵家を取り潰した処分はあまりに重すぎると感じていたからだ。
王宮で騒動を起こし、ヴォルフ・ルベルコルスやルカ・クレセントを侮辱した末に、ヴォルフに殴られ、そして――あの時共にトドメを刺したマリア・ロゼの手によって、命を絶たれたシニストラ。
次期女王でもあるマリア・ロゼが深く関わったことで、その事件は国王の政治判断によって「なかったこと」にされた。だが、シニストラが王宮を血に染めたという失態や、借金問題などの素行不良を口実に伯爵家そのものを取り潰したというのは、どう考えても荒唐無稽な言いがかりにすぎなかった。
「確かに、表向きの理屈としてはそうですが……。しかし、国王陛下にも何か深謀遠慮がおありで――」
「深謀遠慮? そんなもの……元々あの家を取り潰したかったからに決まっているじゃないか。父上だけではない、お祖父様の代から……いや、もっと前から、王家はクレセント伯爵家を取り潰したくて仕方がなかったのだ」
「いや……それは……そんなはずはない。クレセント伯爵家は、それこそ英雄シーサーの時代から王家に仕え続けてきた名門の忠臣です。その歴史の重みは、国王陛下とて十分にご存じのはず……!」
「だからこそだ」
マリア・ロゼは冷ややかな瞳をジュールに向け、一言ずつ噛み締めるように告げた。
「クレセント伯爵家は、知りすぎた忠臣だからだ、ジュール。王家の光も――そして、その醜悪な闇もな」
「それなら何故……さっさと始末をつけなかったのですか。今更になって……。それに、こんなに長く手元に置かなくとも……」
「さあな。わらわは歴代の国王の気持ちなど知らんが、強引に取り潰すだけの決定的な口実が見つからなかったからではないのか? それに、ルカの父親もそうだったが、あそこは軍人として類まれなる優秀な人材を輩出する。まさに諸刃の剣だ。危険だと分かっていながらも、身近に置いて監視するのが一番の得策だと考えたのかもしれん」
二人の間に、重苦しい沈黙が流れた。
やがて、先ほどまでの冷徹な気負いをわずかに緩め、マリア・ロゼがぽつりと呟いた。
「父上が――最初に素直に領地返還を承諾してくれさえすれば、わらわとてあの発禁書の話を持ち出したりはしなかったものをな」
下を向いて考え込んでいたジュールは、ハッと顔を上げた。
「マリア・ロゼ様。……あの書物に書かれていた歴史は、本当に、事実なのですか?」
「本当だろうな。だからこそ父上はあそこまで狼狽された。――それに、なぜ父上があれほどまでに、ルカとヴォルフの婚姻を頑なに認めようとしなかったのか……今なら、痛いほどよく分かる」
「それは……」
ジュールはそこまで言いかけて、ごくりと喉を鳴らした。宰相という最高職にある彼であっても、この先踏み込んではならない禁忌の領域があることを本能が察知し、言葉を詰まらせたのだ。




