第28話 憧れのお姉様の忘れ形見
マリア・ロゼは朝から落ち着きがなかった。
昨晩のうちにルベライト商会の者を載せた馬車がヴェリスの街の宿場に到着したという連絡を受けたのだ。
どうせなら王宮に宿泊させる手筈を整えておくべきだったと彼女は後悔していた。
謁見の間での時間までこんなジリジリとした気持ちを抱えなければならないのは彼女にとって拷問に近かった。
時計を見てはため息ばかりをつくマリア・ロゼに、お付きの侍女頭であるエリザベス・エディス侯爵夫人は呆れたように言い放った。
「ロゼ様、その様に時計を睨みつけたところで、時間は早く進みません」
マリア・ロゼはエディス侯爵夫人を時計のかわりに睨んだ。
「わかっておる!エディス侯爵夫人」
「わかってらっしゃるなら、少しは落ち着いてくださいませ。一国の王女ともあろうお方がたかだか親友の娘かもしれない平民ごときに気を取られているなど…あり得ない事でございます」
マリア・ロゼの瞳に凍りつくような冷徹な怒りが宿った。
「エリザベス、下がりなさい!」
自分の名前が、敬称も爵位もなく、剥き出しのまま放り投げられた。
エディス侯爵夫人は、まるで心臓を直接掴まれたかのように肩を大きく震わせた。常に張り付いていた鉄仮面のような表情が崩れ、その瞳には王女への恐怖ではなく、自身の存在が踏みにじられたことへの戦慄が浮かぶ。
「当分、お前の顔など見とうもないわ!!」
王女のその言葉は、もはや単なる叱責ではなく、彼女に対する完全な拒絶の宣言だった。
エディス侯爵夫人は、震える肩を必死に抑え込むようにして、無言で深く頭を下げた。彼女の矜持であった『侯爵夫人』の仮面は、王女の放ったたった一言で跡形もなく砕け散っていた。
礼儀を尽くすことだけが、せめてもの、彼女なりの意地だったのだろう。
夫人は音もなく身を翻すと、マリア・ロゼの私室をあとにした。
扉が閉まり、再び静寂が部屋を支配する。
ロゼは溜息をつき、ようやく時計から視線を外した。先ほどまでの冷徹な面影は消え、そこにはただ、心から愛しい人の到着を待ち侘びる一人の女性の顔があった。
ヴィクトリアの到着を心待ちにしていたのは、なにもマリア・ロゼだけではなかった。
謁見の間に向かう王宮の渡り廊下を3人の婦人が歩いていた。この東のローゼリアン王国の社交界を牛耳る三羽烏、ハワード大公夫人、ベーカー侯爵夫人、ミラー伯爵夫人である。
「今日の謁見の間に来ると言う、その子供はルカ様の子供というのは本当なのでしょうか?」
とミラー伯爵夫人が隣を歩くベーカー侯爵夫人に囁くように言った。
「そう言う噂ですわよね。…あぁ信じられない、わたくし達のあの憧れのお姉様が子供を産んでたなんて…そして亡くなっていたなんて…わたくし二重にショックで数日寝込みましたわよ」
「わたくしもですわ…数日間なにもする気が起きなくて、泣いておりました」
そんな二人の会話を聞きながらハワード大公夫人は全く会話に入ろうとしなかった。
「それにしてもその子供は、なんて言った名前でしたっけ?」
「そういえば名前を聞いた様な…うろ覚えですわ」
「ヴィクトリア」
ここでようやくハワード大公夫人は口を開いて、その名前を言った。
「そうですわ、その名前でしたわ。流石はハワード大公夫人、よくご存じ上げてますわね」
「別に…小耳に挟んだだけですわ。ルカお姉様の娘と言っても、あの恐ろしい野獣の血が半分入った娘ですもの。きっと猛獣の様な娘ですわよ」
確かに、とベーカー侯爵夫人もミラー伯爵夫人も心の中で激しく同意していた。
それは無理もなかった。
東のローゼリアン王国で、ヴィクトリアの亡き母親ルカは、ご令嬢たちから絶大な人気を誇っていた。
凛々しく美しいローゼリアン王国聖騎士団副団長。
『ルカ・クレセントの親衛隊』なるものが作られ、その中心人物がこの3人だった。
あの憧れのお姉様が、粗野な男と恋愛をした。それだけでも東のローゼリアン王国の七不思議とされていたのだ。
その上、あの王宮での騒ぎである。国王が箝口令を敷いたため、公には大きな騒ぎとはならなかった。しかし、人々の目に映るヴォルフは、やはり獰猛な野獣でしかなかった。
謁見の間に、重苦しくも華やかな空気が満ちていた。
貴族たちが階級順に並び、玉座へ続く中央の通路を空けて静まり返っている。
ハワード大公夫人、ミラー伯爵夫人、ベーカー侯爵夫人。社交界を牛耳る三羽烏が、音もなく入場し、所定の定位置に滑り込んだ。彼女たちが扇子を閉じる音ひとつで、周囲の貴族たちは息を呑み、さらに姿勢を正す。まさに、この場の空気そのものを支配する動きだった。
やがて、壇の側面に設えられた重厚な扉が音もなく開き、国王とマリア・ロゼが姿を現した。
二人は何の前触れもなく、当然のように玉座へと歩みを進める。次期女王としての威厳を纏ったマリア・ロゼは、一歩一歩、確かな足取りで国王の隣の玉座へと腰を下ろした。
マリア・ロゼは玉座に深く背を預けると、真っ直ぐに正面の大きな扉だけを見つめた。
左右に並ぶ貴族たちの視線も、これから現れる幼子を値踏みしようとする三羽烏の鋭い眼差しも、マリア・ロゼの瞳には一切映っていない。彼女の意識は、ただ扉の向こう側にのみ集中していた。
国王が静かに右手を挙げ、侍従に合図を送る。
「……通せ」
その言葉と同時に、謁見の間の正面扉が、ゆっくりと、しかし確実に開かれていった。
外からの光が差し込み、通路の先には、ウォレスに伴われた幼子の影が浮かび上がる。
部屋中の貴族たちが、その姿を一目見ようと一斉に身を乗り出し――そして、次の瞬間、まるで呪縛にかけられたかのように一斉に動きを止めた。




