第22話 父の立場、子の立場(前編)
ヴォルフの中で一つの結論――『この子は、俺とルカの証だ』という事実に収束した瞬間、彼の理性のタガが外れた。 父親としての戸惑いなど、一瞬で吹き飛んだ。
ヴォルフは無言のまま椅子を蹴り倒し、ヴィクトリアのもとへ歩み寄った。そして、驚きに目を見開く少女を両手でガッチリと抱え上げる。そのまま自分の胸元に引き寄せ、壊れ物を扱うように、しかし決して逃がさないという意志を込めて、しっかりと抱きかかえた。
「……姉さん、帰るわ」
ヴォルフはそれだけを言い残し、玄関へと踵を返そうとした。
「はあ!? あんた、何を言ってるの」
「俺の娘だ。俺が育てる」
「何を言ってるんだい! この唐変木!! どこで育てる気だい。あんたはルベライト商会の居候の身だろ?」
その言葉はヴィクトリアの体温に浮かれていた意識を、急速に現実へと引き戻した。
……そうだった。自分はシニストラを王宮で葬り去ったあと、国王の「黙認」によって命だけは繋いだが、社会的には居場所を失った男だ。ウォレスの庇護という名目でルベライト商会に囲われているだけで、自分の屋根も、自分の食い扶持も、何一つ確かなものなどない。
「とにかく、お座り。話は夕食を食べてからだ」
アイラの声には、一切の妥協も甘えもなかった。
ヴォルフはヴィクトリアを床に下ろすと、肩を落とし、すごすごと食卓へ戻った。
――
食後の冷えた空気の中、アイラとマイラの部屋にヴォルフ、レニード、そしてヴィクトリアが呼び出された。
アイラは厳しい表情のまま、ヴォルフを見据える。
「ヴォルフ、あんたの気持ちはわかるよ。でも物事には順序ってもんがある。あんた、ヴィクトリアがどうしたいのか、聞いたのかい?」
その問いに、ヴォルフは呆気にとられたようにヴィクトリアの方を振り返った。
「どうしたいのか、って……。姉さん、こんな小さな子供に、そんな難しいことを聞いて何が分かるっていうんだ?」
「あんたはこの子をただの子供だと思ってるんだね。確かにまだ6歳さ。だけどね」
アイラは一度言葉を切り、声の調子をわずかに落とした。
「神獣オルティスが名前を授けた子だ。6月の女神ヴィクトリア様の、知恵と勝利の加護持ちだよ。子供だからって侮るんじゃないよ」
「えっ?」
驚いてヴォルフはヴィクトリアの方を見た。それは父としての喜びよりも先に、言葉にできない畏れのようなものが背筋を駆け抜ける衝撃だった。
神獣オルティスとは、トレヴィス山にいるとされる神獣だ。姿を見せることは滅多になく、その姿を目にした人間の方がむしろ稀だという。
そんな神獣が、名前をつけた。
一体どういう経緯で……ヴォルフは困惑した。だが、困惑している場合ではなかった。
アイラはすでにヴィクトリアへと視線を移していた。
「ヴィクトリア、どうする?」
ヴィクトリアは毅然とした態度で、ハッキリと言い放った。
「アイラ叔母ちゃん。今までお世話になりました。私は明日からルベライト商会でお世話になります」
「ん? なんでルベライト商会だ?」
ヴォルフは状況が飲み込めず、きょとんとした顔で間抜けな問いを返した。
「だって、おっちゃんは無職じゃん。だから、私はルベライト商会のウォレスのおじちゃんのお世話になるの」
ヴィクトリアは、まるで当たり前のことを説明するように淡々と告げた。
「ウォレスのおじちゃんは親切だから。私のことも面倒見てくれると思う」
部屋の空気が、一瞬止まった。
誰も口を開かない。レニードでさえ、気まずそうにヴォルフの顔色をうかがっている。
その沈黙の重みが、じわりとヴォルフの胸に染み込んでいく。父親として名乗り出た直後に、実の娘から真っ先に外注先を検討されるとは、思ってもみなかった。
その言葉が、ヴォルフの胸を鋭くえぐった。
自分は全く父親として信用もされていない。ショックのあまり呆然となっているヴォルフの横で、レニードがおずおずと口を開いた。
「親父様! あの、口を挟んでいいでしょうか?」
「……なんだ、レニード?」
「さっきから、その……お嬢ちゃんは。何故ウォレスさんのことを、そんなに詳しく知っているのでしょうか?」
レニードの素朴な疑問に、アイラは呆れ果てたような顔で溜め息をついた。
「……こっちに連絡をよこすのに伝書鳩を使った時点で、なんで疑問に思わなかったんだい? あんたたち」
ようやくヴォルフはすべてを理解した。
伝書鳩は戻る場所がなければ飛ばない。つまりこの村とルベライト商会は、前から繋がっていたということだ。
「……あの狸親父め!!」
ヴォルフは思わず声を荒らげた。ウォレスの掌の上で転がされていた自分への苛立ちと、すべてを見通されていた恥ずかしさが入り混じる。
いや……それより何より、ルカの子供であるヴィクトリアの事もあの男は知っていたのだ。それが一番腹立たしかった。あの飄々とした顔の裏で、一体どこまで見通していたのか。考えるほどに苛立ちが募る。
「これ! 失礼なことを言うんじゃないよ!」
すぐさまマイラがピシャリとヴォルフを窘めた。
「その通りだよ!お前はそんな事を言える立場じゃないだろ!!」
とアイラにも諌められた。
ヴォルフの父親としての立場は、こうして微妙なことになった。




