第16話 全てはなかったことに
二人の話を聞いたジュールは、直ちにこの事件の全容を国王に報告した。
その間、王女マリア・ロゼは自身の私室から一歩も出ることを許されず、ヴォルフは王宮の地下牢へと幽閉された。二人の運命は、国王の一存に委ねられたのだ。
三日後、国王の下した判断は簡潔かつ冷酷だった。
「全てはなかったことにする」
公式には、シニストラは王宮の私室にて急死したことになったのである。
だが、殺人を犯した人間をそのまま王宮から野放しにするわけにはいかない。王国の体面と事態の沈静化のためには、ヴォルフを管理下に置き、その身元を保証する存在が必要だった。しかし、彼を雇っていたヴェストファール伯爵は、事件が起きたその日のうちにヴォルフを解雇していた。身分を失い、行き場を失ったヴォルフには、何の後ろ盾も残されていなかった。
身元保証人がいないのではどうにもならない。
それからもヴォルフは地下牢に幽閉された。
もう自分はこのまま地下牢で朽ち果て、あの世に行くのだ。そうヴォルフは思っていたが、
「おい、出ろ!」
そう言われて地下牢から出されたヴォルフは、王宮の通用門の外へ追い出された。
薄暗い路地裏、黒塗りの重厚な馬車が停まっている。その傍らに、上質な衣服を纏った一人の男が立っていた。ルベライト商会の総帥、ウォレス・ルベライトである。
男はヴォルフを見ると、穏やかな、だが有無を言わせぬ瞳で告げた。
「君がヴォルフガンフ・ルベルコルスか?」
そう尋ねられて、ヴォルフは警戒を露わにした。
「そうだ」
「名前を名乗るのが遅れたね。私はウォレス・ルベライト。ルベライト商会で商会主をやっている。君の身元保証人として、これから先、君は私の庇護の元で生活することになるが……君はどうするかね? 嫌というのなら、無理強いはしないが……」
その言葉には、商人特有の打算と、同時に他者を圧倒する深い懐の深さがあった。今のヴォルフには、拒絶する権利などないに等しい。彼は素直に従い、ルベライト商会の馬車に乗り込んだ。
二人が乗り込んだ馬車は、ローゼリアン王国と中央都市サントゥスの国境沿いに位置する、ルベライト商会へ向けて出発した。
――一週間の長旅の果て。
ルベライト商会の商館に到着し、馬車から降りたヴォルフを出迎えたのは、既に商会の保護下で待機していたレニードだった。
「親父様!」
レニードはヴォルフの姿を確認すると、人目もはばからず抱きついて泣き崩れた。言葉にならぬ叫びとともに、無事だったヴォルフにすがりつく。
さらに、その背後からもう一人、静かに歩み寄る女性の姿があった。
「お久しぶりでございます」
その声を聞き、ヴォルフは眉を寄せた。どこかで聞いたことがある気もするが、誰なのかすぐには思い出せない。警戒を露わにするヴォルフに、彼女は穏やかに微笑んだ。
「私をお忘れですか、ヴォルフ殿。ルカ様の乳母の、マーサでございます」
ヴォルフは驚愕し、目を見開いた。ルカの身についてはシニストラから聞いて知っている。だが、なぜクレセント伯爵の元で働いていた彼女が遠く離れたこの場所で、ルベライト商会にいるのか。あの逃亡劇のことなど知る由もないヴォルフには全く予想外の出来事だったのだ。
「立ち話もなんだろうから、とりあえず中に入ろう! だがその前に……宿屋とかで衣食はなんとかなったんだが、風呂がな」
と言ってウォレスはクスリと笑った。
傍で熊のように立っているヴォルフは、風貌もそうだが、なんとも言えない匂いを漂わせていた。
「直ぐに風呂の準備を整えてもらえるか? マーサ」
「承知致しました」
マーサが静かに頭を下げ、手際よく動いた。
ルベライト商会という安息の場所を得て、本来なら活気を取り戻すはずだった。だが、それからもヴォルフはどんよりとした重い空気を纏い、生気を失っていた。
愛するルカがこの世にいないという非情な現実。彼はまるで、生きた屍のような日々を過ごしていた。
だからレニードやマーサがこの商会にいるのを驚きはしたが、彼らがどのような経緯でこの商会にやってきたのか、彼は知ろうともしなかった。
「レニード、ワシはなんで生きてるんだろうな……ルカを失ったというのに」
「親父様……」
「せめてルカの墓に手を合わせたかったのに……それさえもかなわない」
ヴォルフが深い絶望を口にした、その時だった。
「ヴォルフ殿、何をおっしゃっているのですか!」
振り返るとマーサが立っていた。
「手を合わせたいとおっしゃるのなら、行ってらっしゃいませ!!」
「マーサ、何を言っている。ルカは埋葬されなかったと聞いたぞ……シニストラは野犬か狼に始末させたと」
「大事なお嬢様の亡骸を野犬か狼の餌になんてさせるものですか」
「…… それは本当か、マーサ?」
ヴォルフの声は震え、その淀んでいた瞳に、ふつふつと確かな光が宿り始めた。
「はい。お嬢様は私とハンナで、御屋敷の外の木の下へ埋めました」
その返事を聞いた途端、ヴォルフは我を忘れたようにウォレスの部屋へと駆け出した。
「ウォレス殿! 私を港町ソルティに向かわせてもらえないだろうか?」
無礼を承知で扉を開け放ったヴォルフに、ウォレスは動じることなく、優雅に葉巻を置いて彼を見上げた。
「……ほう。さっきまでとは別人の顔だな」
ウォレスの口元に、面白がるような笑みが浮かぶ。
彼は深く椅子に腰掛けると、値踏みするような鋭い眼差しでヴォルフを射抜いた。
「いいだろう。許可する。だが、条件がある」
「……何だ?」
「お前一人で行かせるつもりはない。レニードを同伴させろ。あいつなら、お前のブレーキ役も務まるだろう」
ウォレスはふっと息を吐き、煙を天井に漂わせる。
「そして、何があっても必ずこの商会へ戻ってこい。旅の道中、何が起ころうともだ。……これは命令であり、お前の『身元保証人』としての誓約だ。守れるか?」
その言葉は、ヴォルフに「ここが今の自分の帰るべき場所である」という現実を突きつけると同時に、彼を縛る鎖でもあった。だが、今のヴォルフにはその条件すらも救いに思えた。
「……ああ、誓おう」
ヴォルフは短く、力強く答えた。
ルカの墓へ行くという目的と、ウォレスへの約束。かつてすべてを失った男が、再び人生の舵を握り直した瞬間だった。




