事の始まり
倒した。
竜王を倒してしまった。
崩してしまった山道に十枚以上のビニールシートを被せて蓋をして、池のほとりから、おれは覗き込んだ。
黒い巨体がはっきりと見えた。念入りに余裕を持って深く深く掘ってもらったはずのプールは、竜王の巨体をギリギリ沈めたものの、その鼻先から水面までは一メートルもないように見えた。軽自動車のような顔は驚愕に目を見開いたまま、ぴくりとも動かない。
「こ、こわっ。竜王デケェ!」
ぞくりと震えが来る。しかし、畏怖ばかりではない。この最強の魔物を下したことで、覚えたのは優越感か、支配感か。自分でも判然としないが、思わず口角が上がるのを感じる。
「う、うふふふ」
「ハルちゃん」
振り返ると、葵が無表情に突っ立っていた。足元を指差して、
「その笑い方、気持ち悪いわ」
「うるさいな」
「それより、解毒剤ちょうだい。膝から下が動かないの。感覚もないし」
「ちょうどいい。さっき殴られたお返しに、そのままそこに立ってろよ」
「なんでよ! いや! 私、大活躍だったじゃない!」
そう言われるとそうだった。しかし解毒剤は持ち合わせていないから、効果が切れるまでそうしていてもらうほかない。
「一瞬浸かっただけなら、何時間かしたら動けるよ」
「な、何時間かしたらって!」
「おぶって帰るから心配するな」
「もう、さっきから上でガサガサやるばっかりで、全然助けに来てくれないし!」
「屋根しないと、薬に雨が入ったら薄まっちゃうだろ」
「わかってるわよ!」
それなら何が不満なのか、葵は頬を膨らませて、両手を甘えん坊のように突き出した。
「連れてって。私も見たい、竜王」
葵を竜王のそばまでおぶってくると、子供のような声を上げた。
「うわぁ、デッカい。ド迫力ね。観光名所になるわよ」
「それ、いいな。そうするか」
リンドブルムの洞窟なんてネーミングはどうだろうか。竜王の墓なんてのもいいな。
「春太さん」
そのとき、葵を背負うおれに声をかけたのは、なずなだった。見れば、如月と凱亜くんも一緒である。なずなの服は所々が焼け落ちて、肌が際どく露出している。さらさらだった髪の大部分が、ちりちりと焦げているのはもちろん、顔のほぼ全面が、赤く変色している。その火傷の痛ましさに、おれは息を飲んだ。
「さっきは……、ありがとうございました。死ぬかと思いました」
そう言って、自身を抱きしめるようにして俯く。
確かに、ロープが切れるのは想定外だった。おれが街まで戻るのを止めて引き返していなかったら、なずなは竜王に触れて黒焦げになっていたかもしれない。
「なずな……」
作戦の立案も采配もおれの独断だ。謝るべきだろうが、言葉が見つからない。なんと言っていいかわからなかった。
「あの……」
如月が口を挟む。びしょびしょに濡れた髪を気にする素振りもない。
「街に……。神官様……」
教会にたどり着くなり、シャルロッテが飛んでくる。
「みなさん、ご無事ですか!」
なずなの怪我を認めると、返事も待たず、そのままごにょごにょと祈り始める。その瞳は薄く閉じられているが、そこからすうっと一筋の涙が流れた。その涙を見て、おれは街に帰ってきた実感を得た。
街の討伐兵たちには、すぐに話は広まった。ネズミの魔物兵は討伐せず、捕虜にした一体に、竜王は逃げた勇者一行を追って飛び去ったというデマを流したそうだ。これで、しばらくは新たな攻撃の手もないだろうということだが、果たしてどうか……。
「な、なんでよ!」
葵が喚いて、それが洞窟の中を柔らかに反響する。土砂崩れで道が崩落したと聞かされた街のミスティックによって、天井が頑強に修復された、リンドブルムの洞窟である。
異物の混入を防ぐ結界魔法を張られ、磐石となった封印の前で、その結界を張ったばかりのミスティックは言う。
「救出が容易すぎるのです。リンドブルムは生きている。助けたいと思う魔物がいれば、助けられてしまう。ここに封印されていることは、世界にとって最重要機密のひとつです」
「だからって、本当に報奨金なしなの!」
「はい」
竜王の討伐報酬は、驚くなかれ、潔いものだった。
ゼロ。
懸賞金がかけられていない理由を考えれば、討伐したことも単純に褒められたものではないのだ。禁忌を犯して報酬がもらえるのでは、秩序が保てない。当然といえば当然である。
なずながおずおずと手を挙げて言う。
「あの、じゃあせめて、私、竜殺しを名乗ってもいいですか」
「ユニークは黙ってろ!」
国の偉い人には、レイシストが多い。このいけすかないミスティックも、その例に漏れない様子である。おれが黙っているのは、すでに一度、なずなと同じようにやられたからに他ならない。
「竜殺しなんて名乗ったら、この封印のことをバラすのも同然だろうが、クソが! クソカスが!」
おれのかわいいなずなは見る間に目を潤ませて、如月に抱きついて震え始めた。
こいつ、殺してやろうか。
そう思う暇もあらばこそ、ゴキンと音がする。
見れば、葵の拳が振り抜かれ、煙を上げていた。偉いミスティックは、宿屋パンチによって鼻をくだかれ、その場に膝をつく。ぼたぼたと落ちる鼻血を受け止めるように、両手を鼻に添えていた。
「ひ、ヒィ!」
「私のかわいいなずなに何言ってくれちゃってんのよ」
すっかり上等な宿屋の娘は、蹴りやすかろう位置にある男の顔を、思い切り蹴り上げた。宿屋キックである。
グチャッと案外水っぽい音がして、同時に葵の体がわずかに光る。男は今度は仰向けに尻餅をつく。
「ぶ、物理保護が……なぜ発動ひない……!」
「キレてるからよ!」
なるほど、キレてるからか。
「葵さん!」
おれと同じように身体を強張らせて、嵐が過ぎるのを待っていた如月の腕を離れ、なずなは葵に駆け寄った。
「この石を使ってください」
「やめなさい、なずな! 石を捨てて戻ってきなさい!」
なずなは大きい石を、男の顔の上に思い切り投げ捨てた。
「討伐兵の皆さんは、手の早い方が多いのを忘れていました。ユニーク風情に石を投げられるとは、屈辱的でしたが……」
不機嫌な男が、シャルロッテの治癒を受けながら言う。痛めつけたのは主にミスティックで、渋々教会まで引きずってきたのはおれーーユニークなのだが、その程度で覆るレイシズムなどあるまい。期待はしていなかったものの、やはり多少腹は立った。
「神官様、治療費はそこの男に請求してください。すごく高くつきますよね」
シャルロッテは、不思議そうな顔をする。
「いえ、大した怪我ではないので、そう高くは」
「いや、宿屋コンボを食らったんです。高くつくはずです。目に見えないダメージがあるかもしれない。念入りにお願いします」
葵となずなが、心配そうな顔をして頷いた。如月のおれたちを見る眼が、一層冷ややかになる。
「あの、春太さん、特に大きなダメージは……」
「そうだ、ユニークの男、黙ってろ。貴様ごときに言われずとも、自分の体のことはわかる。ユニークは黙って牧場にでも帰って、馬の糞でもすすっているがいい」
一瞬、シャルロッテの微笑が消えたのを、おれは見逃さなかった。
「おや、内臓にひどい裂傷があるようです。これは大変な魔力を使わないと治せません。魔石ひとつ、いやふたつ分でしょうか。これを治すとなると、蘇生するのと大差ありませんね」
「えっ、内臓? 腹には何も……」
「ああ、わかりました。あなたが神の元に召されたければ、私は涙を飲んで、治療を中止しましょう」
男の額に汗が滲み、おれたちを慌ただしく見回して、縋るような顔になったかと思うと、本当ですかとシャルロッテに泣き顔を見せた。
シャルロッテはにんまりと笑う。
「冗談です」
「本当に倒してしまったんですね」
男を追い出した後、シャルロッテは言った。
お茶を勧められたのは、例の書斎である。今度はおれたちも、すぐに口をつけた。如月は居心地悪そうに俯いて、もじもじと手先を弄ぶばかりだった。
「あの、神官様、アキコさんは」
なずなが尋ねると、シャルロッテは透き通る青い目を細めて、にこりと微笑んだ。
「今はまだ眠っていますが、すぐに目を覚ますでしょう。心配は無用ですよ」
「よかった……」
長い息を吐く。
「春太さんは約束を守ってくださったのですね」
「約束?」
「……覚えていらっしゃらないのですか」
覚えがなかった。
「……では、結構です」
シャルロッテがこうして桜色の唇を尖らせるのは、先日知った通り、不機嫌の表れである。それでも、肝心の約束の内容は思い出せなかった。
始まりの山村の人々は無事だった。怪我を負った戦闘員も、大事には至らず、この後、教会で治療を受けるという。なずなはひどく安心して、宿に着くなり寝入ってしまった。葵も疲れたのか、そのまま横になった。
如月を屋敷まで送り届ける道中、占い師は久しぶりに口を開いた。
「あの……」
「なんだ」
「どうして戻ってきたんですか」
「……この街に宿を取ってるから」
如月はしばらく俯いたまま沈黙して、
「あ、違います」
「なにがちがうのか」
「竜王のところ……街まで戻って、人を呼ぶって言ってたのに……」
「ああ」
竜王相手に凱亜くんだけ連れて戻ったのでは、どう考えても力不足だ。その凱亜くんといっても、道端にゴミのように打ち捨てられていたのを拾ってきたに過ぎない。
街に戻らなかった理由はふたつ。いずれも明確であった。
ひとつは、打ち合わせをしていない人間に出しゃ張られて、作戦をぶち壊されるのが嫌だったから。
もうひとつは、おれの作戦で竜王を倒す瞬間を、見たかったから。
しかし、これを正直に話すのははばかられた。如月はただでさえ、葵やなずな、シャルロッテと違って、おれにあまり甘くない。
「……お前たちが、やっぱり、心配で」
「……はあ……」
疑わしい目つき。まったく信じていないのが、嫌というほど伝わった。
「まあ、他にも理由はあるけど、心配だったからってのも、まったくの嘘ってわけではないよ」
「そうですか……」
「納得いただけたかな」
如月はぶんぶんと首を振った。そうだろうとも。
しかし、ちらとおれの目を見て、何度も手ぐしで髪を梳きながら言った。
「でも……、あの、少し安心、しました、あの時」
「そうか」
「はい」
それきり、屋敷の前で別れるまで、おれたちは言葉を交わさなかった。
凱亜くんは、自らの力不足を思い知ったという。流浪の旅に出て、レベルを上げるそうだ。レベルが上限に達したら、戻ってくるつもりだと言っていた。気の長い話だ。彼の場合、その才能の凄まじさは幼少期から目の当たりにしているから、あまり心配はしていない。
街は平和である。
結局、一円にもならなかったし、竜殺しの名誉も受けられなかったが、街は平和だ。
それでよしとするほど性根の良い人間ではないつもりだったが、今、こうして生きていることは、何事にも代え難いのは事実であろう。
それに、作戦の成功した、あの瞬間。竜王が沈む、あの瞬間の興奮は、おれの心の中に大切にしまわれている。あの快楽が味わえただけで、おれは満足だと言っていい。しばらく葵となずなはブー垂れているかもしれないが、すぐに機嫌は直るだろう。
街は平和である。
これからも、しばらくおれたちはここで暮らしていく。
島を出る前には知らなかった世界が、ここにはある。
今後も、おれたちの世界は広がっていくだろう。
あるいは、街の片隅で。
あるいは、城壁の外で。
今となっては、それが少し楽しみだ。
冒険は続く。
この美しい街を拠点に。
おれが足取りも軽く宿に帰り着いたとき、葵となずなは深い寝息を立てていた。
おれも自分のベッドに潜り込んで、眠りにつく。
このときは、まだ誰も知らない。
おれたちがいかにして、この新しい世界の運命を握ることになるのかを。
ちょっと故ありまして、一年間お休みします。




