『竜王』リンドブルム
『竜王』リンドブルム。
竜の体温は一般に500℃程度と言われるが、竜王に挑んだ竜が、触れたそばから黒焦げになったなんて話もある。
そんな体温で生きていられるのは、細胞の一つ一つを強固な結界魔法で覆っているからだという説が有力だ。
その強さは一撃で城を崩し、その硬さは一太刀も通した歴史を持たず、その速さは一刻で国を跨ぐという。
端的に言うならば、その二つ名の示す通り、世界最強の竜である。
懸賞金が懸けられていないというのは、つまり近づくことが禁じられているのだと、シャルロッテは言っていた。
なずなは、山村にいた頃は、夜更かしする子供を恐がらせるのに、よく竜王が来るぞと言われているのを耳にしたものだと懐かしく思い返す。
両親がもしも無事だったなら、そして自分の現状を見たら、殴ってでも止めただろうと思う。なずなはため息を吐こうとして、しかしそれすら震えて上手くいかなかった。
雨はひどくけたたましく、ぬかるんだ地面を、山の木々を打つ。なずなが震えているのは、何もその寒さばかりが理由ではない。
竜王が近付いている。始まりの街を襲おうとしている。
それを知る人間は、片手で数えられる数しかいない。「始まりの街」に、腕利きの討伐兵がそう何人もいるとは思えないが、それでも現在、春太が人を呼びに走っている。今回の作戦に出番がないのは、春太だけだからだ。
作戦ーー。
なずなは腰に巻いたロープが解けないか、改めて確かめた。ロープは腰をひと回り、ふた回り……ぐるぐると回って、固く結ばれている。そこから一本が、導火線のようにずうっと伸びて、茂みの奥へと消えていく。如月に指定された場所で、なずなはひとりで立ち尽くしていた。暗く、冷たく、やたらに広い山道である。
作戦に隙がないとは、どうしても思えなかった。下手をすれば、死ぬかもしれない。いや、少なくともなずなには、十中八九死ぬだろうと思われた。
仮に作戦が上手くいったところで、相手は竜王である。ヒトの考えた小細工が通用するとは、どうしても考えられなかった。力づくでねじ伏せられる気がしてならなかった。
恐い。
なずなの心に、ちらと春太を恨む気持ちがよぎる。どうして彼が自分をこんな目に合わせるのか、どうしてひとりきりにしようというのか。
なずなはこれから、竜王の目の前にひとりで立つ。
なずなの任務は、竜王の懐に入ることである。
「春太さん……」
声ばかりは、彼を恨む気持ちを一切含まない。ただ震えている。頭でどう考えても、結局、恐怖以外の感情を抱く余裕は、今のなずなにはないのである。
なずなが腰のロープを放り出して逃げ出そうかと考え始めたときだった。
どしん。
遠く、遠くから、その音は聞こえた。なずなの頭がパッと白くなり、その場にへたりこむ。
どしん、どしん。
聞く人を狂わせるリズムを持って、その音は近付いてくる。歯の根が合わず、ガチガチと音を立てる。やがて、木々の騒めく音が聞こえてくる。大地の振動が感じられる。
なずなは見た。
それは、雲のように見えた。
もうもうと白いものを立ち昇らせながら、大音声でもって、その闊歩を知らしめる。木々がその枝を触れたそばから、黒く変色して砂のように落ちた。その雲ーー水蒸気の中心には、漆黒の鎧をまとった竜の姿があった。
『竜王』。
そう呼ばれるにふさわしい、世界最強最悪の魔物の一体である。
その巨大な身体を間近で見つめて、なずなの恐怖は消えた。大きな火のそばにいるような熱を頬に感じて、なずなの理性は消えた。
自分はここで死ぬのだと、なずなは悟った。
大きな音が、気が付けばしんとして鳴り止んでいた。熱は、間合いの外にいるなずなの髪を、ちりちりと焦がす。
「……人間」
低く、びりびりと鼓膜を震わせるほど大きな声で、竜王が言う。
「なんのつもりか。余に挑もうと申すか」
なずなは答えない。ただ、顔を伏せているばかりである。雨の音と、雨が竜王の鱗を打ち、瞬時に蒸発するその音だけが、ジュウジュウと響いた。
「……答えぬなら、良い」
再び全てを押しつぶすような音がする。なずなの髪が、ジリジリと熱を増す。
竜王が目と鼻の先に迫り、まさになずなを踏み潰そうとしたそのとき、なずなの服がついに発火したそのとき、カッと視界を奪う稲光。茂みから飛び出したのは如月である。
「い、今ァ!」
竜王は一瞥をくれただけで、まるで興味を示さない。すでに確定したこととして、その小さな背中を踏み潰そうとした。
「ワアァ!」
なずなは叫んだ。キンと耳をつく、竜王にも劣らない声量で、叫んだ。その声は木々を揺らし、大気を揺るがし、竜王をーー最強の王の一角を、怯ませる。
同時に竜王は、その足場が、ぐらりと自分を飲み込もうとしているのに気が付いた。
耕鋤スキル。
なずなを中心に、そのあまりに広い道の全てが、一瞬のうちに耕される。硬さを失った地面は、巨大な竜の重みに抗えず、ズブズブと沈んでいく。
「貴様、何をした」
竜王は冷静であった。落とし穴に落ちたところで、翼を持つ自分に害が及ぶとは考えられなかった。
その瞬間を境に、竜王は落ちる。地面が崩落する。
「ウゲッ」
一緒に落ちていたなずなの身体が、ロープに吊るされて振り子のように動く。
「『ブルーム』!」
葵の声。
崩落した先に待っていた葵が、落ちてくる土砂を悉く除去する。
そこは、なずなと葵が二度も利用した、休憩用の洞窟だった。崩落したのは、その天井である。
竜王が当然のように翼を広げた拍子に、なずなを地上の木に結び付けたロープに触れる。ロープは一瞬で、蜘蛛の糸のように儚く切れた。
「えっ」
目の前の竜の顔。
眼下に広がる蛍光色のプール。
横滑りする土砂。
落ちてくる雨粒のひとつひとつ。
スローモーションのようにゆっくりと、それが視界に入る。なずなは弾かれて、これから自分はゆっくりと、ゆっくりと、あの爪の上に落ちていくのだと想像する。
死。
なずなは自らが死ぬことを理解した。
山村での暖かな暮らしを思い返し、街での孤独なひと月を、賑やかなひと月を思い返す。まさに走馬灯のように。誰の考えた比喩なのかなどという話は、なずなにはわからない。しかし、少なくとも適切な例えであると思った。
やはり、竜王にはかなわなかったか。
そして、その身体の全てを真っ黒に焦がし尽くす、その直前。なずなの落下が止まった。ーーいや、始めから落下などしていない。
「なずなッ!」
頭上から、春太の声がした。宙吊りになって、切れたロープの端を握っている。その背後に、白い鎧が見えた。
「引けッ、凱亜ァ!」
なずなの軽い身体が地上に放り出され、春太と凱亜を下敷きにしたとき、再び、視界が白む。二度目の稲光を契機に、竜王が翼はためかせる。
「この池、すべて薬か」
竜王は、眼下を見下ろし、楽しげにそう言った。
「余を沈めようとは無駄なこと。すべてこの雨のように熱し尽くされて霧散しよう。余の鱗の先には届くまい。だが、面白い。楽しませてもラァァァ!」
轟音。
凄まじい量の土砂が、竜王の背中にのしかかる。その翼の羽ばたきを殺し、今一度、竜の身体を、即席の池へ押し込む。
土砂崩れである。
通常ならあり得ない、この上なく幸運なタイミングでそれは発生した。狙いに違わず。
タイミングのすべては、如月の予言によるものだ。
竜王は何事か喚き、そのまま、土砂に流されるまま、痺れ薬のプールへと沈む。
その直前、
「『ブルーム』!」
葵が叫ぶと、竜王を抑えていた土砂のすべてが取り払われる。竜王は対応できない。同時に、常にもうもうと立ち込めていた蒸気が、ぴたりと止む。
竜王が、沈んだ。
洪水のようにあふれた痺れ薬はそばに立っていた葵の足元を沈め、葵をその場に縫い付けた。
蒸気は出ない。痺れ薬は、500℃をゆうに超える巨体を放り込まれてなお、蒸発しなかった。
なずなの耕鋤スキルと葵の清掃魔法によって掘られ、撥水魔法でコーティングされた池は、いっぱいの痺れ薬をたたえ、丸いその縁に、ずらりと杭が打たれている。杭の中は、なずなのスキルによって、一定の温度・湿度に保たれている。
これによって、池の上部の空間の湿度は上昇しない。したがって、池はどれほど温度が上がっても、蒸発できない。
竜王は、目鼻口から体内に、また鱗の隙間から表皮に流れ込んだ痺れ薬の効果を、永久に受け続ける。身動きが取れず、呼吸も捕食もできない。
こうしてこの巨竜は封印され、いずれは死んでいく。
山間に静けさが戻り、雨音が主役に返り咲く。彼らにとってーー竜殺しの討伐兵たちにとって、それは静寂と言えた。
科学的な考証は勘弁してください




