第4話:蜘蛛の糸
あの日から、私の世界は完全に暗転した。
「暴行を認め、慰謝料を支払うと宣言する動画」という決定的な弱みを握られた私は、誰にも相談することができなかった。
父に言えば、当然警察に行くことになる。
だが、彼らは「動画をネットにばら撒く」と脅してきた。
道場の名前が出れば、祖父の代から続くこの場所は一瞬で終わりだ。
慰謝料の額は、高校生の私には到底払えるはずのない数百万円という途方もない金額だった。
放課後の道場に一人座り込み、途方に暮れていたその時——。
「ごめんください」
道場の引き戸が静かに開き、聞き覚えのある澄んだ声が響いた。
顔を上げると、そこには先日チンピラたちを連れてやってきたスーツ姿の女性——トキが立っていた。
今日はあの男たちはおらず、彼女一人だけだ。
「あなた……何の用ですか。まだ私から何か奪う気……?」
私が身構えながら睨みつけると、トキは道場の板間にスッと視線を落とし、淡々と口を開いた。
「先日の動画の件、私どもの系列の者がずいぶんと乱暴な真似をしたようですね」
「……知ってて来たんですか。あれは罠です! 私から手を出したわけじゃない!」
「ええ、分かっていますよ。ですが、彼らにそんな理屈は通じません。手元に『あなたが自白した動画』がある以上、彼らにとってあの借金は正当なものとして扱われます」
感情の読めないガラス玉のような瞳で、トキは残酷な現実を突きつけてきた。
反論の言葉すら見つからず、私が唇を噛み締めて俯くと、トキは静かに歩み寄り、私の目の前で立ち止まった。
「今のあなたに、あの額の慰謝料を払うことは不可能でしょう。警察に行けば道場が終わる。……ですが、一つだけ借金を帳消しにする方法があります」
「帳消しに……?」
すがるような思いで顔を上げた私に、トキは冷たく言い放った。
「彼らが運営している、地下の麻雀施設があります。そこで行われるゲームに参加し、勝てばいい。勝てば、慰謝料は全額免除されます」
「ち、地下の麻雀……?」
私は呆然とその言葉を復唱した。
麻雀。名前くらいは聞いたことがあるが、私の人生にはまったく縁のない世界だ。
「無理です……! 私、麻雀なんてやったことありません。ルールすら、全然知らないのに……っ!」
半ばパニックになりながら首を振る私を、トキは静かに見下ろした。
そして、その整った顔にほんのわずかな、けれど確かな意志を宿してこう告げたのだ。
「——麻雀のルールは、私が教えます」 「え……?」
敵側の人間であるはずの彼女からの思いがけない提案に、私は言葉を失った。
なぜ、彼女が私に手を貸すのか。彼女の真意が全く読めない。
呆然とする私をじっと見つめたまま、トキは静かに、しかしひどく重い声で言った。
「ただ、あの地下の麻雀施設は狂っています」
彼女の瞳の奥には、今まで見せなかった暗く淀んだ色が渦巻いているように見えた。
「常識も、倫理も通用しない場所です。行くなら……心して臨んでください」




