一回目
九月三日、水曜日、朝七時ぴったりの目覚まし時計のアラーム音を合図に、有利の有給休暇は始まった。
起床すると、まずは切っていたスマホの電源を入れた。次に、シーツを外した布団と枕をベッドからベランダに運び、物干しにかけた。それから、タオルケットとシーツと枕カバーを洗濯機に突っ込んで、洗剤と漂白剤をセットしたらスイッチオンだ。
後ろの洗濯機の動作音を聞きながら、有利は歯磨きと洗顔でさっぱりした。それから、髪がハネていない事を洗面所の鏡で確認し、部屋に戻って部屋着に着替えた。パジャマ代わりのTシャツとハーフパンツは他の物と一緒に週末に洗うので、今は洗濯カゴの中に放置する。
ようやく頭がはっきりしてきたところで、有利は朝食を作るために冷蔵庫を開けた。
(卵の賞味期限が今日だ。まずは一個ゆで卵にして、昼と夜で三個使えばいいか)
そんな事を考えながら卵を一つ手に取り、次に冷凍室から小分けにした食パンを一枚取り出した。
今日、有利が有休を取得したのは用事があるからだ。急に戸籍謄本と印鑑証明を取らなければならなくなったので、区役所へ行くのだ。印鑑証明はまだ印鑑すら登録していない。
(時間かかりそうだなぁ。それに、待つのも嫌だなぁ)
という訳で、九時には区役所へ到着するように家を出た。
徒歩で区役所へ向かう途中、角を曲がった途端に、有利の目にあり得ない存在が映り込んだ。
(もんのすごぉい美少女!! AIはここまで進化したんだな!! 凄いな!!)
そうやって内心で混乱する程にあり得ない、同じ人類である事すら疑わしい程の美少女がこちらに向かって歩いているのが目に飛び込んできた。もしかしたら、うっすら発光しているかもしれない。
発光しているかもしれない美少女はとにかくスタイルがいい。すらっと細身なのに付くべきところにきちんと肉が付いていて、姿勢がぴしっとしている。あと、有利の手のひらでがしっと一掴みできそうな程の小顔には、ぱっちりした真ん丸の目とすっきり通った鼻筋、更に、上品なつやつやの薄めの唇がちょこんと乗っている。頬はぷっくりしていて透明感があり、色白で肌が綺麗だ。肩より少し長めのツヤツヤのストレートの黒髪もいい。
しかし、残念な事に、美少女はファッションがダサかった。クソダサかった。それは端的に表現するなら「ジョギング中です」の格好だ。黒の無地の薄手の長袖のフーディに、これまた黒のジョガーパンツで、スタイルの良さはありありと見て取れるものの、「もっと何か他にあるだろ?」とツッコミ必至の素っ気なさだ。せっかくの整った顔面を隠すかのごとしのつばの長めの何のロゴもマークも付いていない黒のキャップに、ネット通販で千円未満で売ってそうな、やっぱり黒無地のスニーカーとメッセンジャーバッグを合わせている。これがダサさを引き立たせている。
距離が縮まると、美少女が緑色のパッケージのペットボトルを左手にしっかりと掴んでいる事が分かった。体脂肪を減少する効果があるらしいトクホの緑茶、ヘルシエだ。
(水分補給は大切だからな。俺も水持ってきたらよかったな。でも、あんなに細いのにダイエット? 危険じゃないか? 痩せなくても、あなたはそのままで充分過ぎる程にAIによって生成されたCGですよ?)
そんな下世話かつお節介な想像をしつつも、
(ああ、そっか。芸能人がお忍びで何かやってるとかそういうやつか? インフルエンサーとか? これから彼氏とデートか? パパラッチがいないといいな)
美少女のダサさについてそう結論付けた有利は、なるべく無表情になるように顔を作った上で美少女とすれ違い、区役所へと急いだ。
区役所での滞在時間は意外と十五分程度だった。
(印鑑とか初めて登録したけど、あっという間だったな。職員さん、みんな優しくて優秀だな)
その事に感動し、感謝し、区役所を出た。
外出したついでに、有利はスーパーへ寄る事にした。関東を中心に展開している激安スーパー、オーライは便利だ。朝早くから開いているし、生鮮食品だけではなく日用品もお買い得で、いちいちドラッグストアへ行かなくても事足りる。
本当は土曜日にでも買い物へ行くつもりだったのだが、平日の方が空いている。
(もう野菜がピーマンと人参とタマネギしか残ってない。ピーマン買い足して、キャベツとトマトも買おう。トマト、美味しいのあるかな? あ、牛乳買おう)
冷凍できない野菜はこまめに買わないと足りなくなる。週末まで冷凍室に常備してある冷凍ブロッコリー大放出で乗り切ろうとしていたが、この機会に買い足して、ブロッコリーはそれらがなくなった時用に取っておくことにした。ちなみに、トマトは有利の大好物だ。
オーライの自動ドアから中に入ると、ひんやりとしたクーラーの風が有利を癒した。快適だ。快適なので長居したくなる。長居すると余計な物まで買って散財してしまう。そうなればオーライの作戦勝ちだ。
ところが、有利はそんなオーライの作戦には乗せられない。「今回はピーマンとキャベツとトマトを買う」という事を意識し、カゴを手にしてから青果コーナーへ一直線に進んだ。
(肉はある。今日は豚こま、明日と明後日は鶏もも。合い挽きミンチもまだあるから、精肉コーナーへは行かない。魚食べたいけど最近高いから我慢するし、鮮魚コーナーへも行かない。各種調味料もまだまだあるし、ここから乳製品コーナーへ移動したら、脇目もふらずにレジだ)
更に、今回の目的を達成するために予定を頭の中で言葉にした。こうやって強い意志を持って臨まないとオーライに負けてしまう。それ程までに魅力的なのだ。
しかし、青果コーナーにも罠はある。久しく食べていないフルーツが有利に攻撃を仕掛けてきた。
(キウイ! ぶどう! ミカン! リンゴ! 全部好き!)
ちなみに、バナナは嫌いなのでスルーだ。
惑わされる事のないように気を強く持ち、何とか目当ての野菜のみをカゴに入れてから、奥へ行くと鮮魚コーナー及び精肉コーナーが有利を攻撃すべく待機しているので、それをかわすために真ん中の通路を突っ切った。調味料やレトルト食品、缶詰などの棚が左手にあり、右手にはお菓子コーナーが見える。
有利はお菓子も買わない。
(「お菓子がなければ、白米を食べればいいのよ」って言ってたら、マリー・アントワネットは処刑されなかったんだからな)
これまではその謎理論に基づいて白米を多めに消費していたのだが、昨年から米の価格が爆上がりしているので、最近はタンパク質を少し増やして対応している。ここでお菓子を増やすと処刑されてしまうからだ。もう成長期も終わったので、間食は敵だ。お菓子は会社でたまに誰かがお裾分けしてくれるので、それで充分だ。
それから、「飲めるけど飲まない」アルコール飲料が並ぶリカーコーナーを越えたら、乳製品コーナーが見えてきた。ここにも罠はたくさんある。
(チーズが高過ぎてもう何年も食べてない。バターも倍になってるし、ずっとキャノーラ油しか食べられない。油も値上がってるけどコスパ的にマシだからな)
そんな高級食材たちが「美味しいよ」とアピールしてくる。だから、目を合わせないようにしつつ、フルーツと合わせて食べたいヨーグルトなどの棚を通り過ぎ、牛乳のエリアへ進んだ。
(牛乳も高くなったよなぁ。でも、カルシウムは大切だから仕方ない。森さんが「豚肉噛んだら歯が折れた」って言ってたもんな。あれが未来の自分にならないように、牛乳は飲まないと)
そんな極端なエピソードを参考にしている有利は、並んでいる中で一番安い牛乳を一本手に取った。
予定通りに脇目もふらずにレジへ行くと、それなりに列ができていた。老人が多い。
(いっつも思うけど、お年寄りのカゴってお惣菜が入ってる事多いよな。コスパとタイパ最強だもんな。俺も年取って体力と食欲が衰えたらそうなるんだろうな。でも、冷凍食品はあんまり見かけないかも。何でだろ? 俺は将来はどっちも効率よく取り入れよう)
そうやって老人たちのプライバシーを侵害しながら将来設計をしているうちに、有利の番がやってきた。
帰宅すると、干していた熱々の布団と枕を取り込み、ベッドに置いた。そうすると、締め切っていた部屋に布団の熱気がもわっと加わった。
(クーラーつけないと死ぬかも)
その時に頭に浮かんだのはそれだったが、寝室を出た有利の手は扇風機に伸びた。
部屋着に着替えてからある程度涼んだ後は、今日が賞味期限の卵と冷凍室にずっとある豚こまと、常備してある冷凍ご飯と、残っていた方のピーマンとタマネギと人参を使ってチャーハンを作り、蛇口に取り付けてある浄水器から出した水を添えて昼食だ。
「ピーマン、美味いな!」
これが区役所の手続き以外で有利の今日初めて発した言葉となった。
昼食後は扇風機の前でダラダラとスマホで動画鑑賞をしていたが、いつの間にか眠っていた。目を覚ますと異様に汗だくになっていて、部屋着にしているTシャツがぐっしょりとしていた。頭が痛い、顔が熱い、倦怠感が酷い。
(熱中症になったら医療費がかかるから、早く水飲まなきゃ!)
恐らく、既に軽い熱中症になっているはずなのだが、有利にとってはこの程度の症状は「まだ熱中症ではない」という認識だ。これは危険なので改めるべきだ。
慌てて起き上がったところでふらついたが、踏ん張って台所まで行き、洗って乾かしてあったコップを手にしてから蛇口を捻った。
水を飲んで落ち着いたところで、
(あ、洗濯物……)
朝から干していたシーツなどの事を思い出した。まだフラフラしているような気はするが、そろそろ取り込まないと湿ってしまう。
またダラダラ過ごしているうちに頭痛が収まったので救急車を呼ばずに済んだ有利は、夜になると、冷蔵庫から昼に作ったチャーハンを出してレンジで温めた。
(ピーマン、美味いな!)
今度は声に出さなかった。二回目なので美味しさに慣れたのかもしれない。
食事の後片付けが終わると、シャワーを浴び、扇風機の風で髪を乾かそうとした。少し前までは「ショートヘア」の範疇だったはずなのに、現時点では大分伸びて「ミディアムヘア」くらいになっている。襟足はこの間自分でバリカンで整えたのでまだ短いが、ごまかしが効かないそれ以外は伸びるまま伸ばしていた。
(六月に切ったばっかりなのに)
それが頭に浮かんだが、もう九月だ。癖のない硬いストレートの髪は乾きにくく、扇風機では追いつかないので、仕方なくドライヤーも使った。暑い。
そんな有利の有給休暇は、二十三時半頃、いつも通りにスマホの電源を切り、目覚ましのアラームをセットした約五分後に眠ったところで終了した。




