十一回目
結局眠れなくてベッドの上でスマホをいじっていた有利は、目覚まし時計の音で目を覚ました。つまり、前回が〇時になったので、そこから巻き戻ったのだろう。明日は来なかったという訳だ。
「はぁ……」
アラームを止めた有利はがっかりしてため息を吐いた。どうしても「今日」が終わらない。ののもののの仲間たちもさぞうんざりしている事だろう。
ただし、体はもう疲れていない。その事で、あの散策が「なかった事」になったのを実感した。
前回の事を踏まえて、有利はすぐさま目覚まし時計の傍に置いてあるスマホを手に取り、電源を入れた。すると、前回同様、ののからのLiNKメッセージを知らせる通知が届いた。
「おはよう
今日は区役所に行く前にファミコに来て
いいもの見せてあげる」
送信時刻は「今日6:23」だ。それ程には待たせていなかったらしい。それには安心した。
「おはよう
時間は8時半くらいでいい?
いいものって何だろう?
楽しみにしてるね」
安心したからなのか、有利はただそのメッセージに返信しただけになった。眠れない程訳が分からなかった前回の行動について何かを尋ねるでもなく、何が「進んだ」のかを確認するでもなく、言われた事に返事をしただけだ。
それでも、「スマホに文字を入力する」という行動によって段々と覚醒してきた有利は、
(会えるんだから、その時に確認すればいいや。もしかしたら向こうから説明してくれるかもしれないし)
そう考えてからLiNKを終了した。
布団を干し、洗濯と朝食を終えた有利は、前回とは違い、前々回、九回目と同じ格好に着替えた。ののが褒めてくれたのがちょっと嬉しかったし、せっかくのおしゃれなシャツを一年以上クローゼットの中に放置していたのが途端に勿体無く感じられたからだ。
(でも、こんな事に意味なんてないんだ。俺が何をしようと、それに意味なんて全くないんだ)
少しおしゃれをしたところで、その辺にいるただの自称フツメン社会人の有利が何かを変える事はないのだろう。
約束通りに八時半にファミコの前に到着した有利は驚愕した。
「美少女がいる!」
そこにおしゃれな美少女がいたからだ。
「うるさい」
むくれる美少女は、紛れもなく最高に美少女だ。
ののは美少女の格好をしていた。黒ずくめなのは同じではあるが、厚手のTシャツみたいな生地の服からは肩とお腹がチラ見えしていて、短い丈のひらっとしたスカートを履いているので太ももが半分露わになっている。この夏、よく見かける格好だ。それをののがやると「みんなこれを目指してたんだなぁ」みたいなお手本のように見える。しかも、化粧までしている。化粧はもちろん黒ずくめではなく、目元はベージュっぽくキラキラしていて、唇は赤っぽいピンクに染まっている。帽子とスニーカーとバッグは同じなのに、それまでおしゃれに見える現象が起きている。これには驚愕する他ない。
「私にもこういう格好ができるという事を証明した」
説明調のセリフも、紛れもなく最高に美少女だ。
「そうか、これが『いいもの』なんだな。ありがとう」
のののメッセージの意図をそう判断した有利はお礼を言った。
「どういたしまして」
それにシンプルに返したののは、
「……本当にこんなのでいいの? こんな安物でいいの?」
その後、ちょっと自信なさげにした。そんな美少女らしからぬ態度について、
「若いんだから安物でいいんだよ。もちろん高級なのも似合うと思うけど、充分に仕上がってるよ」
自分も「若者」の範疇であるにも関わらず、有利はしっかり反論した。その謎目線からの指摘に、
「そう? このくらいの価格帯だと、汚したり破ったりしても心置きなく雑巾に降格できるかなって思ったの」
ののは若者らしくない理由でこの服を選んだ事を明かした。
そんな会話が終了し、隙ができるや否や、おしゃれな美少女に変身中のののは有利をファミコの店内へ無言で押し込んだ。
「うわぁ!」
自動ドアにぶつかりかけた有利が声を上げても、ののは無言で後ろから押している。
中へ入ると、「っしゃいぁせー」みたいな中年女性の店員の挨拶が聞こえてきた。店内には客は二人しかいない。そうやって観察している有利を置いて、ののは無表情で迷う事なく奥にある冷凍庫へ進んだ。それから、チョコミントとミルクティーのフラッペの容器を冷凍室から出し、誰も並んでいないレジの前にそれらを置き、バッグから真っ黒な長財布を出し、そこから取り出した真っ黒なクレカで会計した。
会計が終わると、次に、レジの横にあるマシンの前に移動し、チョコミントフラッペを作り始めた。何度も繰り返しているからなのか、それとも、ただこういう事に慣れているからなのか、流れるような無駄のない動作だ。
それらが滞りなく完了すると、
「はい」
ののは笑顔付きでチョコミントフラッペを有利の方へ突き出した。先程までの無表情からの笑顔には少し驚いたが、突き出された有利は当然の質問をした。
「使わないの?」
これは紛れもなく緑の飲み物だ。パステルグリーンというかミントグリーンの飲み物だ。しかし、
「これから使うから、はい」
ののは笑顔のまま強引に有利の右手にカップを握らせた。
二人で店外へ出ると、早速、ののはニコニコしながら自分の手の中のミルクティーフラッペを飲み始めた。
「これ、初めて飲んだけど美味しい。冷たいのがいいね」
そんな下手くそな食レポを聞きつつ、
「ベージュだから使えないもんね」
ののの笑顔につられて自分も笑顔の有利がそう言うと、
「有利も飲んで。溶けるから、ほら」
何故か、ののは空いている右手を有利が持っているチョコミントフラッペの容器にかざしながら急かした。
「え?」
疑問に思った有利は首を傾げたが、
「ああ、これも使わないやつなんだ。後でお金払うね」
すぐに思い直し、ストローを吸った。
「うん、やっぱりめちゃうまだ」
何回飲んでも変わらないクオリティに満足したところで、
「これは私の奢りなの。それは揺るがないの」
ののはまた有利が首を傾げたくなるような事を言った。
今回はののと一緒に区役所へ行く事になった。この時間ならちょうどクレーマー老夫婦がクレームを付けるところに遭遇するだろう。
その道すがら、ののはとある推理を披露した。
「多分、緑の飲み物はそのチョコミントが正解なの」
しかし、その推理にはおかしな点がある。
「じゃあ、俺が飲んだら駄目じゃないの?」
これが正解の飲み物なら、有利がこの時点で半分程飲んでしまっているのはおかしい。暑い上にめちゃうまなのでどんどん減っていっているからだ。それでもののは平然としている。
「飲む人も正解なの。つまり、緑の飲み物の人は有利で、今回のターゲットなんだと思う」
そう言ってからミルクティーフラッペを吸い、「うまぁ」の顔をするので、
「何で?」
訳が分からない有利にはそう短く尋ねる事しかできない。そんな有利の困惑を知ってか知らずか、
「今回、私が手にした緑の飲み物を実際に飲んだ人は有利だけだからね。ドクトルの宇治抹茶ラテは惜しかったけど、有利が買ったし、私も飲んだから違う。チョコミントだけが当てはまる」
ののはマイペースに根拠のようなものを示したが、「根拠です」と主張するには足りない。
「ののがくれたんじゃないか。『買い取る』って言ったのに、『溶けてるから』って」
有利が自分の記憶を辿り、それがののの行動による結果であった事を指摘すると、
「あの時は試してみたの。突然声をかけられたから、緑の飲み物の人じゃないかと思って」
ののは「え?」みたいな顔をしながら説明を重ねた。「え?」だ。「え? 当たり前の事言ってるけど?」だ。しかも、
「あの時はうまくいかなかったから違うのかと思ってたけど、上司に相談したら、『もっかい飲ませてみて』って言われた。『あのチョコミントは緑ってより水色だと思うけど、その辺はののちゃんの感覚の方を優先してみよう』って」
そんな適当な感覚だけの指示で、今、有利はめちゃうまフラッペを飲んでいるようだ。噂に聞くブラック企業みたいなノリだ。
この流れでチョコミントフラッペを飲むのを躊躇している有利は、
「じゃあ、その服も?」
今回のおしゃれな装いについて質問してみた。
「うん。普段は目立たないようにあの格好なんだけど、上司に『有利が私の事をきちんと美少女だと認識した上で、服装がクソダサいって言った』って話したら、『それなら、可愛い格好して黙らせようよ』って」
すると、ののは更にブラックを濃くさせた。これはもう漆黒だ。もしかしたらこの行為はセクハラに該当するかもしれない。いや、そこまでではないかもしれない。ののの組織のコンプラがどうなっているかによる。でも、有利にとってはセクハラだ。明日出社したら、きっと自分の会社の規定を読み直す事だろう。中小企業の社内規定にセクハラについての細かい記述があるかは不明だが、書いていなければ追加するように進言するだろう。
「『クソダサい』までは言ってないよ。ののは何着ても似合うから、ちょっとくらいダサくてもいいんじゃないかな?」
有利は自分の発言によってこの漆黒の中に身を置くしかなくなったののをフォローしようとしたが、
「……いや、ごめん、口に出して言わなかったけど、確かに『クソダサい』で合ってる。『クソダサい、勿体無い』って思ったわ」
何となく、正直に伝えてしまった。
諦めてチョコミントフラッペを吸い終えた有利と、普通にミルクティーフラッペを堪能し終えたののは、程なくして区役所に到着した。
二人で空の容器をゴミ箱へ捨ててから、有利は案内係の女性に声をかけた。
「戸籍謄本と印鑑証明を出してもらいに来ました」
ののはそれをぼんやりと眺めている。
有利が順番待ちの間に提出する書類を書いていると、
「ここで婚姻届を出したら、私は寿退社だね」
ののは台に置いてある他の書類を見ながらしみじみと言った。
「相手がいないだろ」
有利が自分の手元を見ながらツッコミを入れると、
「何で知ってるの?」
ののは今度は有利の顔を覗き込みながら不思議そうにした。
「いや、知らないけど、そんな感じがした」
ののは外見は完璧美少女だが、有利にはそう感じられた。ののは外見の完璧さとは印象が違う。その事で有利は今も緊張せずにくだらない会話をする事ができているし、伝説の「気が合う」だと勘違いしそうになる事もあるくらいだ。という事は、外見だけなら相手が三百人くらいいても驚かないが、中身の方が原因でゼロなのだろうと思える。
「ねぇ、有利は私の事、本当に可愛いと思ってる? この格好もちゃんと可愛いって思ってる?」
それが中身要因だとは気づいていないのか、ののはちょっとむくれた。だから、
「可愛いよ? 世界中の人類全員がそう思ってるんじゃないかな?」
有利はフォローした後、
「でもさ、俺如きが『可愛い』って思ったところで、それに何の意味があるの? そんな事では寿退社はできないよ? 本当に寿退社したいんだったら、ちゃんと色々リサーチして行動しようね。俺はよく知らないけど、そういう出会いの場とかあるみたいだよ。成人なんだったらマッチングアプリとかいうやつもやってみたら?」
次にはちょっと説教じみた感じになった。
「えー、めんどい」
ただ、そこで嫌そうな顔で端的に拒否するののには、寿退社は難しいのかもしれない。
自分の番が来たので、ののには後ろの椅子に座って待っていてもらい、有利は窓口に進んだ。それからやっぱりスムーズに処理された後、
「そう言われても、こっちは四国まで行けないじゃないか!」
というクレーマーおじいさんの怒鳴り声を聞きつつ、無事に戸籍謄本と印鑑証明を受け取った。
区役所から出る間際、ギリギリクーラーが効いている玄関で、ののはこれからの予定を発表した。
「次は私と一緒にあのヒゲをやっつけてもらいます」
ちょっと胸を張り、スカートの裾を揺らしながらの発表に、
「ど素人の俺もやっつけてもいいの?」
有利は当然の質問をしたが、
「一般人に怪我とかさせたら国から怒られるんだけど、まあ、有利なら大丈夫だよ。殺された以外は無傷だったんだからね」
まだまだ得意気なののは物凄く両極端な事を持ち出した。しかも、「国」だ。何だか大ごとだ。
「あのリュックは危険なんだよ。何で包丁が剥き出しで入ってるんだよ。普通、何かに入れたりとか、何かで巻いたりとかするだろ。そんな危険なリュックで俺が怪我しちゃったらののが叱られるって事なんだな。で、本当にど素人の俺もやっつけてもいいの?」
不穏な空気を感じた有利が改めて質問すると、
「うーん、いいんじゃない? いいよね?」
途端にののは曖昧になった。
しかし、どうやら予定は決定しているようなので、これについても諦めた有利はののと二人で現場へ向かった。その道中、
「殺された時、私はあのヒゲが明らかに普通じゃない動きをしてたから、上手い事路地に誘い込んだの。でも、そこまでしか上手い事いかなかった。誘い込んだと思ったら不意打ちで殺された」
といううっかり美少女ののの話を聞いたので、やっぱり髭もじゃ男には途中で声をかける事はせず、大通りまで尾行する事に決めた。
あの路地がギリギリ目視できる建物の陰で待機していると、またダサい白T姿の髭もじゃ男が現れたので、有利とののはかなり距離を取った上で尾行した。尾行中は九回目と違って建物の陰に隠れたりはしていないが、三十メートルは離れているので気づかれたりはしないだろう。巻き戻っているのだから、髭もじゃ男がどこへ向かって歩いているのかはよく知っている。ののはどうだか知らないが、ど素人の有利が距離を詰めるのは愚策でしかない。
しかし、大通りが近づくと、二人はその距離を少しずつ詰め始めた。六回目も九回目も尾行には気づかれなかったが、だからと言って油断はできない。髭もじゃ男には変化がなくても、二人はそうではない。二人の変化によって、髭もじゃ男にもまた変化が表れるかもしれない。
有利は緊張していた。今回初めて「自分が怪我をしたらののたちに迷惑がかかる」という事を知った。これまでの二回については「まあ、死ななきゃいいか」くらいの気持ちだったかもしれないが、それではいけない。しかし、こうも考えていた。
(でも、全治二週間くらいまでなら別にいいや。それくらいなら「え、怪我とかしてないですけど?」で押し通せる)
本当にそれでいいのかは分からないし、多分駄目なのだろうが、そのくらいの余白を作らないと失敗するかもしれないからだ。
髭もじゃ男は通り魔を計画するくらいなのだから、通常の精神状態ではないのだろう。包丁を剥き出しのままリュックに収納しているような人物の精神状態など通常の思考の一般人には計り知れないだろうが、緊張している有利よりもよっぽど緊張しているだろうし、「全治二週間までならいける」とか考える以上に訳が分からなくなっているはずだ。だからなのか、有利たちが背後五メートルの距離まで迫っている事に全く気づく様子がない。それでも、普通ではないのだから、どんなきっかけで気づき、包丁を胸に突き立ててくるかは分からない。
その時は来た。髭もじゃ男は大通りに到着すると、背負っていたリュックを肩から外した。また前に抱えようとしていると思われるが、有利はその挙動について確認する前に飛び出した。
「おい!」
注意を引くように声を上げた後、髭もじゃ男の肩を掴むと、
「んぁっ!?」
九回目は「何っ!?」と発音できたのに、今回は言葉ではない声を発した。そんな差異を認識する余裕のない有利は、無言のまま前に抱えているリュックを下向きに力一杯引っ張り、地面に落とした後蹴飛ばした。
「よし!」
そして、自分が全くの無傷である事を確認してから、素早く前に回って髭もじゃ男に足払いをかけた。これは九回目よりも上手く鮮やかにかけられた。
「よし!」
それにも満足してから、有利は横向きに倒れた髭もじゃ男をうつ伏せにし、見た事があるような気がしないでもない何らかの映像的なやつの真似をして、両腕を腰のところでホールドし、その上に跨った。
その後、呻いている髭もじゃ男の傍へしゃがみ込んだののが、かなり地面スレスレの位置にあるにも関わらず、慣れた手付きで首を締めて落とした。
「あ、大きな包丁を持ったおじさんがいます」
そして、バッグから取り出した黒ずくめのスマホで通報した。
しばらくはぐったり気絶している髭もじゃ男を眺めていたが、パトカーのサイレンが聞こえたので、有利とののはあのマクタへ入った。
またガラス越しに大通りを観察しながら、
「警察官も野次馬も変わらないね。登場人物が全くおんなじ」
有利が感想を伝えると、
「でも、いる場所が毎回ちょっとずつ違う」
ののはその感想について指摘した。
「言われてみればそうだな。あの金髪の兄ちゃんは毎回叱られてるけど、叱ってる警察官は今回は違う人だね」
だから、有利が気づいた事を挙げてみたところ、
「あの金髪、毎回ヒゲの写真かビデオか何か一生懸命撮ってるよね。何に使うんだろ? 多分、そんなに高くは売れないよね?」
ののはその金髪の青年についての疑問を口にした。
「俺ならパトカーが来るような事件だったらその場から離れる事に必死になると思うけど、あの兄ちゃんは逆に近づいちゃうんだよなぁ。ちょっとでもお金が欲しいからマスコミに売ろうとしてやってるのか、そうじゃなくて、趣味で撮ってるのか、趣味じゃないけど寝る前とかに見たいからなのか、何か色々浮かぶけど、俺にはあり得ない事だから分からないな」
でも、有利にもそれは疑問だ。金髪の青年は毎回彼女らしき人に服を引っ張られながらも撮影し、毎回警察官に嗜められるのを繰り返している。自分にはない行動を取る他人の事は想像しても理解が及ばない。共感できない。
(あ、利加になら分かるのかな?)
そこで、自分には理解が及ばない、共感できない妹の事が頭に浮かんだ。
無事に髭もじゃ男が連行された事を目視確認した後は、またマクタで昼食をとる事になった。ののは相変わらず「ビッグマクタLセット野菜ジュース添え」だ。
「有利は少食だよね」
一方、有利は毎回同じメニューだ。専門学校生の頃からバイト代を切り詰めて少しずつ貯金をしていたので、マクタに誘われた時はいつもこれだった。就職してからは店内に入った事すらなかった有利にとっては、その習慣が更新されず、「マクタと言えばこれ」なのだ。
「少食じゃないよ。今日は晩御飯を沢山食べるからいいの。それに、これ、チーズが入ってるんだ。豪華だろ?」
そう言ってから、有利はチーズバーガーを齧った。
さて、ここまでは割と普段通りだ。「有利がターゲットかもしれない、いや、そうだ」と決め付けられている以外は普段通りだ。
という訳で、これから有利は普段通りに帰宅となる。
「俺はこれから家に帰るけど、ののはどうするの?」
マクタを出てから自宅のある方向に体を向けた有利が尋ねると、ののは美少女にあるまじき発言ををした。
「私も有利のお家に行く」
「駄目!」
それに脊髄反射で断固拒否しても、
「だって、今日はまだ終わってないんだよ? むしろこれからだよ」
あくまでマイペースに、うっすら笑いながら返すのみだ。
確かに、仮に有利がターゲットであるなら、ののは午後からもずっと有利を見張り、ターゲットかどうかを確認する必要があるのかもしれない。そして、ターゲットと断定した時点で、巻き戻りを解消すべく行動しなければならないだろう。それが仕事だからだ。しかし、
「ここまでは人がいたから別によかったけど、ここからは誰か大人の男の人に来てもらって。いるんだろ? 男の人」
有利は大人の男の人なので、大人の女の人を自分の家に入れてはいけない事をよく理解している。大人でなければもっと駄目だ。次は自分の家にパトカーが来る事態に発展してしまう。
「いるよ。今回は加賀さんがこの辺にいるし」
それについては、ののは有利が知らない人の名前を出しつつ、
「でも、加賀さんは有利のお家には入らないよ。お家の周辺をウロウロするだけ」
作戦めいたものも出したりもした。
「逆だろ……」
それにはがっかりの有利に、
「午後からも有利の事を近くで観察したいの。加賀さんよりも私の方が有利の事をよく知ってるし、加賀さんは有利がターゲットじゃなかった時のために動いてるから、観察するなら私なんだよ」
引き続き、ののは穴だらけの作戦めいたものの説明をしたが、これは先程の「逆だろ」の回答にはなっていない。
「逆でいいじゃない。むしろ逆の方がいいじゃない。ののだって俺の事なんかそんなに知らないんだから、ののの方が周辺をウロウロでいいんだよ。俺はその加賀さんに見張られながら家でまったりする。そんで、加賀さんだけに俺の全てを知ってもらうよ」
こうやって有利にツッコミを入れられる隙すら与えている。
ののは少しだけ考える素振りを見せた後、
「散らかってても構わないよ」
にっこりしながら見当外れな事を言った。どうやら有利が拒否している理由を理解できていないようだ。美少女なのに危機管理能力が欠如している。し過ぎている。美少女ではない人でも、仮に男子であったとしても充分に危険なのに、これが美少女なのだから、このままではいつか大変な事が起きてしまう。その事に有利が更にがっかりしていると、ののはまた美少女にあるまじき発言をした。
「変なティッシュとかあっても平気だよ。……いや、平気じゃないわ。ごめん、嘘ついたわ。それは先に処理して。その後入るから」
「そんなもんねぇわ! 処理済みだわ!」
がっかりしていたからか、脊髄反射の有利の口からは危うい事実が飛び出した。
「じゃあいいじゃない」
それを気にしていないのか、ののはにっこりが継続中だ。
埒が明かないので、
「加賀さんに連絡取れない? 『交代して』とか。それか、この作戦行動の正当性について偉い人に確認したりとかできない?」
身体的にも正常な大人の男の人である有利は、色々ちょっと足りない美少女に提案した。
「えー」
不服そうなののに、
「ののは『三日で後悔した』って言ってたけどさ、組織の人たちはののの事大切にしてくれないの? こんなゴミみたいな男の家に二人っきりにされるなんて拷問じゃないか。いつもこんな命令ばっかりされてるの?」
心の底からの心配とか不安をぶつけても、
「『ゴミ』って何? 私が知ってる言葉で合ってる? それともスラング?」
あくまでののはマイペースだ。
話が全く進まない。先程までは涼しいマクタの店内にいたが、今は灼熱の店外にいる。
「とにかく、偉い人に『男の人と交代させてください』って言うんだよ」
それが苛立たせたのか、それとも別の事が原因なのか、有利は少しぶっきらぼうになってしまった。
(……強く言い過ぎた)
それを後悔していると、
「分かったよ。めんどいなぁ、もう」
不服そうな表情はそのままだが、ようやくののはバッグの中からスマホを出した。
有利は区役所へ行く前の会話の内容を意識の外に置いていた。覚えていない訳ではないのだが、この時ばかりは気にしていなかった。だから、
「私でいいって。私がお家の中から有利を観察して、加賀さんはお家の外をウロウロしつつ、有利以外にターゲットっぽい人がいたらその人に接触するんだって。当初の予定通りだね」
通話を終えたののが何て事のないような表情で報告した事により、
「ああ、ブラックだったわ!」
突然、それがきちんと蘇った。美少女に訳が分からない事をさせるセクハラ組織だ。もう何を言っても駄目なのだろう。実際に駄目だった。
「『ブラック』? ああ、『ブラック企業』みたいな? それなら分かるよ。確かにうちはブラックと言えなくもないね」
組織の構成員であるところのののまでもがそう証言しているのだから、もう絶対に何もかもが駄目なブラック組織なのだろう。
ブラック組織に屈した有利は、仕方なくののをマンションの自分の部屋へ入れた。
「片付いてるね」
まず、狭い玄関を見回したののが感想を述べると、
「普通じゃない?」
謙遜でも何でもなく、有利は本心をそのまま返した。
「え、そうなの? じゃあ、私ん家がおかしいのか」
すると、ののがちょっと肩を落としたので、
「まあ、俺はあんまり靴も傘も持ってないし、片付けとか掃除とかがしやすいってのはあるね」
とりあえずフォローしておくことにした。
それから、恐らく普通の狭さの浴室とトイレが両脇にある狭い廊下を五歩くらい進むと、リビングダイニング、つまり、狭い台所付きの狭い部屋へのドアに到着した。ドアを開けるや否や、
「やっぱり片付いてるね。これは片付いてる方だよ。うん、私はおかしくない。多分、私の方が普通」
ののはまた感想を述べた。少し浮上したようだ。
「いやいや、窓閉めて出たから朝のトーストとゆで卵の臭いがまだ残ってる気がするし、床は昨日拭いたけど壁は日曜に拭いたっきりだから、あんまり綺麗じゃないんだ」
そこでまた有利が本心をそのまま返すと、
「えー、そんな臭いしないよ? 有利って潔癖なの? 壁って拭いたりするもんなの? どうやって?」
ののは自分では掃除をしないのか、なかなか大雑把で世間知らずっぽい発言が飛び出した。
「雑巾で拭いたりとかはしないけど、使い捨てシートをくっつけて使うタイプの柄の長いモップみたいな掃除用具があるから、それでやってるよ。天井も拭きやすいんだ」
だから、掃除方法をレクチャーすると、
「天井も拭くの? え、そうなの? そんな人見た事ないよ?」
ののは目を丸くした。しかし、がっかりはしない。
この狭い部屋には真ん中の折り畳み式のローテーブルと傍に置いてある扇風機、あとは壁際のWi-Fiの機械しか置いていない。その中の唯一の家具らしい家具であるローテーブルの前の座布団にののが座り込んだのを見てから、
「ちょっと洗濯物取り込んでくるね」
有利はうっすら汗をかいている美少女に気を遣い、壁に掛けてあるエアコンのリモコンのスイッチを押した。
隣の寝室からベランダへ出ると、有利は布団と洗濯物を取り込んだ。髭もじゃ男をやっつけつつマクタへ行くと帰宅時間が遅くなるので、布団は湿っているのかと思いきや、きちんと乾いている。シーツなどの洗濯物の方はこの暑さのせいでパリパリだ。その事は六回目で判明した。五回目は除くとして、四回目まではシーツの方を後で取り込んでいたが、そうしなくても現時点で完璧に乾いているので、忘れないうちに布団と一緒に取り込む事にしている。ちなみに、前回の十回目においては、動き回る事を見越して、布団は出かける前に取り込んでいた。
パリパリの洗濯物を取り込んだ後、エアコンが効いた部屋に戻ると、ののがローテーブルに突っ伏しているのが目に入った。
「え?」
その瞬間、五回目の路地で倒れていたののの姿が頭に浮かび、背筋に冷たい衝撃が走った。だから、ローテーブルまで一歩で駆け寄り、ののの隣に座り込んだ。しかし、肩に手をかけようとしたところで気づいた。
(寝てる……)
ののの背中は規則的に上下している。顔を覗いてみると、ありとあらゆる筋肉が弛緩しているような、あどけない寝顔をしていた。更に、耳を顔の傍へ近づけてみると、穏やかな寝息が聞こえてきた。
(よかった)
心底安堵した有利はローテーブルから離れて、壁に背中を預けて座った。
その時、有利はおかしな気持ちになった。
(何で、こんな美少女が部屋にいるのに、俺は何もしないんだろう……)
それはそういうおかしさだった。方法はネット等から得た知識により把握しているので、実際に行った事がなくてもできるはずだ。多分そうだ。もちろん、人として踏み越えてはいけない線を引く事はできるので、実行に移す事はあり得ない。それに、ののがここにいる事は組織が把握しているし、線を踏み越えた時、恐らく、有利は鮮やかな手際でののに首を絞められて意識を奪われるのだろう。しかし、それとは無関係なおかしさだ。そのおかしさについて考えを巡らせているうちに、
(あー、そうか。格差があり過ぎて、そんな気も起きないんだ)
という結論に至った。
その結論により、有利の思考は少し大袈裟な方向に傾いた。
(俺はこの二十二年以上の間、何やってたんだろうな……)
美少女に負けないくらいの美青年に生まれる事ができなかったとしても、それを補う何かがあれば格差は生まれない。そんな人たちは沢山いる。才能がなかったとしても、努力で自分を高めている人なんてごまんといる。それなのに、有利はそうではない。
(家を出られただけで幸せだって思ってたけど、幸せレベルが低過ぎる気がしないでもないな。俺、もっと頑張らないと)
そんな事を考える有利は、努力が足りないのだろう。
(でも、至近距離で美少女の寝顔を見られたのは、幸せレベル高めかもな)
そんな事を考える有利は、レベルが低いのだろう。
有利はクローゼットから出してきたバスタオルをののの肩にかけてから、扇風機を寝室に移動させ、床に座ってベッドにもたれながら風を浴びた。しばらくそうしていたが、朝着ていた部屋着に着替え、スマホを手に取り、Webブラウザを起動した。今日はまだ今日なので、動画サイトのお勧めの表示は全く同じだ。
しばらくその同じお勧め動画を同じように閲覧していたが、違う物も見たくなった。当然と言えば当然だ。もう十回も見ている。中には何度見ても面白い物もあるが、内容を知っているのだから新たな感動は生まれない。しかし、無趣味な有利には思いつきもしない。
隣の部屋からは物音一つしない。ののはまだ眠っているのだろう。
(あ、喉乾いたな)
そう思ったのは三度目だったが、眠っているののの邪魔にならないように我慢していた。それでも、二度と死にたくないので、有利はそーっと立ち上がり、そーっとドアを開け、そーっと台所のシンクの所まで行き、そーっとマイボトルとコップに水を入れた。
(うん、寝てるな)
そして、ののの背中が規則正しく動いている事を確かめてから、またそーっと寝室へ戻った。
そうやって気を遣ったりしていたのに、
(何で起きないんだ?)
有利が台所で夕食の準備を始めても、ののは一向に起きない。なるべく音を出さないようにはしてみたが、無音にできるはずなどないし、換気扇を「強」で動かしているので結構うるさいはずだ。しかも、タマネギの刺激臭やら鶏肉の焼ける匂いやらがしているので、それによって目を覚ますかもしれないとも思ったが、全く起きる様子がない。
ここで、有利は前回のLiNKメッセージの受信時刻を思い出した。
(もしかしたら、昨日からずっと起きてたのかな?)
それは推測でしかない。今回は「6:23」なので、前回は起きていたが、今回は六時二十分に起きたのかもしれない。〇時の時点では起きていたが、二時に寝て六時に起きたのかもしれない。しかし、有利はそう考えた。仮眠くらいは取ったりしたかもしれないが、きっとまともには眠れていないのだろうと感じた。そのくらいの爆睡っぷりだからだ。
夕食が出来上がっても、ののは爆睡中だ。
「のの、そろそろ起きよう。ご飯だよ」
有利が声をかけながらバスタオル越しに肩を揺すっても爆睡中だ。
「のの、疲れてるとは思うけど、こんな所で寝たら駄目だよ」
少し声を大きくしても、少し揺する力を強くしても爆睡中だ。
「起きて。早く起きないとご飯が冷めちゃうよ。冷めたら美味しくないよ」
また更に声を大きくし、揺する力を強くしたところで、
「んー……」
ようやく、ののは頭だけを動かした。
ののがバスタオルを畳んでいる最中、有利はローテーブルの上に皿とスプーンを置いた。
「専業主婦に憧れてるんだったら、俺から料理を学ぶといい」
そして、自慢げにしながら皿に乗ったオムライスに手を向けた。前回までは卵の賞味期限がやばいという理由でチャーハンを作ったが、豚コマを鶏モモに変えたらオムライスが出来た。メニューを変更したのは、お客さんにチャーハンを出す訳にはいかないからだ。
「わぁ!」
テーブルの上の残り物で出来た料理を見て、寝起きの美少女は喜んだ。
「でも、私にはできないね」
そして、すぐに諦めた。
有利はののが畳んで床に置いていたバスタオルを取り、ののの向かい側に置いた。それから、台所へ戻り、冷蔵庫に入れていた浄水器の水入りマグカップとコップを持ってくると、
「今、飲み物が水と牛乳しかないんだ。ごめんね。牛乳は合わないと思うんだけど、そっちのがいい?」
マグカップの方をののの前に置き、コップを手前側に置いてから、バスタオルの上に座った。
「え、別にいいけど? オムライスには水でいいと思うけど?」
しかし、ののは全く気にしていない素振りでオムライスをガン見している。
「それならよかった。じゃあ、食べよう」
それに安心すると、
「うん。いただきます」
ののは満面の笑みを浮かべながら有利の方を向き、スプーンを手に取った。
「いただきます」
だから、有利も笑顔になった。
オムライスはめちゃうまだった。有利は自分で作った物であるにも関わらず、卵の火加減にも、大きめに切った鶏肉にも、細かく切り刻んだ野菜にも、味付けのケチャップと塩とブラックペッパーと少量のコンソメの加減についても大満足だ。
「すっごく美味しいね。鶏肉だけじゃなくて、ちゃんとピーマンと人参が入ってる。野菜大好き」
そして、ののも大満足の様子だ。
(俺が美味しいってだけじゃないのは、何となく嬉しいもんだな)
実家で作っていた時には文句しか言われなかった。
(「何でオムライスに野菜入れるの?」とか、「何でオムライスなのに卵で巻かずにオムレツを上に乗せてるの?」とか、言いたい放題で言われっ放しだったもんな。それでも、俺は野菜嫌いのお母さんと利加に野菜を摂取してもらいたかったし、お父さんのおつまみも糖質とプリン体控えめで作ったりしてた。それなのにあん肝とか自分で買ってきてたけどな、あの人。足痛いからって夜中に救急車呼んだりとかするし)
偏食の母と妹と、痛風や糖尿病やその他の病気を複数抱えていた父の事を思い返していたら、
「褒めてくれてありがとう。何か、やる気出てきた」
自然とお礼の言葉が口から出てきた。
食事が終わり、皿と食器に水を張った後、有利はまたバスタオルの上に座った。
「じゃあ、私は〇時までここにいるね」
向かいの座布団の上のののが予定を発表したので、
「本当は夜遅くまで女の子がこんな所にいるもんじゃないんだけど、この正論が組織の前では通用しないって事は分かってる。だから構わないけど、嫌だって思ったらすぐに帰るんだよ? ちゃんと自分の事を優先するんだよ?」
全てを諦めている有利は、嗜めながらも了承の意を伝えた。
「嫌じゃないよ。よく寝たから起きてられるし、ご飯美味しかったし」
やっぱりののには危機管理能力が欠如しているようだが、
「それなら、寿退社後の専業主婦ライフのために、家事について勉強しようか」
せめて、ここから出る時には何かを得られていたらいいと考え、そう提案した。
通常時の有利の予定は、食事の後は皿に水を張って三十分程度放置している間に掃除機をかけ、拭き掃除をし、それから洗い物だ。それらが全て終わると床の上でゴロゴロし、夏は寝る直前、十時半頃に入浴となる。
今回はののに家事を教える事にしたが、その前に、まずは「入浴」を先に持ってくる事にした。ただし、本当に入浴する訳ではない。ののの小さなメッセンジャーバッグに着替えが入っていない事は一目瞭然だからだ。そして、有利が女性ものの服を所有しているはずもない。服は男性ものでもいいかもしれないが、下着がない。という訳で、
「汗かいたから気持ち悪いんじゃない? これ使って。メンズだけど無香料だし、スースーしないやつだから肌も荒れにくいと思うよ」
有利はリュックに入れたままにしていた汗拭きシートを取り出し、ののに手渡した。
「ありがとう」
ののはにっこりしながら受け取り、それをローテーブルに置いた後、おもむろに自分の服に手をかけた。
「ああああ!! 違うぅ! 風呂場ぁ! 風呂場でやってぇ!」
チラ見えだったお腹が全開になる前に目を逸らし、廊下の方を指差した有利が慌てふためきながら懇願すると、
「ああ!」
ののはそれに「今分かったわぁ!」みたいな顔をしながら声を上げた。この事により、想定よりも大分危機管理能力が低い事が判明した。美少女の今後が心配だ。
ののが終わると、有利は自分も浴室へ移動した。パンイチになり、一生懸命に体を拭いた後、両手をパタパタさせて乾かした。有利には着替えがあるのだから入浴しても良さそうなものだが、
(ののが我慢してるのに俺だけさっぱりしてもなぁ。明日が来て、ののが帰ったらシャワー浴びよう)
という予定を立てたので、今は汗拭きシートのみだ。
その後は今回のメインイベント、壁掃除だ。いつもは日曜日のみだが、ののが興味津々なので特別に披露する。
「これ、うちにもあるよ。床掃除用じゃなかったんだ」
柄の長いワイパーをまじまじと見ながら、ののが新事実の発覚に胸を躍らせている様子を横目に、
「本来は床用だよ。でも、床は雑巾で拭けるからね」
有利は説明しつつも使い捨てシートをセットし、ワイパーの柄を握り、軽い力で壁を拭き始めた。
「おー……」
白無地の壁紙を撫でる様子が珍しいのか、ののは感嘆の声を上げた。
「やってみる?」
有利がワイパーを突き出すと、
「うん!」
ののは嬉しそうに受け取った。
二人で壁を拭き終えると、今度は天井だ。
「電気は拭かないの?」
器用に天井を撫でている有利に、ののは照明器具を見ながら質問した。
「うん。月イチくらいの頻度で外して布で拭くからね」
それに答えると、
「それは私もやってるわ。でも、年イチだね。虫がいっぱい溜まってるの」
ののは美少女なのになかなかグロい事を言い出した。
「いっぱい溜まる前にこまめにやったらいいって思わない?」
しかし、有利は気にしない。いっぱいの虫はグロいからだ。
次は掃除機だ。
「ガシガシかけてもゴミは吸い取れない。だから、ゆっくり動かすんだよ」
廊下で有利が説明しながらお手本を見せると、
「本当だ。ランプが緑に変わった」
ののは掃除機のゴミ検知機能のランプを見ながら感心している。
「私もやってみたい」
その申し出を受けて、
「じゃあ、その間に拭き掃除やるから、ののはこっちをやってみて。『自動』ってボタンを押したら起動するから」
有利は掃除機を手渡した。
ののが掃除機をゆっくり上手にかけているのを見守りながら、有利は掃除機が終わったエリアを拭いた。それにも、
「その継ぎ目の所、拭いた事なかったわ」
ののは床と壁のジョイント部分を細かく拭いている有利を見ながら感心している。
掃除は廊下とリビングダイニングのみで、寝室は飛ばす事にした。流石に寝室を見られるのは恥ずかしいからだ。更に、トイレと浴室はハードルが高いのでナシだ。
次は洗い物だ。
「水を張ってたらあんまりゴシゴシしなくても汚れが取れるから、きっちり並々張るんだ。それから、水を捨ててからちょっとだけお皿にも洗剤を出して、それを広げると油汚れも落ちやすくなる。まな板も臭いが付きやすいから洗剤を足すけど、油っぽくない食器の場合はスポンジの洗剤だけでいいよ」
有利が手順を説明すると、
「あんまり洗剤とか水を使い過ぎると、環境汚染になるって聞いたよ」
ののがサステナビリティ重視の発言をしたので、
「そんな危険な物質が洗剤に含まれてるとは思えないけどなぁ。界面活性剤とかがよくないって説? それに、汚れを落とすのには結局それだけの洗剤がいるんだよ。むしろ、油汚れにだけ足すのは節約になるって俺は思ってる。水だって、汚れ落ちがいいと少なくて済むんじゃないの?」
そっち方面については無知な有利は独自の見解を述べた。子供の頃から十五年くらい洗い物をしていて、この方法が一番洗剤も水も減らせると考えている。ただの節約術だったが、環境にも優しいのかもしれない。
その後、コップを洗おうとして別のスポンジを取ると、
「コップはスポンジを分けてるの?」
その行動にも質問されたので、
「そうだよ。俺、ほぼ水しか飲まないから、基本的にコップには水垢と俺由来の成分しか付着しないんだ。汚い事は汚いけど、油とか渋とか糖分とかは付かないから、別のスポンジでやってる。牛乳の時は普通の方で洗うよ。それで、普通のが古くなったらこっちを普通用にして、新しいのをコップ用にしてるよ」
その根拠を説明すると、
「私はミルクティーとか飲むから違うけど、でも、コップ類は分けたくなってきた」
ののはやる気になったようだ。
次の質問は、
「フライパンは洗わないの?」
だ。
「うん。これはテフロン加工がしてあるから、完全に冷めてから寝る前に水を張って、朝ご飯の洗い物の時に一緒にやるんだ。まあ、臭いは台所に残っちゃうけど、フライパンを買い替える時期を遅らせるためには仕方ないんだ。普通の鍋ならすぐに洗うよ」
それにも根拠を説明したところ、
「えっ、あっつあつのまま洗ってたわ。料理なんて滅多にしないけど、しないからこそ知らなかったわ。やばい」
ののは慌て始めた。
掃除と洗い物を終えると、有利はののにWi-Fiのパスワードを教え、二人でそれぞれのスマホを見ながら、ローテーブルの前で向かい合ってダラダラした。
「そうだ。俺、無趣味過ぎて動画のお勧めが決まりきったやつしか出てこなくなったんだよ。人力のお勧めを追加したいから、いつもどんなの見てるか教えてくれる?」
ダラダラしつつも、有利は死んだ時以外、十回見たお勧めに別のものを追加するために質問した。
「いいよ。ちょっと待ってね」
すると、ののは自分のスマホをポチポチしてから、
「こういうやつ」
動画サイトの登録チャンネルの一覧を見せてくれた。
「知らない人ばっかりだ。今時の美少女はこういうやつを見るんだね」
それに有利が感心していると、
「これはイギリス国営放送のニュースチャンネル、この人は日本語講師、この人も日本語講師、ここからここまではミュージシャン、これとこれは日本の文化紹介チャンネル、またミュージシャン、この人はワークアウト、この人もワークアウトしてるけど間違った事ばっかり言ってるから笑う時用、あと、この人はファンからお金を巻き上げてるから、訴えられたらいいなって思って見守ってる」
ののは解説してくれたが、どうも美少女のラインナップとは趣が違うようだ。辛うじて「ミュージシャン」のカテゴリーがそれっぽいが、全員外国人のようで、何語の名前なのか分からない人も含まれている。
「外国の音楽聴くんだね。今、K-POPとかいうのが流行ってるんだろ? 俺の周りにも好きな人多いみたいだよ」
その「何語か分からない」がK-POPなのかと思いきや、
「流行ってるよね。でも、私は聴かないな。ヨーロッパで手一杯なの。日本のもアメリカのも知らない」
その回答から、ミュージシャンは全員ヨーロッパ人である事が明らかとなった。
有利はののの登録チャンネルの中から「日本の文化紹介チャンネル」のうちの一つを選んでみた。すると、
「英語!」
最新動画の初っ端から、テンション高めの外国人男性っぽい人が英語で喋り倒していた。タイトルもサムネイルも英語なので当然なのだが、中身に日本語字幕くらいは付いているのかと思っていた有利は諦めそうになった。しかし、
「……何言ってるか分かんないとこもたまにあるけど、楽しそうだし、自動生成の日本語字幕出したらいけそうだな」
という事がすぐに分かったので、そのチャンネルを登録した。
次は有利の登録チャンネル披露の番だ。
「お料理とゲームが多いんだね。ゲームの機械は隣のお部屋にあるの?」
ののが鋭い指摘を繰り出した。
「エアプなんだよ。ゲーム機はこれまで生きてきた二十二年間、一度も手にした事ないよ。妹は買ってもらってたけど、俺のじゃなかった」
その指摘について有利が説明すると、
「『エアプ』? 『エア……プ』?」
途端に混乱し始めたので、
「『エアプレイ』の略だよ。『エアギター』みたいに、ゲームをプレイしてもいないのにプレイした気持ちになるって事。ギターとは違って、ただ他の人がプレイしてる動画を眺めるだけなんだけどね」
言葉の意味について詳細に解説しておいた。
そうやって登録チャンネル交換みたいな事をやった後は、それぞれにその成果について確認した。有利は外国人に日本の文化を紹介してもらったし、ののは日本人に手抜き料理を紹介してもらった。
それはなかなか興味深かった。二人ともイヤホンを付けているのだが、
「おぉ!」
有利が感動の声を上げたり、
「おぅ……」
ののが感嘆の声を漏らしたりしたので、それは互いにそうだと分かった。
――そうこうしてるうちに、〇時を迎えた。




