第八話 青空を嫌う女
都心を見下ろす高層ビル、その最上階。
静まり返った一角の執務室で、一人の女が淡々とパソコンへ視線を落としていた。
高級感のあるレディーススーツ。
だが、いかにも仕事人然と着こなしているわけではない。
その服が本来持つ品格に合わせるように、女はごく自然にそれをまとっていた。
余計な力みはない。
それでいて、部屋の空気そのものが彼女を中心に整えられているような錯覚がある。
やがて作業の手を止めると、女は小さく伸びをした。
長い指先が揃えられ、肩の線がゆるやかにほどける。
そのまま大きな窓の前まで歩み寄り、眼下ではなく空を見上げた。
雲ひとつない、透き通るような青空だった。
女は露骨に眉をひそめる。
「……どうりで気分が優れないと思ったら」
窓辺のアコーディオンカーテンを、ぱたりと閉じる。
「最悪の天気だこと」
その声音には、本気の嫌悪がにじんでいた。
机へ戻り、新聞へ手を伸ばしかけた、その時。
室内のインターホンが鳴る。
女は面倒そうに目を細めた。
「何かしら?」
少し気だるく、それでいてよく通るハスキーな声。
すぐに応答が返る。
『失礼いたします、社長。本日午後からのご予定ですが――』
「悪いけれど、午後の予定はすべてキャンセルしてちょうだい」
相手が言葉を継ぐ前に、女は静かに遮った。
『……急なご用件が?』
「ええ。少しね」
有無を言わせぬ声音だった。
「ほかに用件は?」
『い、いえ……承知いたしました。そのように処理いたします』
受話口の向こうで、若い秘書らしき女性がわずかに慌てる気配がする。
『もし急ぎの案件が入りましたら、いかがいたしましょうか』
「メールを入れてちょうだい」
女は椅子へ腰を下ろしながら答えた。
「返せる時は返すわ。しばらく返信がなければ……あなたの判断で上手く処理して」
『かしこまりました。失礼いたします』
通信が切れる。
静寂が戻った。
女は応接セットのソファへ移り、冷めかけた紅茶へ手を伸ばす。
その瞬間だった。
空気が変わった。
人の気配ではない。
もっと粘ついた、傲慢で不快な圧力。
女はすっと立ち上がる。
そして胸へ手を当て、深く一礼した。
「これは……レガス様。お久しぶりでございます」
誰もいない部屋へ向かって、丁寧に頭を下げる。
姿はない。
だが確かに、“そこにいる”。
『……ふん。相変わらず陰気な部屋だな』
声ではない。
感情そのものが、頭の奥へ直接流れ込んでくる。
「このような不躾な部屋へ、わざわざお越しいただけるとは……感無量にございます」
『世辞はよい。思ってもないことをほざくな』
女はうっすらと笑みを浮かべた。
否定はしない。
『ところで最近、この界隈を不愉快なネズミがうろついておる。知っておろうな?』
「ええ。存じ上げております」
『そのネズミと、お主の主人――ラストルートが接触したそうだが』
「さあ……それは存じ上げません」
あくまで柔らかく。
だが一歩も引かぬ声音だった。
『しかも、そのまま生かしておるらしい』
部屋の温度が、わずかに下がる。
『我らの間に不要な規律などない。だが常識として、そのようなネズミは処分するのが当然ではないのか?』
女は少しだけ目を伏せた。
「その判断は、私のような者には過ぎたことかと」
「我らアンダーズ・ナイツは、上位種たるクラウン・ラストの方々に従うのみでございます」
『……ふん。心にもないことを』
レガスの気配が、嘲るように揺らぐ。
『まあよい。そこらの考えとやらを、儂にも説明するよう主人へ伝えよ』
「はっ。しかと承りました」
『申し付けておくぞ……ソルロア・クリュシュ!』
その一言を最後に、圧力はふっと消えた。
部屋に残るのは、紅茶の香りだけだった。
女は何事もなかったようにソファへ腰を下ろす。
カップを取り上げ、優雅な所作でひと口。
それから、誰もいない空間へ小さく吐き捨てた。
「……短気な方」
紅茶を置き、しばし考え込む。
やがて何かを決めたように立ち上がると、机の引き出しを開けた。
中から一冊のファイルを取り出す。
ぱらり、と表紙をめくる。
そこには、一人の少女の写真が綴じられていた。
年若い少女。
どこか怯えたような瞳。
背景には、古びた施設らしき建物が写っている。
女はそれを眺め、口元をゆるめた。
「せっかく、いい材料が手に入ったばかりだもの」
ファイルをテーブルへ投げ置く。
「材料は、新鮮なうちに使うに限るわね」
そのまま部屋の奥へ向かって声をかけた。
「グール。いる?」
一拍の沈黙。
次の瞬間、部屋の隅に落ちていた影がゆらりと揺れた。
『……はい。ここに』
低く、無骨な声。
そこに立っていたのは、いつからいたのか分からない男だった。
長身。
無駄のない体。
気配そのものが薄い。
見ていなければ、存在に気づけない類の男だった。
「あの件だけれど、予定を早めることにしたわ」
女は少女の写真へ視線を落とす。
「すぐ取りかかってもらえるかしら?」
グールは無表情のまま、深く頭を下げた。
『承知しました。仰せのままに』
返事と同時に、その姿は再び影へ溶けるように消えた。
女は満足げに頷く。
それからインターホンを押した。
「紅茶を淹れ直してちょうだい」
『かしこまりました』
秘書の声が返る。
女は再び窓の方を見る。
カーテンの隙間から、青空がのぞいていた。
忌々しげに鼻を鳴らす。
「……相変わらず、嫌になるほど澄んだ空ね」
だがその瞳だけは、次に曇るものが空ではないと知っていた。




