第七話 封印猫と首なしの民
封印された存在の力が加わった、その瞬間だった。
周囲の景色が、ゆっくりと暗く沈んでいく。
木々も、地面も、雨の匂いさえ遠ざかる。
世界そのものが、別の場所へ塗り替えられていくようだった。
『……邪魔が入らぬ所へ、行くとしよう』
低く響いた声と同時に、リュウの意識はふっと途切れた。
⸻
夢を見ているのか。
それとも、見せられているのか。
頭の奥へ、強制的に光景が流れ込んでくる。
しかも、ただの映像ではない。
その場にいた者の感情まで、生々しく伝わってきた。
――遠い時代だった。
空気も、景色も、今とは違う。
目の前には戦場が広がっている。
こちら側が優勢だった。
敵の本拠地へ、あと一歩というところまで追い詰めている。
だが、その空気の中に突然、激しい動揺が走った。
味方の中に、裏切り者が出たのだ。
陣が乱れる。
怒号が飛び交う。
それでも戦況そのものは、まだこちらに傾いていた。
なのに――視点の主だけが、なぜか追い詰められていく。
逃れようのない何かに、静かに追い込まれていく感覚。
そして、追い詰める側にもまた、深い悲しみがあった。
怒りでも、憎しみでもない。
どうしようもない悲しみだけが、その場を満たしていく。
やがて世界は再び闇に包まれた。
残ったのは――悲しみだけだった。
⸻
かすかな物音で、意識が浮上する。
「……っ!」
リュウは勢いよく身を起こした。
「そうだ……俺、寝てる場合じゃ……!」
視界に飛び込んできたのは、見知らぬ空間だった。
古い屋敷のような建物。
だが、完全な建築物ではない。
壁はある。
柱もある。
畳もある。
しかし天井はなく、外壁も途中で途切れている。
まるで映画のセットだけを切り取って置いたような、不自然な屋敷だった。
しかもその屋敷は、巨大な洞窟の中に存在していた。
周囲は岩肌に囲まれているのに、どこからともなく淡い光が差している。
暗いのに見える。
不気味なのに、妙な生活感があった。
「うぅ~~ん……」
近くから艶っぽい声がして、リュウは振り向く。
横たわっていたエチカが、ゆっくりと身を起こしていた。
「……ここ、どこ?」
まだ半分寝ぼけた顔で、ぼんやり辺りを見回している。
「あっ、エチカ。なんか……どっかの建物の中っぽい」
「え〜えっ? 何よそれ……」
その時だった。
「わしの隠れ家じゃ」
知らない声がした。
「……え?」
「まあ、封印されとる訳じゃがな」
二人は同時に声のした方を見る。
そこにいたのは――猫だった。
白と黒のまだら模様。
少しふくよかな体つき。
どこにでもいそうな普通の猫。
ただし、堂々と座って喋っていた。
「あっ、ニャンコがしゃべってる!」
エチカが素で叫ぶ。
「……よかった」
リュウは胸を撫で下ろした。
「俺だけがおかしくなった訳じゃないらしい」
「なんで猫が、しゃべってんのよ?」
エチカがじろりと睨む。
「なんでと言われても、しゃべる必要があるからじゃろうな」
猫はひげを揺らしながら、どこか偉そうに胸を張った。
「それに、一応名前くらいはある」
「シンちゃんとでも呼んでくれんかのう」
「シンちゃん……?」
「正式には、真景虎。姓は――安倍」
猫はゆっくり目を細めた。
「儂は、安倍 真景虎という者じゃ」
「……今は、見ての通り、ただの猫じゃがな」
その名を聞いた瞬間、リュウの記憶が跳ねた。
「あっ……うちのじいちゃんが言ってた“シンちゃん”って……!」
「爺ちゃん?」
猫が首を傾げる。
「キンちゃんのことか?」
「遠間欣治です。俺の祖父で……死んだっていうか、生まれたっていうか……」
「ややこしいのう」
シンちゃんはしみじみ頷いた。
「そうか。キンちゃんの孫か。あやつは元気か?」
そこへエチカが割り込む。
「キン爺なら元気よ。残念ながら」
「残念ながらとは何じゃ」
「それより」
エチカは腕を組んだ。
「色々よく分かんないことが山ほどあるんだけど、説明してくれるかしら?」
申し訳なさそうな言葉遣いなのに、態度は完全に取り調べだった。
シンちゃんはそっとリュウの耳元へ近づく。
「……この娘、いつもこんな感じなのかの?」
「ええ、まあ……今日はまだ遠慮してる方です」
「こわいのう……」
⸻
「ところで、あなた」
エチカがシンちゃんを指差す。
「私たちをここへ連れてきた、あの禍々しいやつ知らない?」
「あのおぞましい感じのやつ。おぞマン」
「ネーミング雑すぎるだろ」
リュウが即座にツッコむ。
シンちゃんは目をぱちくりさせた。
「あんたらをここへ連れてきたのは……儂じゃが?」
「…………えっ?」
二人の動きが止まる。
「じゃ、じゃあ……あなたが、あの悪霊のなれの果て?」
「随分な言われ方じゃのう!」
シンちゃんは不満げにしっぽを振った。
「気を探ってみれば分かるじゃろ」
言われるまま、二人は意識を向ける。
たしかに気質は違う。
だが、その波紋のような本質は、先ほどの封印された存在と同じだった。
「……本当だ」
「でしょ?」
シンちゃんは得意げに胸を張る。
「儂は邪悪な存在ではない。ただ、その力が強大すぎるゆえ恐れられておるだけじゃ」
「なるほど……」
リュウは妙に納得した。
「で、そのラブリーな人が、私たちに何の用かしら?」
エチカが平然と続ける。
(おいおい……)
リュウは心の中で叫んだ。
相手は封印されし大物だぞ。
「いや、儂が用というより、お主らが用あって来たのではないかの?」
「まあ、儂にも用が全くない訳ではないが」
シンちゃんはひげを揺らした。
「お主らをかどわかした、あの邪悪な者の正体と目的を知りたいのではないかの?」
「あっ、そう! 知ってるなら、さっさとゲロしなさいよ」
「言い方!」
リュウのツッコミもむなしく、シンちゃんは笑っていた。
「ほっほっほ。ではその前に、儂の昔話を聞いてもらいたいのじゃが」
「……長い?」
「そこそこ」
「じゃあ、お茶の一杯も欲しいわね。できればお茶菓子つきで」
「交渉すな!」
だがシンちゃんは平然としていた。
「あいにく茶は切らしておる。コーシーとクッキならあるがの」
「コーヒーとクッキーね?」
「それで手を打ってあげるわ」
⸻
数分後。
なぜか三人は、洞窟の中の屋敷セットにあるこたつへ入っていた。
熱いコーヒーとクッキーまで並んでいる。
(電源どこから来てるんだよ……)
リュウは深く考えるのをやめた。
シンちゃんは遠い目をして語り始める。
「昔の話じゃ。今でいう平安時代の頃……学校で習ったじゃろ?」
「あー……たぶん」
「儂らの時代は、もとは穏やかでよき世だった」
「だが、すべては奴らが来てから狂ったのじゃ」
「奴ら?」
リュウが身を乗り出す。
シンちゃんの瞳が鋭くなる。
「儂らは――首なしの民と呼んでおった」
空気が少し冷えた。
「やつらは人の欲望や疑念を煽り、世をヤツらの都合のよい形へ変えていった」
「上位の者は霊体として影から動き、下位の者は人の首から下を乗っ取り、人のふりをして世に入り込んだ」
「その結果、人里には戦が満ち、野には飢えが満ちた」
エチカも今度ばかりは黙って聞いている。
「当時、儂は朝廷で相談役のような立場におった。表でも裏でもな」
「やがて儂は一族と共に、首なしの民と戦う決意をした」
そこでシンちゃんの声が、少しだけ沈んだ。
「儂らは善戦した。奴らを追い詰めた」
「だが、あと一歩のところで……奴らは儂の弱点を突いた」
「弟たちじゃ」
リュウは夢で見た悲しみを思い出す。
「儂の兄弟――タカキヨとスエキヨ。その二人を乗っ取り、儂を封じる術に利用したのじゃ」
「儂は全力で消滅を防ぎ、この場所へ逆封印を施した。奴らがここへ容易に入れぬようにな」
「それで、このササオカが生まれたのじゃ」
しばしの沈黙。
やがてエチカがそっと尋ねた。
「……それで、あなたは何者なの?」
シンちゃんは鼻を鳴らした。
「表の顔では、別の名で呼ばれておった」
「安倍 晴明」
「えっ!?」
エチカが立ち上がる。
「え、え、あの有名な!?」
「ただし、後世に伝わった安倍晴明は、末弟クニキヨの姿じゃがの」
「ややこしい!」
リュウが叫んだ。
「じゃあなんで今、猫なんですか?」
「器が必要だっただけじゃ。たまたま近くに猫がおった」
シンちゃんはどこか誇らしげに胸を張る。
「蛇や蛙よりはマシじゃろう?」
「その比較、失礼じゃない?」
⸻
「で、要するに」
リュウが話を戻す。
「俺たちを襲ったのは、その首なしの民ってことか?」
「ぴんぽーん」
シンちゃんが前足を上げた。
「今はバテレン語でネック・ロストと呼ばれておるらしい」
「ある組織では、短くネクロスとな」
「ある組織って何よ!?」
エチカが食いつく。
「それは、いずれ分かるじゃろう」
「けち」
「目的は?」
リュウが尋ねる。
「それも、今は断言できん」
シンちゃんは真顔になった。
「だが一つだけ確かなことがある」
「奴らは、人間の負の感情を好む」
「怒り、欲望、恐怖、絶望……それらを食らって力とするのじゃ」
リュウの背筋に寒気が走った。
エチカも苦い顔でつぶやく。
「……よく分かったわ。仲良くできる相手じゃないってことね」
「うむ。その通りじゃ」
シンちゃんは頷き――余計な一言を足した。
「ただ、嬢ちゃんと仲良くできるのも、普通の人間には難しいかもしれんがの」
静寂。
次の瞬間。
「は?」
エチカの笑顔が凍った。
「うっさいわねぇぇぇぇ!!」
洞窟全体に怒声が響く。
こたつが揺れ、クッキーが宙を舞い、シンちゃんは高速で壁へ叩きつけられた。
「保健所に叩き込むわよこの猫ォォォ!」
「すまん! 謝る!」
「生前も死後も他人に謝ったことはないが今謝る!」
「その情報いらない!」
リュウは頭を抱えた。
⸻
数分後。
ぼろぼろになったシンちゃんが、ふらつきながら小箱を持って戻ってくる。
「……これを見せてやるから、許してくれんかの?」
「儂の大事な宝物じゃ」
神々しい小箱をエチカへ差し出した。
「何よこれ……」
箱を覗き込んだエチカの目が、次の瞬間見開かれる。
「……これ、私の小さい頃の写真じゃない!!」
「なんであんたが持ってんのよ!!」
リュウも覗き込む。
たしかに幼い頃のエチカだった。
しかも無防備な寝姿などのオンパレード。
「い、いや! これはキンちゃんから譲り受けたものじゃ!」
「正当な所有権が――」
「没収」
エチカは即答した。
「あと他のも全部出しなさい」
奥に積まれた同じような小箱を指差す。
「ひぃっ」
その後、押収された箱の中からは、幼いエチカのほか様々な写真が次々と発見された。
「……最低ね」
「違う! 儂ではない!」
「キンちゃんから、もらったんじゃ!」
「共犯も同罪よ」
シンちゃんは完全に容疑者の目で見られていた。
リュウは深いため息をつく。
「じいちゃん……何やってんだよ」
⸻
だが、その直後だった。
シンちゃんは急に声をひそめ、エチカへだけ視線を向けた。
「……嬢ちゃん、ちとこっちへ来い」
「はぁ?」
「大事な話じゃ」
エチカは一瞬だけ怪訝そうにしたが、すぐにリュウをちらりと見た。
「ちょっと行ってくる」
「え、何? 何の話?」
「子どもにはまだ早い話よ」
「年下のくせに何その上から!?」
リュウの抗議を無視し、エチカはシンちゃんのそばへしゃがみ込んだ。
猫と少女が、こそこそ耳打ちを始める。
「………………」
「………………?」
「…………!」
「……へぇ」
リュウには、まったく聞こえない。
しかも途中から、エチカの目つきが少しだけ変わった。
いつもの強気な顔の奥に、ほんの少し真剣な色が混じる。
「なるほどね……」
やがてシンちゃんは、こっそり何かを差し出した。
小さな、丸い玉のようなものだった。
淡く光ったようにも見えたが、すぐにエチカの手の中へ隠れてしまう。
「それ、何だよ」
思わずリュウが聞く。
エチカは一瞬だけこちらを見て、にやりと笑った。
「秘密」
「絶対ろくでもないやつだろ」
「失礼ね。これは私への正当な報酬よ」
「写真返却交渉の流れだよな!?」
シンちゃんは咳払いした。
「ほっほっほ。細かいことは気にするでない」
どう見ても、細かいことで済ませてはいけない感じだった。
だがエチカは満足げだった。
そっと制服の内ポケットへ、その玉をしまい込む。
「いいわ。それで手を打ってあげる」
「助かったわい……」
シンちゃんが本気で安堵している。
リュウだけが完全に置いていかれていた。
「いや、俺だけ何も分かってないんだけど!?」
「いいのよ。あんたは分かってなくて」
「なんでだよ!」
「その方が面白いから」
「最低だな!」
だがエチカは、それ以上何も言わなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ。
ポケットの上から、それを確かめるように手を当てた。
⸻
写真騒動が一段落した頃。
今度はシンちゃんが、リュウを目で呼んだ。
「……お主だけに言っておく」
「え?」
猫の瞳が、先ほどまでとは別人のように鋭くなる。
「ラストルート……いや、あの器を求める者」
「あやつは、お主を偶然狙ったのではない」
「……!」
「昔から流れを見ておる者の目じゃ」
「お主が何物か、知ったうえで近づいておる」
リュウの心臓が重く鳴った。
「じゃあ俺は……」
「巻き込まれたのではない」
シンちゃんは静かに言った。
「最初から、渦の中におる」
その言葉は妙に重かった。
軽く返せるものではない。
「……でも、まだ決まってはおらん」
「どうなるかは、お主自身が決めることじゃ」
リュウはしばらく黙り込み、やがて小さく頷いた。
⸻
「こそこそ何話してんのよ!」
エチカの声が飛ぶ。
見ると、写真を手に持ったまま睨んでいた。
「別に」
「怪しい」
「お主、怖いのう……」
「まだ言う?」
「いや何でもない」
⸻
その後、シンちゃんは咳払いをして居住まいを正した。
「今後も何かあればここへ来るがよい」
「儂からも、分かったことがあれば知らせよう」
「ただし」
前足をぴしっと上げる。
「次は、せめて高級クッキーを持参するように」
「図々しいわね」
「そこはぶれないんだな……」
それでもリュウは少し笑った。
「……了解。また来るよ」
エチカも腕を組みながら鼻を鳴らす。
「まあ、使えるなら使ってあげる」
「上からじゃのう……」
⸻
やがて二人は、シンちゃんに教えられた外への抜け道を通ってササオカを後にした。
外へ出ると、すでに夜だった。
雨は止み、空には満月が浮かんでいる。
神宮の森は静まり返り、先ほどまでの騒動が嘘のようだった。
石段を下りながら、リュウは月を見上げる。
ネクロス。
首なしの民。
平安の因縁。
そして、自分自身。
世界は、自分が思っていたよりずっと深く、ずっと厄介らしい。
「で、エチカ」
「なによ」
「その写真は、持って帰るのか?」
エチカは鞄へ写真をしまい込み、にやりと笑った。
「あったり前でしょ」
「私の写真だけは、渡すはずないじゃない!」
「まあ、そうだよな……」
その時だった。
森の奥で、何かが揺れた。
二人が振り向いた時には、そこにはもう何もいない。
だが、たしかに気配だけが残っていた。
見張るような、冷たい視線。
リュウは無意識に拳を握る。
まだ終わっていない。
何もかも、これからなのだと。
その隣で、エチカもまた無言のまま、そっと胸元に手を当てていた。
制服の内ポケット。
そこに隠した、小さな秘密を確かめるように。
二人の足音は、月夜の参道へ静かに消えていった。




