第九話 魅入られた少女(前編)
今日は、実にいい天気だった。
雲ひとつない青空。
やわらかな春の陽射しが校舎を包み、吹き抜ける風まで機嫌がいい。
そんな昼休み。
校舎裏の定位置で、ひとり幸福の絶頂にいる少女がいた。
須比野エチカである。
青空の下、自分の好きなものばかり詰め込まれた弁当を、誰にも邪魔されず、無心で食べる。
これを幸せと呼ばずして、何を幸せと呼ぶのか。
エチカは心の中でそう断言しながら、目を細め、猫が喉を鳴らすような笑顔で弁当を頬張っていた。
「あっ……この味つけ、最高……神だわ♪」
煮物をひと口食べて、思わずうなる。
エチカは派手な性格に反して、食の好みは案外渋い。
特に母親の作る煮物には目がなく、これが入っている日は機嫌がいい。
今日は大当たりの日だった。
世の女子たちは、なぜ昼食時になると群れたがるのか。
エチカには昔から、それが理解できない。
食事とは味わうもの。
語るより、まず食べることに集中すべきである。
それが彼女の信条だった。
そんな幸福の時間を満喫していると――。
「あっ、エチカ発見! やっぱりここにいた!」
元気な声が飛んできた。
振り向くと、制服姿の少女がこちらへ駆け寄ってくる。
「あっ……みっちょん!」
高杉美幸。
中学時代の同級生で、今は隣のクラスにいる友人だった。
「久しぶりだね」
エチカは、もぐもぐしながら言う。
「よくここ分かったね」
「あんたがここで食べてるの、みんな知ってるよ」
「ただ、昼ごはんの邪魔すると機嫌悪くなるから、みんな見て見ぬふりしてるだけ」
「えっ、そうかなぁ……」
「そうだよ」
みっちょんは笑ったあと、少しだけ表情を曇らせた。
「あのさ……今日はちょっと話があって来たんだ」
エチカの箸が止まる。
「……なに?」
「中学の時にいたでしょ? 立花絵里香って子」
「あー……うん。なんとなく覚えてる」
「その子が、最近亡くなったんだよ……」
「えっ!?」
エチカが目を丸くする。
「まだ高校生でしょ?」
「うん。急な病気って話らしいけど……」
そこで、みっちょんは声を落とした。
「それでさ。由紀ちゃんのこと、覚えてる?」
その名前に、エチカの表情が変わった。
由紀。
中学一年の頃、突然この世を去った少女。
「あ……うん」
「最近また、その話が出てるんだ」
「由紀ちゃん、いじめられてたんじゃないかって」
「……いじめ?」
「しかも、その中心にいたのが絵里香だったって噂」
エチカは思わず声を上げた。
「まさか! 由紀ちゃんが、何か関係してるっての?」
由紀は明るく、優しく、人を疑わない子だった。
いつも笑っていて、周囲まで明るくするような子だった。
そんな彼女が、自ら命を絶った。
あの時も、今も、信じ切れてはいない。
「いや、そこまでは分からない……あくまで噂話だから……」
みっちょんは肩をすくめる。
「ただ、なんか気になってさ……」
そして、いつもの調子で笑った。
「じゃっ! 邪魔したね。あんま食いすぎんなよ!」
手を振りながら去っていく。
エチカも笑顔で見送った。
「私から食欲取ったら、何も残んないじゃん!」
姿が見えなくなったあと、エチカは弁当箱を閉じた。
さっきまでの幸福そうな顔は、もうない。
「……分かったよ、みっちょん」
小さくつぶやく。
「その続きは、私が調べるか……」
そして、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「まっ、もちろん……あいつにも付き合ってもらうけどねっ♪」
⸻
その頃、俺――遠間リュウは、屋上で空を眺めていた。
すると突然、背筋がぶるっと震えた。
「……嫌な予感」
こういう勘は、よく当たる。
俺は少し早いが、教室へ戻ることにした。
⸻
そして、その日の放課後。
俺は友人の安内宝と一緒に下校していた。
目的はただひとつ。
新作ガンダムDVD鑑賞会である。
「今回の音楽、ヤバいよな!」
「ああ! ストーリーももちろんだけど、BGMが神なんだよ!」
熱い議論を交わしながら歩いていると――
「ふっ……くっだらな〜い!」
背後から冷たい声がした。
振り向く。
……いた。
エチカだった。
「あれっ!? エチカ、いつから後ろにいたんだよ!」
「あなたたちが、くっだらないガンダム談義を始めた頃からよ!」
宝が即座に反論する。
「いやいやいや、ガンダムを普通のロボットアニメと一緒にしないでもらいたい!」
「ガンダムには思想と現実性が――」
「うるさいわね、ロボットオタク!」
一撃だった。
宝は沈黙した。
どうやら大事な部分が損傷したらしい。
「あのさ、エチカ。何か用?」
「今日、ちょっと付き合ってほしいことがあるの」
「いや、今から大事な予定が――」
「ど〜せ! ガンダムのDVDを見るとかでしょ?」
「そんなのは後回しよっ!」
出た。
エチカ理論である。
「いや、もう頭の中はガンダムなんだよ!」
「今見ないと収まらないんだ!」
するとエチカは顔を覆った。
「わ、私というものがありながら……」
「何の話だよ」
「ちっ……」
「今日のことは十年前から約束していたはずよ」
「十年前は出会ってないし!」
「孫子の代まで祟るわよ!」
「怖っ!」
そこへ宝が助け舟を出した。
「リュウ……これ以上刺激すると、本当に祟られるぞ」
「DVDは貸しとくから、見終わったら返してくれ」
「宝……!」
「へぇー、あんた。いいとこあるじゃん」
エチカは腕を組んで頷く。
「そのうち、よい加護を与えてやろう」
「おまえは神様か」
「エチカ様よっ!」
……というわけで。
今日も俺は、エチカに巻き込まれることになった。
⸻
「で……どこへ行くの?」
「あのね。友達の家に付き合ってほしいの」
「そこに変な気配がないか見てほしい」
「私にもできるけど、探知はリュウの方が上だから」
「ふーん……で、その友達って?」
「話すと長いから後で」
「じゃあ、遠いの?」
「遠くないわ。黙ってついて来なさい」
「へいへい」
歩く間、エチカは珍しく静かだった。
騒がしいこいつが黙っていると、逆に気味が悪い。
「……なんか、そんなに厄介事なのか?」
「厄介っていうより、面倒な話かな」
「もしかしたら……いじめが関係してる」
「いじめか。ジメジメした話だな」
「……それ、シャレてる?」
「えっ、あっ、気づかなかった」
⸻
十分ほど歩いた先に、一軒家が見えてきた。
表札には――立花。
エチカは意を決したようにインターホンを押した。
しばらくして、家の中から女性の声がする。
「はい……」
「あっ、突然すみません。私、中学時代の知り合いで……須比野恵千香と申します」
「立花さんに、ご焼香をさせていただければと思いまして……」
しばし沈黙。
やがて玄関が開いた。
「……どうぞ」
俺たちは家へ通された。
中は静まり返っていた。
仏間には、立花絵里香の遺影が飾られている。
笑顔だった。
その笑顔が、かえって痛々しい。
エチカが小声で尋ねる。
「……どう?」
俺は目を閉じ、気配を探る。
「……強いものはない。でも、以前ここで霊的な干渉があったような痕跡はある」
「そう……」
それ以上の収穫はなかった。
焼香を済ませ、俺たちは立花家を後にした。
⸻
二人で無言のまま歩いていると、ふと背後に違和感を覚えた。
「……エチカ」
「うん。私たち、つけられてるね」
どうやら気づいたのは同時だったらしい。
「立花家を出た頃からだな」
「しかも、あんまり気持ちのいい気配じゃない」
俺たちは視線を交わし、近くの路地へ入った。
そのまま全力で駆け抜け、別の道から大きく回り込み、元いた路地へ戻る。
そこにいたのは――
ひとりの少女だった。
どこか怯えた顔。
痩せた身体。
そして、まとわりつくような負の気配。
エチカが営業スマイルを浮かべる。
「あのー、すみません。ちょっと道をお聞きしたいんですが」
少女は、びくっと肩を震わせた。
俺はエチカへ小さく頷く。
間違いない。
この子は何か知っている。
エチカは笑顔のまま続けた。
「この辺で、立花さんのお宅ってご存じですか?」
少女はしばらく黙っていたが――
やがて、ふっと笑った。
「……須比野さん、だよね?」
「え?」
「私、覚えてない?」
「松山葉澄」
エチカの脳内で、何かが回転した。
数秒後。
「あーーーーっ! ハズミちゃん!?」
少女は肩をすくめる。
「ようやく思い出した?」
エチカはまじまじと見つめ、次の瞬間――
「えっ、ちょっと待って……すっごい痩せた? 何そのダイエット! 私にも教えて!」
……そこなのかよ。
葉澄は、ぽかんと口を開けた。
俺は空を仰いだ。
嫌な予感は、やっぱり当たっていた。




