第二話 閉ざされた空間
その日の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
黒い影。
頭の奥に響いた声。
――もうすぐ、門が開く。
何度考えても意味が分からない。
だが、ただの見間違いで片づけるには、あまりにも生々しかった。
窓の外では春の風が校庭を渡っている。
教室には先生の声が流れ、クラスメイトたちはいつも通りの日常を過ごしていた。
なのに、自分だけがそこから少し外れた場所にいるような感覚がある。
「遠間」
不意に名前を呼ばれ、リュウは顔を上げた。
教師が呆れた顔でこちらを見ている。
「話、聞いてたか?」
「えっ……すみません」
「珍しいな。お前が上の空なんて」
教室のあちこちで小さな笑いが起きる。
リュウは気まずそうに頭をかき、再びノートへ視線を落とした。
だが、文字はひとつも頭に入ってこなかった。
⸻
放課後。
昇降口を出ると、校門の近くで見慣れた少女が腕を組んで立っていた。
須比野 恵千香――エチカ。
一つ下の後輩であり、本人いわく“主人”らしい存在だ。
「遅い」
開口一番、それだった。
「待ってやってたんだから感謝しなさい、しもべ」
「誰がしもべだよ」
「小さい頃、悪霊に泣かされてたあんたを助けた恩人でしょうが」
「泣いてねえよ」
「半泣きだった♪」
「盛るな」
エチカはふんと鼻を鳴らす。
「とにかく、一生しもべ確定なんだから文句言わない」
「勝手に俺の人生決めるな」
いつものやり取りだった。
それだけで、少し気が楽になる。
朝の出来事も、こうして馬鹿みたいな会話をしていると現実味が薄れていく。
だが――
「……まだ気にしてるの?」
歩き出したエチカが、前を向いたまま言った。
「何が」
「朝のあれ」
リュウは少し黙る。
「……まあ、な」
「珍しい。しもべのくせに繊細」
「その言い方やめろ」
「でも、たしかに変だったわね」
珍しく真面目な声だった。
「おまえでもそう思うんだな」
「見えなかったけど、気配はあった。あれは普通の浮遊霊じゃない」
その言葉に、リュウは顔をしかめる。
小さい頃から、二人は普通ではないものを見てきた。
怖い思いも、一度や二度ではない。
だからこそ、リュウは慎重になり、エチカは踏み込む側になった。
⸻
二人は住宅街の帰り道を並んで歩く。
夕焼けに染まる通学路。
買い物帰りの人々。
遠くを走る車の音。
見慣れた景色――のはずだった。
ふと、リュウは足を止める。
「……静かすぎないか?」
「え?」
エチカも立ち止まり、辺りを見回した。
人がいない。
車の音も、話し声も、風のざわめきさえ遠い。
まるで、この場所だけ世界から切り離されたような静寂。
その瞬間。
足元に黒い線が走った。
「下がれ!」
リュウが叫ぶ。
だが、遅かった。
地面が裂ける。
視界が反転し、重力の感覚が消えた。
⸻
深い闇だった。
上下も左右も分からない。
足元があるのかさえ曖昧な、底なしの暗黒。
リュウは勢いよく身を起こす。
「っ……ここは……」
その時、闇の奥から声が響いた。
『汝は何者だ』
『汝は何を望む』
『汝は何を拒む』
冷たく、感情のない声。
頭の中を直接なぞられるような不快感が走る。
「誰だ!」
返事はない。
代わりに、別の声が飛んだ。
「リュウ!」
聞き慣れた少女の声。
次の瞬間、暗闇が白く弾けた。
⸻
目を開けると、すぐ目の前にエチカがいた。
そして、その手には大きな白い塊が握られている。
エチカはぴたりと固まり、無言でそれを背中に隠した。
「……何してた?」
「何も」
「いや、何かしてただろ」
「別に、何もしてない」
「白い塊見えてたぞ」
「幻覚じゃない?」
「その押し通し方やめろ」
さっきまでの異様な空気が、少しだけ和らぐ。
だが、周囲の空間は明らかに異様だった。
床のようなものはある。
だが壁も天井もなく、遠くは闇に溶けている。
エチカは周囲を見渡し、真顔になった。
「現世じゃない」
「分かるのか?」
「少なくとも普通じゃない。霊界でもない」
「じゃあ何なんだよ」
「真霊界に近い。でも変。……空間ごと切り取られてる感じ」
「そんなこと、できるのか?」
「普通は無理。でも、普通じゃない相手ってことでしょ」
その言葉と同時に、四方の闇に裂け目が走った。
黒い亀裂が開き、粘つくような邪気が流れ込んでくる。
「歓迎ってわけね」
エチカはむしろ楽しそうに笑った。
「おまえ怖くないのか」
「今さら何を言ってるの、しもべ」
「その呼び方やめろって」
裂け目は四つ。
だが、現れたのはまず一体だけだった。
黒い塊。
それは膨れ上がり、やがて巨大な毛玉のような怪物へと変わる。
三階建ての建物ほどもある巨体。
燃えるような赤い目。
体の中央は裂け、巨大な口のように開いていた。
「……でかすぎるだろ」
怪物が低く唸る。
口の奥で、闇そのものが渦を巻いていた。
次の瞬間。
周囲の空気が引きずられる。
吸い込んでいる。
床の破片も、黒い霧も、この空間そのものまで飲み込むように。
リュウは即座に一歩前へ出た。
反射的な行動だった。
危険を前にすると、体が先に動く。
「へえ」
エチカがその背中を見て笑う。
「少しは主人の盾らしくなってきたじゃない」
「誰の盾だよ」
「私のに決まってるでしょ」
「勝手に決めるな」
それでも、リュウは怪物から目を離さない。
エチカが一歩前へ出る。
「リュウ」
「何だよ」
「しもべらしく援護しなさい」
「命令形かよ!」
「当然でしょ」
エチカが手をかざす。
その瞬間、空気が白くきらめいた。
大気中の塩分が一気に引き寄せられ、彼女の掌の上で渦を巻く。
白い粒子は圧縮され、鋭さを帯び、武器へと姿を変えていく。
怪物が大きく口を開き、二人へ迫る。
エチカは不敵に笑った。
「じゃあ、始めましょうか」
闇の空間に、白い光が走る。




