第一話 遅刻と見えない障害物
春先の朝は、まだ少し冷たい。
そんな通学路を、一人の少年が全力で駆けていた。
「くそっ、なんで起こしてくれないんだよ……!」
母親への理不尽な恨み言を吐きながら、遠間 隆――通称リュウは、食パンをくわえたまま走り続ける。
ただし、その走り方は普通ではなかった。
何もない空間を飛び越え、急に身をかがめ、横へ跳ぶ。
まるで見えない障害物を避けているような、不自然きわまりない動きだ。
しかも、そのたびに舌打ちまで混じる。
「ちっ……また増えてやがる」
リュウは前方をにらみつけた。
通学路のあちこちに、普通の人間には見えない“何か”がうろついている。
黒い影。
ぼやけた塊。
人の形をしているのに、輪郭だけがゆがんだもの。
電柱の陰に張りつくやつ。
道の真ん中で漂うやつ。
最近、こういう連中が妙に多い。
小さい頃から見えていた。
慣れてはいる。
だが、好きになれるわけがない。
「遅刻したら、まとめて祓ってやるからな……!」
誰に向けたのかも分からない悪態を吐き、リュウは道の真ん中にいた半透明の塊を跳び越えた。
その先に、小柄な少女が立っていた。
のんびり歩き、しかも余裕たっぷりに立ち止まっている。
こちらとは対照的に、息ひとつ乱れていない。
須比野 恵千香――エチカ。
一つ下の幼なじみであり、本人いわく主人。
リュウいわく、腐れ縁だ。
エチカは駆け寄ってくるリュウを見るなり、呆れたように眉をひそめた。
「朝からずいぶん騒がしいと思ったら、リュウじゃない。何そんなに慌ててるの?」
「あのな、学生が朝に慌てる理由なんて一つしかないだろ!」
リュウは足を止め、肩で息をしながら叫ぶ。
「俺はエチカと違って遅刻できないんだよ! 次やったら本気で終わるんだ!」
「大げさねえ」
「大げさじゃない!」
「しもべのくせに忙しいわね」
「誰がしもべだ!」
走り出しかけたリュウに、エチカはのんびり声を投げた。
「何焦ってるのよ。まだ八時前だよ?」
勝ち誇ったように腕を上げ、手首の時計を見せつける。
だが、それを見たリュウはぴたりと止まった。
嫌な予感がした。
引き返し、エチカの手首をつかんで時計をのぞき込む。
数秒の沈黙。
「……エチカ」
「なによ」
「これ、秒針……止まってないか?」
「えっ」
次の瞬間。
エチカの表情が凍りつき、そのままリュウの襟首をつかみ上げた。
「もっと早く言いなさいよ!」
「今気づいたんだよ!」
突き飛ばされたリュウの横を、エチカが猛ダッシュで駆け抜ける。
「最悪! また加代に嫌味言われるじゃない!」
「俺のせいじゃないだろ!」
「うるさい!」
叫んだ瞬間、エチカの周囲の空気が揺らいだ。
空気中の水分や微粒子に含まれた塩分が引き寄せられ、白い粒となって彼女の手元へ集まる。
次の瞬間、それは散弾のように撃ち出された。
リュウは反射的に身をかわす。
白い粒が空中を散り、その先で通学路の端に浮いていた影の塊がびくりと震えた。
そして、ものすごい勢いで飛び退く。
「……」
リュウはそちらを見た。
見間違いではない。
完全に避けた。
エチカは鼻を鳴らす。
「ぼさっとしてるからそうなるのよ」
「今の俺にも飛んできてたんだけど」
「知るわけないでしょ」
「ひどすぎるだろ!」
「だいたい、もっと早く教えなさいよ。遅刻したら全部あんたらのせいなんだからね!」
「あんたらって何だよ。俺はそいつらと仲間じゃないぞ!」
「うるさい!」
今度はさらに大量の白い粒が放たれる。
リュウが身を低くした向こうで、道端にいた人型の影が掻き消えるように消えた。
「……また消えた」
「消えたわね」
「おまえ、絶対わざとだろ」
「さあね♪」
悪びれもせず、エチカは前を向いて走る。
結局、二人は並んで学校へ向かうことになった。
ただし、普通の登校風景とはほど遠い。
リュウは見えない何かを避け、エチカは塩をばらまきながら突っ走る。
「ほんと最近多いよな……」
リュウがつぶやく。
「何が?」
「こいつらだよ。前はこんなにいなかっただろ」
「まあ、言われてみればそうかもね」
エチカは気にも留めない様子で答えた。
「でも、あんたが勝手に巻き込まれてるだけじゃないの?」
「そんなわけあるか。おまえだって攻撃してるだろ」
「それは気分」
「雑すぎるだろ……」
その時だった。
リュウの耳元で、不意に声がした。
『――やっと見つけたよ』
ぞくり、と背筋が粟立つ。
リュウは急停止し、反射的に振り返った。
通学路のど真ん中。
朝日が差し込むその場所に、誰かが立っていた。
いや。
立っている“ように見えた”。
人の形をしている。
だが輪郭は曖昧で、黒い霧を無理やり人型に押し込めたように揺らいでいる。
それなのに、視線だけははっきり分かった。
まっすぐ、リュウを見ている。
「どうしたの?」
先を走っていたエチカが振り返る。
「今、誰か……」
「誰か?」
エチカは眉をひそめ、リュウの視線の先を見る。
だが、怪訝そうに首をかしげた。
「何もいないじゃない」
「いや、いるだろ。あそこに……」
言いかけた時だった。
影の存在が、ゆっくりと口を開く。
『君に、知らせなければならない事がある……』
声は耳からではない。
頭の奥へ直接響いてきた。
リュウは思わず一歩下がる。
「何だよ、お前……」
『世界が、ほどけ始めている』
「は?」
『もう時間がない』
意味が分からない。
だが、その声に冗談の気配はなかった。
エチカが不審そうにリュウを見る。
「ねえ、誰と話してるの?」
「聞こえないのか?」
「だから、何がよ」
その瞬間、影がこちらへ近づいた。
歩いたのではない。
空間ごと滑るように距離を詰めてきたのだ。
リュウの喉がひくりと鳴る。
「触れるな!」
とっさに叫んだ。
だが次の瞬間、エチカがリュウの前へ出る。
「何だか知らないけど、気持ち悪いのはだいたい散らせばいいのよ」
彼女が手をかざす。
空気が白くきらめいた。
周囲の塩分が一気に集まり、無数の粒となって宙に舞う。
それが影へ降りかかった瞬間――空気がびりっと震えた。
見えなかったはずのものが、確かに“そこにいる”と分かるほど、空間がゆがむ。
エチカの表情が変わった。
「……今の、何?」
「見えたのか?」
「一瞬だけ。でも、ものすごく嫌な感じがした」
影は塩を浴びながら輪郭を乱し、崩れそうで消えない。
そして最後に、リュウだけを見て告げた。
『もうすぐ、門が開くよ』
その言葉を残し、影はふっと消えた。
あとには、アスファルトに黒い染みのような痕だけが残る。
朝の風が吹き抜ける。
さっきまでの異様な気配が、嘘のように薄れていった。
しばらく黙っていたエチカが、口を開く。
「……ねえ、リュウ」
「何だよ」
「今の、本当にいたの?」
「いたよ」
「何て言ってたの?」
リュウは黒い痕を見つめたまま答えた。
「……門が開く、って」
エチカはわずかに眉を寄せた。
さすがの彼女も、嫌なものを感じたらしい。
だが、その空気を切り裂くように遠くから音が響く。
学校の予鈴だった。
二人は同時に顔を上げる。
「……やばくない?」
「やばいわね」
「これ、完全にやばいだろ!」
「何してんのよ、あんたが立ち止まるからでしょ!」
「元はといえばおまえの時計が――」
「いいから走る!」
言うなりエチカが飛び出した。
「また俺のせいかよ!」
リュウも慌ててその背を追う。
朝の通学路を、二人の足音が駆け抜けていく。
だが、リュウの頭の奥には、あの言葉だけが重く残っていた。
――門が開く。
ただの見間違いでも、変な霊のたわごとでもない。
なぜかそれだけは、確かな予感として胸の底に沈んでいた。




